「本当は怖い「殺し屋」の世界」ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
本当は怖い「殺し屋」の世界
冒頭、まひろとちさとは溜まりに溜まったジムの年会費と殺し屋協会の保険費を払い込むべく銀行へ駆け込むのだが、そこで折悪く強盗の襲撃に遭う。午後3時のデッドラインを死守すべく二人は銀行強盗をノックアウトするものの、それが仇となり数か月間の謹慎処分を受けてしまう。加えてデッドラインもオーバー。
法外な違約金を払い終えた二人は仕事も資産も失った生活困窮者へと落ちぶれる。かつてコンビニで値段も気にせず好きなものを買っていた日々は遠のき、パックご飯の上に豆苗とシーチキンと卵をそのままぶっかける「アンチ丁寧な暮らし」をひたすら耐え忍ぶ。ややもするとちさとはバイト先の商店街の一角で行われる賭け将棋に狂いはじめ、一発逆転の虚妄にその日の収入をすべて奪われる。終いには乱闘の咎でバイトまでクビになる始末だ。
とはいえ最終的に二人は殺し屋家業に復帰できる。しかしそれというのも身内を狙撃された特殊清掃員が協会規約の穴を突いた殺害依頼をまひろとちさとに出したからであり、さまざまな偶然が重ならなかったならば二人は謹慎が解けるまで極貧に喘いでいたに違いない。
さて、「殺し屋」なる仕事にまつわる、運否天賦で乱高下する収入、完全クライアント依存のビジネスモデル、自己責任論の瀰漫、従事者の社会適応能力の低さ、同業者間の連帯の希薄さといった諸特徴は、我々の現実世界における風俗業を想起させる。そこでは従事者たちは主体性をほとんど完全に去勢され、自己判断による業務の遂行に対しては罰金や謹慎といったペナルティが課される。もちろん謹慎中のケア等はなく、元来社会適応能力の低い彼らは経済的窮地に立たされる。にもかかわらず協会の人々は彼らに一切手を差し伸べようとしない。あまつさえ「自己責任だから」と開き直りすらする。
ここまでは1作目でも描かれていたことだが、本作ではさらに「殺し屋」稼業の厳しいリアリズムが書き足されている。ゆうりとまことの兄弟は、まひろとちさと同様に二人三脚で「殺し屋」として活動しているが、その暮らし向きは芳しくない。彼らは両国の下総屋食堂(実在の東京都指定民生食堂。マジで安い)で一番安い定食を食べながらいつかビッグな「殺し屋」となる日を夢見る。実力も申し分ない彼らがなぜ困窮しているかといえば、彼らが非正規雇用のバイトスタッフに過ぎないからだ。ゆえに彼らの不満とルサンチマンの矛先は正規雇用のまひろとちさとに向けられる。「殺し屋」バイトの間で「正規雇用の『殺し屋』を抹殺すれば雇用枠が空く」という噂が流布していたからだ。
こうして本作における対立構造は正規雇用VS非正規雇用という階級闘争の様相を呈する。しかし皮肉なことに、銃撃を交えれば交えるほどに両者の間に蟠る不和は緩解していく。最終決戦の廃墟にて、彼らはそれぞれ別の遮蔽物の後ろに立て籠もりながら「もしかしたらアイツらといい仲間になれてたかもしれない」と呟く。最後はまひろがゆうりを下し決着が着くのだが、まひろは即座にゆうりを射殺せず、彼の正面に座り込む。すると負傷で戦線離脱していたちさととまこともやってくる。4人は試合を終えた後の友人のようにしばしの談笑に耽る。不和は今や完全に払拭され、友情のようなものが空間に萌す。しかしほどなくゆうりとまことが床に大の字で寝転ぶ。「今度は絶対勝とうな」と互いを鼓舞し合いながら。まひろとちさとは銃を持って立ち上がり、無言で彼らを射殺する。
最後の瞬間まで「殺し屋」というロールに殉じる4人の美学に酔いしれるとともに、彼らの意思とは無関係に否応なく引き金を引かせる殺し屋協会の圧力の強大さに無力感を覚える、なんともアンビバレンツな味わいのあるラストカットだ。
さて、この無力感というやつは、我々Z世代にとっては馴染みの深い、というか物心のつく頃から今に至るまで骨身にまで染み込んだ世界認識であるように思う。今や個人と社会の間にインタラクティブな関係性は決して成立しない。どれだけ声高に何かを叫んでも日本経済は30年前から停滞状態にあるし、僅かばかりの個々人の連帯も先のコロナ禍が軒並み更地に戻してしまった。ゆえに人々は自分の手が届く範囲にあるささやかな幸福を守ることに腐心する。ライバルとの死闘を演じた後で本シリーズが必ずまひろとちさとが部屋の中で駄弁るシーンで終幕するのは、そうすることだけが自分たちの存在をこの世界にどうにか定立させるための唯一の手立てだからに他ならない。彼らは部屋に閉じこもってささやかな幸福を確認し合うからこそ、「殺し屋」なる不条理な仕事を続けていくことができる。まるでサッチャイズムの圧力に背を向けコインランドリーの奥の部屋でいつまでもくだらない児戯に興じ続ける『マイ・ビューティフル・ランドレット』のジョニーとオマルのように。
とまあ裏目読み的な感想はこのあたりにしといて、本作はまず第一に抱腹絶倒のギャグ・コメディなのだからそこについて言及しておかなければならない。
下町人情キラキラ橘商店街(これも曳舟に実在)のジジイがありえないぐらいサブカルに精通しているシーンはマジで笑った。サブカルをバカにしているサブカルにとって『花束みたいな恋をした』をどうおちょくるかというのは今世紀最大の難題の一つだが、これに対する現状最も痛快な答案がこれなんじゃないかと思う。一つたりとも罵言を用いることなく作品のイメージを落とす。それでいて逆にちょっと見てみたくなってきたな...という気にさせる。この塩梅はすごい。少なくとも俺はこの先20年はジャックパーセルを履かないことを心に決めた。
田坂のウザい上司ぶりにも磨きがかかっていて嬉しかった。ウザさ9割愛嬌1割の配分が絶妙だ。宮内の可愛い女特有の全能感が言動の節々に滲み出ちゃう感じもいい。須佐野の人畜無害なようでいて酷薄な性格も相変わらずだ。てか田坂のColumbiaといい宮内のTHE NORTH FACEといい特殊清掃班は外資系のアウトドアブランド着ないといけない決まりでもあるんだろうか。
貧乏生活パートで差し込まれるまひろとちさとの貧乏飯作りのカットは明らかにYouTubeショートかTikTokでよく見る料理動画のフォーマットを範型としているのだが、その結果できあがった飯が「パックご飯に豆苗とシーチキンと卵をそのまま乗せたもの」というのがあまりにも酷すぎて笑える。卵をそのままパックご飯に乗せるというのは実際マジで生活と精神が終わってないとできない。「白身がこぼれるかも」「皿に移したほうがいいかも」といった真っ当な懸念を空腹と怠慢が押しのけたときにだけ成立する終わりの食べ物が「卵かけパックご飯」なのだ。
あと散々台東区、墨田区あたりの下町エリアに撮影場所を限っておきながら最終決戦の舞台だけはどっかの地方都市の寂れた廃墟なのも面白かった。下総屋食堂からどんだけ走ったんだよお前ら...
表層的な面白さといい内在する社会問題性といいどこを取っても申し分ない傑作だった。マジで3でも4でもいくらでも続編撮ってほしい。