劇場公開日 2023年11月3日

「人間性がない人間を描いたもの」ゴジラ-1.0 Kildareさんの映画レビュー(感想・評価)

1.0人間性がない人間を描いたもの

2023年11月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

寝られる

まず前提として「ゴジラ映画」を観に来たんですよね。
それでなんだか高評価が多いが、ゴジラの出番が少なく、だらだらの人間ドラマを見せられる。その人間ドラマも嘘くさい。
いやいや、もう一度考え直そうよ。映画評論家や考察Youtuberでもない限り、普通の人は年に2~3本、映画を見るくらいですよね。それで公開前から話題になっていて楽しみにしていた映画が「ゴジラのシーンは良かったよ。多少、人間ドラマで「あれ?」という部分があったけど。」じゃ、駄作に過ぎない。
シン・ゴジラのテンポの速さで初見の時にあっという間と思ったが、「えっ、そんなことする?」なんて思いは出て来なかった。物語を通して出来事にきちんと理由があることをクドくなく示して、観客を上手く誘導してきてるでしょ。山崎監督は観客置き去りに思う部分がありすぎ。総じてドラマが面白くない。VFXの素晴らしさを見せつけられただけ。
庵野監督といえば、エヴァでは観客それぞれに好きなキャラクターがいるように、シン・ゴジラでも助演キャラに人気が出ている。尾頭ヒロミさん、みんな好きだよねw それは人間の書き方が上手いからでしょ。キャラは庵野監督の投身でしょという人もいるが、それでもキャラが十分に魅力的。エヴァの戦闘シーンだけを褒めて、「シンジの描き方が足りなかったなぁ。」という感想はあまり見ないでしょ。それは庵野監督がアニメ作品の製作に精通しているからだと思います。他のアニメもそう。ガンダムを戦闘シーンだけ見るためにシリーズを通して視聴する人、いないですよね。きちんと視聴者のほうを向いている。そうしないと打ち切られますからね。
山崎監督、脚本つくり、無理です。艇長がよかった、学者がよかった、小僧がよかったとなる? 典子も浜辺美波さんが素敵なだけでしょ。そもそも敷島に感情移入すらできない。アニメ作品ではことごとく失敗し、独断過ぎて「ユア・ストーリー事件」なんて言われているくらいだから。

自分の戦争が終わっていない。そういう主人公の敷島は不幸に遭った典子の復讐に立ち上がることもない。典子を母と思うようになった昭子がその母をうしなった悲しみからの泣き声を聞いているのに、昭子を抱きしめるのでもなく、大戸島で見殺しにした整備兵たちの呪いにしか聞こえない。えぇぇ? 小さい子が泣いてるんだよ。
縁があって知り合った「学者」が立案し、指揮を執る「海神作戦」があるのに私怨に駆られ別行動を取る。そこで得た「震電」は典子の復讐のためではない。自分の戦争を終わらせるため。それは昭子がやっと得た「両親」をまた奪う行為。隣人の澄子に育児の責任を押し付けている。それは「震電」に取り付けられた装置が解決するものではない。昭子に「遺書」とも取れる手紙を託していくか?
反対されてでも澄子に事情を話してから出征すべきでしょ。
それでいてラストで昭子とともに典子の元に訪れる敷島は自分だけが典子に抱き着いて昭子はほったらかし。自分が求める時にだけ典子と昭子を受け入れていない。

銀座の大通りで、ゴジラの進行方向にしか逃げない群衆や敷島、典子。海上ではゴジラの追跡に蛇行をせず、前進するのみの船。全てロボットのよう。
作戦を説明する「学者」は「浩さんに最後まで聞いてほしいんだ。」と言うが、そこには集まった帰還兵たちも多くいるのに。そこは「みんな、この作戦に不安を感じていると思うが、みんなには最後まで作戦を聞いてほしいんだ。」でしょ。
その帰還兵たちのなかにはその場を去る者もいるが、残った者が「作戦実行」に鼓舞するシーンも嘘くさい。「反戦」がテーマだったんじゃないの? 立ち去った者の考えも間違ってないじゃん。それが「生きて、抗え」が「ゴジラに抗え」となり、むしろ「戦うことの賛美」となっている。そういえば永遠の0もそんな逆転を感じたよね。
前述にはなるが、主人公は「学者」が作戦準備を進めなければいけないなかで、自分のための戦闘機を欲する。機雷の爆発で負傷したゴジラには内部の攻撃に弱いという自分の意見に基づくもの。速度が早い飛行機なら船舶よりも効率的にゴジラを誘導出来る。もう「学者」の作戦なんて無いも同じ。だったらゴジラ来襲でさっさと発進すれば?発進にまたドラマを挟む暇があったら緊急発進の演出のほうが緊迫感がある。
それが通じるなら、ゴジラ来襲のたびに飛行機でゴジラを沖合に誘導すればいいんじゃない? ゴジラ、仕留める必要、ないじゃん。
隣人である澄子が帰還兵の敷島を兵隊さんが「しっかりしていたら、娘は...」と呪ってさえいたのに、すっかり親切なお隣さんになる。その心変わりも説明しない。
佐々木蔵之介の大げさなセリフ、吉岡君にしか見えない「学者」、戦争に固執する「小僧」どれも人間が描かれない。遺恨を残しているはずの整備士の橘があの装置を取り付けるに至った心境の変化も語られない。そういうお涙ちょうだいが視聴者に受けるから。
くだらないことだが、海底が1,500メートルもある海原で、ゴジラが戦闘機で攻撃できるように立ち上がっている。そこまでゴジラが立ち立ち上がるのに、ゴジラは海中でアヒル泳ぎでもしているのか? 居酒屋で作戦の話なんてするか?
人間がただのシナリオのためのアイコンとなっていて、人間性が感じられないなかで、ゴジラすら行動原理がない。何故、日本を攻撃するのか、ビキニ環礁での核実験は米国によるものではないのか。
自己すらを破壊してしまう熱線をゴジラが放つ意味が分からない。戦車程度の攻撃なら踏みつぶせばいいのに。だからこそ熱線を放ったゴジラの口元の崩壊が「単なる面白い演出」でしかない。そう、全ては「演出」のためだけに全ての登場人物が動いているのだ。だからこそ違和感を感じる。そんなことをするか。それは敷島に届いた電報を勝手に読む澄子の行動にすら違和感を感じさせるものだ。
ラストには、やっと訪れた敷島の心の平和。典子との涙の再会。そこに典子の首元への余計な演出が加わる。「典子」が「敷島に訪れた平和の象徴」から「人類を滅ぼしかねない邪悪な存在の再来」を示唆する演出で使い捨てられる。「そうすれば伏線ぽくて面白いから」そう、登場人物が「演出」のために使い捨てられていくのだ。
庵野監督の「シン・ゴジラ」でも映画内では人物の深掘りはされないが、視聴者が初見で気が付かないほどのセリフで少しづつ人物像が描かれる。「エヴァンゲリオン」で大衆を描けていないと言われた庵野監督だが、小さなシーンやセリフなどで押しつけがましく感じさせずに「ゴジラに対する国民の衝動」を感じさせるものになった。それが主人公たちの行動原理を強めていくのだ。
それなのに「ゴジラ -1.0」はドラマの全てが「山崎監督が、永遠の0にも通ずるかっこいい特攻シーンを描くための準備」になっている。
初めて観た際に「再びゴジラが観られた喜び」「決してハリウッドに引けを取らないVFX」で高揚感を感じたのは事実。「面白い」とも思った。だが、だんだんとこうも思った。「山崎監督ってゴジラを愛しているのか?」何度も見返してきた「シン・ゴジラ」にはその際にメッキが剥がれていくような感覚はなかった。だが、「ゴジラ -1.0」では二回目を見る前に「山崎演出を見せられるのはなぁ」という思いすら感じている。そこまでして「ゴジラ」を退治する必要あるの? 日本がゴジラを倒す必要すら感じない。追い返して、再び来ないようにすればいい。戦勝国が退治してくれるだろうさ。
庵野監督の2度のゴジラ来襲も彼が描きたかったからだし、「ゴジラ愛」だし、「冷えてないんだ。」は視聴者も納得させる設定で名台詞。上演時間の半分をかけて初めて自衛隊が攻撃するのも設定を大事にするがあまりに視聴者に納得(説得)するシーンが必要だし、彼自身が「信じ込める嘘」を描くための自分への規律でしょ。「庵野に任せたら会議ばかりの映画になった」そういう批判をする東宝責任者もいたでしょ。その批判を受けても「これは必要なシーンなんだ。」という庵野の信念を貫いたこだわりでしょ。山崎監督は何でもあり。一度目でなんでゴジラは海に帰ったの?
敷島にやっと訪れた平和の象徴である典子の首筋にG細胞を描いて、観客を感動から絶望に突き落とす必要ある? もう監督の「こういうの、面白いでしょ。」には付き合いきれない。
鑑賞後に既にメッキが剥がれつつある作品で、円盤まで買わなくても無料配信を待てばよいものです。
「敷島って震電が手に入らなかったら、また自分に嘘をついてゴジラから逃げてたんじゃないの?特攻の時と同じで。」

Kildare
2023年12月3日

人間ドラマを全カットすれば
多少マシになるでしょうね
今年見た中では下位の作品なのは
間違いないです。
セリフで異常なくらい説明するのとか前代未聞ですよ。

お主ナトゥはご存じか2世