『素晴らしき短編アニメーションの世界』で視聴。
オタワ国際アニメーション映画祭の短編部門でグランプリを獲ったそうで、このときの長編部門のグランプリは山村浩二監督の「幾多の北」だったらしい。
なんかダジャレ/反復めいたタイトルの付け方が似てるな(笑)。
村の子どもたちが、何か儀礼的な踊りの練習を行っている。
ひとりなかなかうまくできない落ちこぼれの少年。
少年には彼にだけ見える白い大きな鳥がいて、交流をもっている。
一方、ずっと少年のことを窃視している眼鏡の少女が、何かと少年を邪魔しにきて……。
監督いわく、子供から大人への「通過儀礼」(イニシエーション)を描こうとしたとのこと。
一糸乱れぬ子供たちの踊りのなか、少しでも狂いがでれば、たちどころに強く指導される感じは、社会人の同質性/同属性の強要をも表しているのかもしれない。
それと、冒頭から棒状や円筒形の(男根状の)事物がしきりに画面に挿入され、頭を出し入れするカタツムリとか、煙を出す煙突とか、教官のくわえている笛とかも含めて、ひっきりなしに性的隠喩がほのめかされる。鳥(白鳥か雁みたい)の首をさするのも、同じコンテクストで捉えられるだろう。
すなわち、少年が大人になる、というのはそういう部分も成熟するということだ。
(冒頭で少年が股間をいじって位置を直したせいで、踊りの教官に叱責されるのは大変に示唆的だ)
「半島の鳥」というタイトルについても、監督は「半」という字の曖昧さが、作中の通過儀礼とリンクしていると述べているが、単純に、突起状の形状がアレを表しているというアナロジーの部分もあるのかも(ぼくのようなバーダーにとって「半島の鳥」と言うと、ついつい「渥美半島の鷹渡り」を想い浮かべてしまうが……w)。
ちなみに、僕の実家の近くの村社でも、正月に巫女舞があって、中学生くらいになると氏子の少女たちが半年以上の練習期間を経て、本殿内で素晴らしい扇舞&鈴舞を披露する(高校で卒業)。
僕にとっては40年来、必ず初詣に足を運んで、この二人立ちの巫女舞の仕上がりを批評するの年頭のならわしとなっている(ふう、キモいぜ)。
地元住人のあいだでは、誰がその年の巫女舞に選ばれるか、結構な競争や駆け引きもあったりするらしい。これだけ趣味やら生き方が多様化するなかで、いまでもこういった「因習」的な儀礼が地域を縛って存続しているというのは、実に興味深い(そして個人的には少し誇らしい)。
その意味で、『半島の鳥』が扱っている事象と問題意識は、決して「過去の日本の風俗」でもなければ、「民俗学的な記録」でもなく、「いま、ここ」ときちんとつらなっているように、僕には思える。
和田誠キャラをボテロ風に肥らせたみたいな、独特のもちもちしたキャラクターと、因習的な村の習俗を描く謎めいた物語が、不思議な化学反応を起こしていて、なんとなく観ていて飽きの来ない作品だった。