「「自分」と「他者」で揺れる物語は見事だが…」フェイブルマンズ すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
「自分」と「他者」で揺れる物語は見事だが…
◯作品全体
自己完結した感情と他者との関わりに揺れる物語だった。
映画作りに没頭するのは、父・バートからすれば夢を追うのと同義だ。ここでいう「夢」はロマンだとかそういうポジティブなものではなくて、実在しないものを追いかけるというネガティブな使い方で、作品に想いを込めることは自己完結に近い行為として序盤は存在する。主人公・サミーはその自己完結的な趣味と家族との関係性によって揺らぎつづける。
サミーと同じく「芸術家」と家族から言われるサミーの母・ミッツィは、サミーと似たようでいてまったく異なる人物だ。自分自身で向かうべき方向を完全に自己完結させている。アリゾナへの転勤話が出たときのミッツィの行動が顕著だ。親友・ベニーを置いて転職するバートを非難する一方で、タイフーンが出たと聞くと赤ん坊を一方的にバートへ押し付け、自分自身の人生観をも子どもたちに復唱するよう求め、危険なタイフーンへ向かっていく。その行動に自己嫌悪するかのような仕草をするけれど、ベニーとの関係を離さないあたり、ミッツィは終始自己完結している。
サミーに数学を勧めたり母のために記録映像を作るよう指示するバートも、サミーに想いを込めるという自己完結に近い育児をしているわけだが、ミッツィとの関係性に思い悩んだりするシーンも多く、自分の想いと他者の考え、どれを優先すべきかで人生が左右される人物だった。
終盤では、それぞれにある自己完結した感情と家族との関係性の調和に歪みが生じ、それぞれがそれぞれの道を歩みだす。それでも悲壮感がないのはそれぞれの熱意が一番あるところへ向かっていくからだろう。
妥協ではない、自分自身の感情を信じる決断は決して平坦ではない。でも、そういう人生こそ自分らしさに溢れた進路を進むことができる。真ん中に地平線がある画面ではなく、上や下に地平線があるような進路を良しとするラストシーンでは、そのことを強く訴えていた。
自分自身の決断という意味ではミッツィが物語の軸にいたのだけど、包み隠さず言ってしまうと、そのミッツィがすごくノイズだった。
ミッツィの自分勝手な行動もちょっとイラつくし、ベニーの転職とかについてバートを非難しつつ、自分は赤ん坊をほっぽりだしてタイフーンを追うのも最悪だった。しかもそういうベニーへの執着は浮気をしていたからだし、家族とのキャンプでそれを匂わせちゃうし、最終的にそれが原因で家族がバラバラになるし個々の自己実現としては良かった、というラストなんだけど、やってることが最低すぎる。
ミッツィを擁護するシーンもちゃんと挿れているんだけど、サミーの妹が「父は優しく話を聞いているだけで、母と並び立つことはなかった」みたいな、ミッツィのやったことに対してあまりに不釣り合いな擁護をしていてモヤモヤした。バートも確かに悪い。転職ばかりで、収入が良くなることを第一にしてしまっていて、家族の気持ちを配慮してない。それが家族をバラバラにする原因でもあった。でも、個人的にはそれがミッツィの浮気を正当化するものではないと思う。
怒ってすぐ感情的になるところ含めて、ミッツィが嫌なキャラクターだったなあ。それがチャーミングであれば良いんだけど、結構不快だった。
サミー自身の世界が広がったり、揺れたりする物語はすごく繊細に描かれていて、自分自身の経験を重ねられたりもできて面白かったんだけれど、その根幹をなすキャラクターを「天才肌」で終わらせようとしている感じがしてラフな造形に感じたし、あまり楽しいキャラクターでもなかったのは残念だった。
◯カメラワークとか
・題材が題材だからか、構図で見せるカットが結構あった。一番印象的だったのは終盤のシーン、大学生となったサミーがバートのアパートへやってきて、ミッツィから届いた写真を見せるところ。バートが写真を見たとき、画面右下にバートを映し、左側にバートの影が映る壁を見せる。バートの暗い感情、ミッツィが隣りにいないという余白…バートの感情へグッとよる演出だった。
・個人的に面白かったのはサミーがガールフレンド・モニカにベッドへ押し倒されるシーン。ダッチアングルのあおり気味のカットで、二人の真上にキリスト像を置く。アングル自体もエッジが効いていたし、コメディチックなキリスト像も面白かった。
・「おサボり日」の記録映像を上映するとき、司会の先生(?)がジェスチャーと言葉を間違えて、やり直すみたな芝居があった。これがすごい良かった。みんなを喜ばせようと慣れないことを考えてきたんだろうなっていうのが伝わるし、やり直すのも面白い。司会の先生はここしか出てこないけど、キャラが立ってた。
◯その他
・親友の妻を寝取ったベニーはどういう心情だったんだろう。家族といるミッツィを引き離して二人っきりになったとき、どういう心情だったんだろう。サミーへカメラをプレゼントする気風の良いヤツとして物語から退場するけれど、それじゃあダメだと思うんだけどなあ。
・家族の会話シーンは、なんというか、演劇っぽかった。外国作品ってセリフの演技の良し悪しが分かりづらい気がするんだけど、かなりわかりやすく演技が過剰だったと思う。やってることは突拍子もないことなのに、やけに段取りが良いところとか。ミッツィの爪を切るシーンとかが顕著だった。
・この作品に限らず、「浮気された側」を良き理解者として達観したような存在にさせちゃうのは、なんかもったいない気がするんだよなあ。しっかりと感情を掘り下げている作品だったらなおさら、急にフィクションになってしまうというか。もっといろんな葛藤があったり、達観するに至る経緯があるはずなんだけど、退場したキャラクターみたいな役割になってしまって放置されがち。
・一番グッと来たのは同級生・ローガンとサミーの衝突シーン。サミーはローガンを嫌っているけれど「画になる」ローガンを映すことに抗えない。映画人としてのサミーの矜持を感じるし、それを真っ向からローガンにぶつけるのもカッコいい。対するローガンはローガンなりにカッコよくあろうと努力しているんだけれど、そういう自分も含めて「チープなかっこよさ」を映像で露わにされてしまう。その核心を突かれた映像に打ちのめされてしまう、というのが、すごくローガンの内面に潜り込んでいるようで、素晴らしいアイデアだった。ほんの一瞬だけの邂逅だけれど、そこに日常生活の何千倍ものエネルギーが動いている感じが、とても良かった。
なんとなく『桐島、部活やめるってよ』の菊池と前田の関係性を思い出した。終盤の屋上で前田が映画への気持ちを吐露するんだけど、菊池からはなにも出てこない。カメラに映された菊池はルックスはカッコいいんだけど、中身がない、ということをカメラ越しに露呈されてしまう。「自分の本質を見られる」という意味では同じような使われ方だった。