福田村事件のレビュー・感想・評価
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アンダープレッシャー
我が国の近代史にて記憶されるべき恥ずかしい悲劇。この事実が映画化されること自身、日本文化の、日本映画の進歩だ。森達也監督初の劇映画との情報だけで見ていたが想像以上に幅広く絡み合ったドラマに驚くも脚本に荒井晴彦と佐伯俊道という名前を見つけなるほどと思った。
全体に大正時代の地方の生活が丹念に描かれ、同時代でも都会が舞台のリボルバー・リリーとの違いなんかも気になったわけである。そして田中麗奈と井浦新、コムアイと東出昌大、柄本明ら、永山瑛太らのグループが複層的に描かれ、水道橋博士や豊原功補や退役軍人たちまですべての登場人物が何らかのプレッシャーを感じている状況が事件の遠因として理解される。さらに外部情報のインプットが新聞などに限定されていることも。
役者では東出昌大はやっぱり色気あるなあと改めて。ただドラマ要素としては田中麗奈と東出はあそこまで描く必要はなかったのではと思う。
一部の部分が問題となってPG12になったのならもったいない
今年297本目(合計947本目/今月(2023年9月度)7本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))。
まず、当方は、大阪市というある意味、この映画の「別の主人公」となりうる方たちが多く住んでいるところから投稿している行政書士の資格持ちです。この観点を理解いただければ、と思います。
さて、こちらの映画です。大阪市では遅れ放送だったのですが、東京等で好評で、大阪市でも連日の予約埋まりで、予約を取っての視聴となります(大阪市でも当分続きそうです。ミニシアター中心なので、行かれる方はサイトのホームページ等で予約状況確認のこと)。
9月1日は「防災の日」とされますが、その意義が何であるのかということは「意外に」知られておらず、この時期にこの映画が公開されたことには意味があるとは言えます。一方で、確かに意義があるとはいえ、地震の規模は同じでも、当時の建築基準と現在(2023年、あるいは、東日本大震災等)とは微妙に異なる点もあり、原点として「防災の日」を今日に決めているのは理解しますが、実際のところ「大規模災害等に伴うデマ等に注意せよ」という趣旨で行っている自治体はほぼなく(訓練メッセージを流して終わり、というところも多い)、この点もなんだかなぁ…という気はします(映画側帰責事由ではないので減点なし)。
個人的には、加害者サイド(千葉県側)、被害者サイド(香川県側)のいずれの立場にも極端に偏らず、中立的な立場で描かれている点については良かったです。この事件により、この映画が述べるような被害者が生まれたほか、他の被害者(特に言葉が通じないとされた、ろうあの方や、知的・精神障害の方など)等にも、少しだけですが触れられていた点も良かったです。
映画の趣旨としてどうしても、その趣旨として「差別用語」が出てくることは想定できるものであり、それは映画の趣旨からして目をそらすことができないものです。したがって、一部の映画にある「一部に不穏当な部分はあるが…」といった断り書きも「ない」映画です。このため、「そのまま」放映されていますが、それは「趣旨を考えて」そうなのであって、2023年時点の人権感覚としてはやはりアウトな表現は明確に存在しますので、注意しましょう(といっても、ここに投稿される方は大丈夫だと思っておりますが)。
本映画を見に行くということは、本事件について、加害者サイド、被害者サイドのいずれか、あるいは中立的な立場でも見に行くという「ある程度の予備知識」があることは暗黙の了解と思われ、この点の説明は少ないです。ただ、映画の趣旨からしてそれは当然のことと言えうるので、そこは問題がなかろうというところです。
また、最初に書いた「PG12になっている」点は、行為そのものの表現が厳しいほか、映画のストーリーに関係しないサブ筋の恋愛筋(実際に寝たり何だのといった表現は出ます)が絡んだのかな、とも思え、そこが絡んでいるとちょっと残念だったかな…というところです。
採点に関しては、上記、「大阪市という特異な外国人問題を抱える」ところにいる、一人の行政書士の資格持ちという立場からの採点になる点はご理解いただければ、と思います。
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(減点0.3/一部のセリフが(現在の基準では)混乱を招く)
この震災のとき、在日韓国・朝鮮人の方(表現として、この表記を取ります。以下同じ)に対して「十五円五十銭」などと言わせたというのはよく知られていますが、その理由として映画内では「在日韓国・朝鮮の方は、濁音を言えない」というように紹介されている点は、明確に事実と反するのでまずいです(ただ、史実上、当時はそれで信じられていたのはご存じの通りで、減点が難しいが、ドキュメンタリー映画である以上、説明は入れるべき)。
実際には、韓国語(北朝鮮語、という概念も難しいですが、以下、断らない限り、この2つは常に考慮して、いちいち書かないものとします)においては、「語のはじめに濁音は来ない」というルールがあるだけで、それ以外には濁音は来ます。韓国での庶民的肉料理(野菜炒め)の「プルコギ」だってそうです。「ブルコ「キ」」にはなりません。あくまで、語の先頭に来ないというルールがあるだけです(特殊な用語等は除く)。
(減点0.2/映画内での描写が、香川県の公式の見解と異なる部分がある)
この行商の方が、韓国・朝鮮の方と誤認されて被害にあったのは事実ですが、これについては映画内でも言及がある通り、生き延びた方からの手記があり、そこにはちゃんと「行商の一人が、中国の方から黒色の扇子を購入して持ち歩いていたが、それが(日本の文化になく)日本人ではないと誤解された」とあります(出展:香川県立文書館)。つまり、映画のような描写とは微妙に事情が異なります(ただし、映画で述べられるように、韓国・台湾はもとより、他の地方の方言を話す方や、視覚・聴覚障害の方が被害にあった等は事実)。
※ この点については香川県の公式見解で、この映画の作成にあたり、この点だけを改変する根拠は見出しにくいのも謎です(ただ、この事件自体、一冊の本にすべて収まっているわけでもなく、加害者・被害者サイドの書籍や、公式見解等を全て読み込む必要があり、それをどこまで映画に求めるのか、という論点にも関係します)。
(減点0.1/「朝鮮飴」が何を指すのか、知識がないとわからない)
あたかも、当時の韓国・北朝鮮で流行していたもの、というように思えますが、日本の史実上、この飴は、元禄・慶長の役において朝鮮出兵の時に持ち出されたものが、その地名をもってそう呼ばれている、れっきとした「熊本県の銘菓」です。
この点、もう少しきちんと調べると、当時、韓国・朝鮮の方が売っていた飴は何でも「朝鮮飴」と呼ばれていたという史実もわかります(一般名詞に近い)。そして、形は違っても現在でいう薬機法(旧薬事法)がうるさくなかった時代は、飴にいろいろな効能をうたって売っていた、この映画でいう「行商」と呼ばれる類型が、韓国・朝鮮籍の方にもいることもわかります。
しかし、このことは大震災以降、「飴に何が入っているかわからない」等と忌避されたことが多発し、それは震災と関係のない大阪や富山(富山は薬の町として有名であった一方、当時は薬と飴は性質上「似た商品」ではあった)の当事者まで普及し、仕事(飴売り)がなくなると仕方なく戻る方も出てくることになりますが(大震災から5~6年後)、このことも(現地における)戸籍行政を混乱させてしまい、「誰が誰か誰もわからない」といった状況を生むことになります。
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(減点なし/参考/その後の韓国・朝鮮の方たちと日本とのかかわり)
いわゆる日韓併合により、日本は朝鮮半島において土地管理を厳密に行ったため、住むところがなくなり日本に来ざるをえなかかった方たち(この映画で描かれているのは、この層)、そして、「第二次世界大戦前・大戦中に徴兵された人たち」、そして戦後の朝鮮戦争の勃発前に発生した「済州島蜂起事件、麗水・順天事件ほか」等、それぞれで韓国/北朝鮮から日本にわたった方がいます。
歴史認識をどうとるかを語る場ではありませんが、前2つは言うに及ばず、後者についても敗戦後とはいえ日本はアメリカに協力したのも事実で、日本は「何らかの意味で」この一連の動きの「加害者側」になります。一方で、日本が確かに「法的に正しい帰国事業」を行ったのも確かです(いわゆる「帰国事業」)。しかし、そこで宣伝された北朝鮮はあまりに現実とかけ離れていることがわかると、数年で取りやめになり、このあとは北朝鮮との対話も取れなくなり、現在(2023年)に至ります。そして、現在でも「在日韓国・朝鮮問題」と言われるものの日本は北朝鮮を承認していないという事情もかかえ、「北朝鮮に帰国させることは人道的に無理」だという当然の理と、一方で「北朝鮮を承認しないことは、在日韓国・朝鮮人はすべて韓国人、とはできない」というこれまた当然の理があり、迷走しているのです。
(減点なし/参考/日本が朝鮮半島に行った「文字の弾圧」)
この事件よりも少し前に、併合していた韓国において「普通学校用諺文綴字法」というものが定められ(大正元年)、使用頻度の低い母音・子音を削るなどの対応が行われました。これにより、日本において学習する「古典」の学習(主に高校)が、同じく隣国の韓国(北朝鮮)においてそれを著しく難しくした、というのは事実です(大学で文学部等で行かないと習わないような「廃止されたハングル」がいくつも存在します)。
※ 韓国にも「漢文学習」はありますが、その前提となる「古ハングル」の学習に支障をきたしてしまうのです。
※ (少なくとも)韓国において、いわゆる「ワードソフト」といった場合、マイクロソフトのWordでもなく、「アレアハングル」というソフトが使われている(換言すれば、マイクロソフトのワードソフトがシェアを取っていない)のは、韓国における古ハングルの表記に今でも(状況により)必要だから、といった特殊な事情によります。
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※ 私はこのようなタイプで投稿しますので、好き好みあるかなと思いますが、良かったかなと思った方はフォローなどいただけると幸いです。
【これ以上ない封切り日と問題提起】
関東大震災からちょうど100年に当たる20230901に封切り、歴史的汚点だが決して風化させてはならない面恥事実を世に問うた秀逸作品。当時の時代背景を分かり易くするためか舞台演出的な台詞回しを多く取り入れたのも個人的にはポジティブな印象。
人類普遍的な狂気染みた群集心理に加え、天皇を現人神として奉っていたある種のスピリチュアルな風潮に、日本特有の冷酷さを孕んだ陰湿で粘着質な村社会に、権威に迎合し自らの思考を放棄する事勿れ主義は、現在に置き換えて捉えてみてもコロナ禍狂騒に、程度の低さはさておきジャニーズへのマスコミの忖度に、貧困故の無教養と道徳心の欠如に、何も変わらず内包する未解決の気色悪い案件に通ずることに戦慄する。あと木竜麻生を要注目俳優にリストアップ。
取り上げた題材は良かったけど
個人的には2時間ドラマの域を出ない作品でした。
素晴らしい俳優陣と題材だったので見せ方がもう少し違えば、集団心理や噂の流布の恐ろしさがもっと強調されたのかなと、、。
また違うアプローチの仕方で同題材作品が出たら見たいなと思います。
文句なし!観ておくべき作品
文句なし!色々と考えさせられた作品だった。目を背けたくなるシーンもあるが、福田村事件は絶対に背いてはいけないシーンの連続。史実としても勉強になった福田村事件。胸に刻みたい。どこか今の日本社会とダブって見えるシーンもあり我々に突きつけられた気がした。ぜひおすすめします❗今年の邦画ベスト作品にしてもいいし、日本映画ができなかった事を福田村事件は実現したのでは。この作品は澤田夫妻役の井浦新、田中麗奈の演技が良かったが、恩田楓役の木竜麻生の演技が素晴らしかった。
わかりやすさの罠
2023年。森達也監督。関東大震災直後、千葉県の利根川近くで行商人が虐殺された実際の事件をもとにした物語。ノンフィクションを中心に仕事をしていた森監督が手掛けた初めての劇映画らしい。
森監督はただのノンフィクション映像監督ではなく、「A」「A2」などを通じて、事実とは何か、事実を報道するとはどういうことかと問いかけ、詮ずるところ、わかりやすさの罠について警鐘を鳴らしていた人だ。わかりやすいことに安心してはいけませんよ、疑問を持ちましょうね、曖昧な状態に耐えましょうね、ということ。ノンフィクションの原理を模索しながらノンフィクションの作品を作っている人であり、理論的かつ実践的な姿勢はとても好感がもてる。苦しそうではあるけれども。
その監督がつくるフィクションの映画作品。事実ではないものを通してなにかを伝えようとすることに、事実にこだわる人はどう対応するのだろうか、とわくわくどきどきしながら拝見。
最初に思い浮かんだのは濃密な性の雰囲気。エロい。映画というジャンルでは「虐殺」と「エロス」が結びつくからだろうか。特に抑えがたい性欲を抱える女性がこんなにも多いのは(夫が戦争に行っている間に浮気する女性が2人、夫の無関心でほかの男に気を向ける女性が1人)不思議だ。農村の人間関係が多様に描かれるなか(同級生の男たちは村長、先生、軍人と分かれているし、父に劣等感を抱く農民や村から離れて一人孤独な船頭もいる)、なぜか女性像だけパターン化されているように見える。
当時の農村の複雑な実像(権力関係や男女関係)をわかりやすく伝えようとすれば、パターン化されたそれ自体はわかりやすい要素同士の複雑な組み合わせで、ということになるのかもしれない。そういえば、当時の差別をめぐる状況(行商と水平社宣言と社会主義者と朝鮮人)、権力をめぐる状況(村議会と在郷軍人会と内務省)、メディアをめぐる状況(流言飛語と新聞社と政府)のひとつひとつはわかりやすい記号として描かれている。(殺されそうになった行商人が般若心経とともに水平社宣言を暗唱するとはちょっと想像できない状況だがインパクトがある)。複雑なものは複雑なま一色に塗りこめず、早急な結論を出さないまま考え続けることを奨励するという意味で、素材はフィクションになったとしても、森監督の方法は変わっていないようだ。
フィクションの恣意性という問題は残る。例えば、ソウルから帰ってきた元教師がいる。日本軍による虐殺を目撃したことで性的不能になっていてその妻が浮気する、そのとき朝鮮産の白磁の指輪を落とす。この二人は映画に猿回し的に介入して福田村事件を外側から見る役割になっている。事実を物語的に補強するフィクションの恣意的な使用を感じる。語ることの恣意性の自覚にあれほど留意を促していた監督なのだから、これは当然わかってやっているのだろう。ところが、この二人の介入は、単純な要素を複雑に組み合わせて考え続けるよりは、エピソードを累乗することでわかりやすさを増すことになっていないだろうか。または、そこまでやらねばならぬほど観客の側のリテラシーが落ちているという前提があるのか。ちなみに、妻の田中麗奈が最もエロさを醸し出している。よく殺されなかったものだ。
徐々に水がたまり、一気にあふれる展開に息を呑む
実在の事件を題材にした物語。
重いテーマであるにも関わらず、連日満席となっており、森監督の注目の高さがうかがえる。
事件に至るまでの背景と事件そのものが丁寧に描かれている。コップの水があふれるように徐々に強まる不穏な空気に終始目がはなせなかった。
事件の悲惨さと過去の日本の過ちへの批判は痛いほど伝わってくる。
なかば過激派のメッセージがストレートすぎる場面もあるが、登場人物全体としては苦悩するもの、翻弄されるものなど、グラデーションを持って描かれており、バランスはとれている。
現代社会も似たようなものである。
豪華な俳優陣が、いい味を出している。
井浦新は静かだが思いと過去に一癖ある役はそのままである。
田中麗奈は久々みたが、品の良さの一方で、奔放だが芯があり憎めない役でぴったりであった。その2人の相性がとてもよい。
脇役含めてみなすんなり入ってきた。
永山瑛太は演技は良かったけど、田舎出にしては顔が整いすぎたかな。キャスティングというのは難しいものである。
惜しいところは、お金がそこまで潤沢になかったのだろうが、セットや撮影場所、衣装がチープなところがあり、時代が現代で撮影しているのをなんとなく感じてしまい、現実に引き戻される場面があった。
総じてテーマ性、作品として考えさせられ、見るべき映画と感じる。
2023年劇場鑑賞87本目
差別を無くすのは、理解だ!
個人的に避けて通れない映画でした。
日本人としても目を背けてはいけない映画。
めっちゃヘビーだし、正直テンポも見易いとは言い難い。
でも、観て良かった。
よくぞ製作してくれた。
これだけ豪華出演陣なのだから、もっと大々的に公開してほしい。
臭いものにフタをせずに。
惜しい作品
集団暴行殺人への取っ掛かりの演出、音楽など非常に面白く上手い、瑛太の非人がゆえの朝鮮人を庇う話など説得力がある。
しかし、なぜ村人達が狂気に走ったか等が弱く、セリフだけで朝鮮統治失敗でみたいな事で終わらせている。
関東大震災後の不安などもっと描くべきだし、村社会の歪な構造ももう少し取り入れるべき。
井浦新、田中麗奈キャラクターの使い方が下手過ぎる。いなくても良く、その時間を村人に当てるべき。
殺戮に加わる等の使い方をしたほうが絶対に面白くなる。
上辺だけのキャラクターの描きたかで勿体ない。
集団心理の恐ろしさ
中国、韓国と隣国への相互信頼が乏しい現在も、起こってもおかしくない。これまでのヘイト運動や不買運動、汚染水問題も同じ事。日本だけ見れば、鎖国的、閉鎖的な考え方に偏っているのも心配。
虐殺に至る前に「また黙って見過ごすの?」(正確なセリフではないかも...
虐殺に至る前に「また黙って見過ごすの?」(正確なセリフではないかも知れません)と言うセリフが今の時代にも通じてると痛感しました。良作です。舞台挨拶でのやり取り、森監督と井浦新さんのコメントも良かったです。
今も昔も
雰囲気だけで中身をほぼ知らずに観にいってしまったため
思っていた内容とは全く違ったけど
ちょうどこの関東大震災100年を迎えて
テレビでやってる内容は今後起きた時の被害に関する話ばかりで
その時に起きた虐殺には触れていない。
北朝鮮や中国がメディアに操作されてると言われてるが
逆を返せば日本だってそういうふうに憎むように操作されてたっておかしくない。
結局、今も昔も日本の政府なんて日本を維持出来れば良いだけで
国民の事なんてなんも思ってないし
敵国を使って煽って防衛費を増額してるだけで
そんなことで解決をしないことに税金を使ってるだけ。
結局、軍事に訴えてたら昔と全く変わっておらず
もっと理解し合えるはずなのに差別を誘導して
昏倒に陥れてるだけ。
本当に必要なのは戦争ではなく対話。
そして、これからの子供が
自分で考えられるようにすべき
教育機関はブラック過ぎて手詰まり。
異次元の子育て支援よりも
異次元の国会改革をして欲しいと思う映画だった。
脱線してすいません。
単純な 人間の悪 から目を逸らしてはいけない。あと複雑に考察すべし、チト凹んだのも事実。
タイトルは穏便に書いたけど、正確には 日本人の悪 と言って良い
今では普通に関東大震災に伴う流言飛語の酷さはほぼ理解されているが
子供や妊婦まで被害が出たこの事件は、すでにウイキペディア【薄っぺらですみません】
で確認した事実の段階で さすがにムカついた 勿論加害者側にムカついた
鬼畜 人でなしという呼び名が相応しい。 なぜ大正天皇崩御で恩赦になるのか意味不明だ。死刑だよねぇ
という先入観で 被害者寄りで本作に臨んだ。
どうせ空いてるだろう と思ったら5割程入ってて驚いた。
ココは重要なので最初に述べておくと
高価な@1500の有料パンフ購入して見るとわかるのだが
フレームワーク、被害状況は 客観的事実 で在郷軍人会の連中の所業も事実
しかし、セリフや、加害者側の心あるもの 村長豊原功補さん 船渡し東出昌大さん の行動に関してはややフィクションがかっており
朝鮮での日本帝国の蛮行でおかしくなった井浦新、田中麗奈 夫婦は架空の人物であり
千葉の新聞社 女性記者も架空である
しかしそれを踏まえても、見るに忍びない 日本人の日本人に対する蛮行だ。
正直な感想として
在郷軍人会の分会長、犯行に手を染めた連中の描写は ただひたすら ムカついた
【言い争いや、取っ組み合いはあった可能性大であるが、丸腰の人間、女性子供妊婦にまでは 全く理解できない】
ある意味 悪役を演じた 戦前日本人の悪い のを演じた 水道橋博士 に敬意を表したい。
特に事件のあった地区は震災被害ほぼなかった模様・・・ハテ
自分に問うてみた。今の令和の便利な個人主義の時代では無く、自分が大日本帝国の当時の、義務教育だけの村民農民だったら
大きな集団の流れに反して【ちょっと待て、薬売りの鑑札確認までは 少なくともやめろ😡】なんて自分は言えただろうか
答えは残念ながら 否 だ。さすがに川で女子供をやるまではしない自信があるが、全体の流れに乗って調子に乗ってたろう
そう、コレは普段なんの刺激もなく、こき使われている、当時の田舎の庶民の都合の良い【鬼退治】の物語だから
私もその流れに乗ってただろう、むしろ 私は 井浦新のインテリ教師ではなく 名もなき暴力を振るった農民だったカモと思う。ウイキペディアだけでなく、有料パンフ見ればわかるが、単なる、朝鮮への差別 職業差別、被差別部落への差別
では理解できない 複合的な差別があったと理解した。
多分今でも根深い 人を見下して 差別して 快感を得る【職業、学歴、金、門閥 ルッキズム】に通ずるものだと思い
暗澹たる鬱な気分になった。それは現代のマスゴミが当時となんら変わりがないように見えるからでもある。
内務省通達の伝達事実は現実と違うかも知れないが、水道橋博士役の情けない最後の一言 に国の責任を見た。
【誤解を生むので】私は基本、保守派ですが、日本人が 混乱に乗じて 異端者である方々を虐殺した事実と向き合いたい。
最近、唐沢寿明、田宮二郎の【白い巨塔】の【医師が癌に屈するのを恥じる】動画で見てまして
私は 人間の集団心理の愚かさを恥じる と 自分が居ました。
なお有料パンフは分厚くて高額ですが、シナリオ とかクラウドファンディングの人名入れてるからかさんでいます。
【必見❗️】とまでは言いません。でも若い方、大学生レベルのまだ柔軟な思考のある方に 見ていただければ良いなぁ⭕️と思いました。だって観客みんな 私より年上ばかりジジイババアばかりでした。
特定の立場の方を憎むのでは無く、当時なら誰しもが 加害側に立ちえたことに思いを致すのが正論かと最後に思いました。
長文、すみません。🙇 せめて作品見なくともウイキペディアぐらい見てください。
私も亀戸事件、甘粕事件は十分知っておりましたが、本事件については無知でした。
忠誠とは
動画で舞台挨拶を見て、これは映画を観ておかなければと思い立ち映画館に足を運びました。
公開2日目とあって1列目の端から端まで
多くの方が観に来られていました。
制作費もクラウドファンディングで多くの支援金が集まったとのこと。
デマや憶測が蔓延し、人の心を支配してしまう。
そこに忠誠心が働いて引き起こすとても痛ましい内容でした。
自分の目で見たものではなく噂に翻弄される人々の姿は現代でも変わらないと感じました。
改めて人としての在り方を考えさせられた映画でもあります。
不勉強ながら本作を通じてこの事件を知りましたが、
少しでも多くの映画館で多くの人に観てもらいたい映画です。
間違える男たち
公開1週目の土曜、午前中回のテアトル新宿は案の定長蛇の列。恐らくは満席に近い入りだったのではないかと思います。ざっと周りを確認したところ年齢層は高めな感じ。ただ「若者こそこういう映画を観るべき」なんて老害発言している場合じゃありません。むしろ、私の世代の方が差別に対してまだまだ無頓着とすら言わざるを得ない時代を生きてきたわけで、本作の題材である関東大震災直後における「日本人による朝鮮人等に対する虐殺行為」について、きちんと触れてこなかったことこそ大きな問題だと自覚します。思い起こせば、自分が若かった当時、まだ部落民や外国人、障碍者(現代ではこの言葉も考え物)に対する蔑称が日常的に使われ、放送メディアなどでは「放送禁止用語」という、単に「使ってはいけない言葉」という認識しか感じられない扱いでしたし、ましてや、差別に対する啓もうは義務教育時の「道徳」や「社会」「国語」などでわずかに触れる程度。おそらく、今の若者の方がよっぽど見識があり、そして意識も高くて我々こそ教えられることが多いはずです。
森達也監督、初の劇映画作品ということですが手練れですね、狭い村とは言え震災直前から震災6日後の事件までを複数の視点で描く群像劇になっており、下手を打てば散漫になりそうなところをそれぞれの人の背景や普段の言動を観進めていくうちに、いざ事件が起こるきっかけからのそれぞれがとる言動に説得力があって厚みが出ます。元々キャスティング自体が絶妙なのですが、演出が素晴らしく違和感がありません。それぞれの立場で生き、考え、思い悩み、そして間違える男たち(情けない…)。そんな男たちに振り回されるも、生きていくためにそれぞれの選択をしていく強い女たち。そして、異常事態における集団心理で判断能力が狂った人間のすることに恐怖します。
俳優の皆さん、須らく本気の名演で素晴らしいのですが、中でも印象的な静子役の田中麗奈さん。周りから見たら訳あり気で謎めいた雰囲気なのですが、実は人当たりもいいし多分他の誰よりもまともな人。特にある決意から、それでも流されそうな自分を振り切る仕草に強い生命力を感じます。そして終盤に虐殺が起こり、事件の犠牲になった方々の行き所のない絶望シーンでドスンと落とされた気持ちを、あのエンディングシーンは意外性を感じつつも救われた気がするのは、静子の生命力の強さのおかげなのかなと感じました。
戦後の日本と朝鮮人に対する迫害!
と実話を元にした、朝鮮人差別が色濃く
無念さと残忍さに描かれていました。
戦争で死に絶えた日本人男性の兵士。
日本人同士でも差別を受けて、薬を売らなければ生きていくことが出来なかった
人たち。
朝鮮人の女性が売る飴の甘さと薬の苦みが
対照的に見えました。
朝鮮の扇子の美しい絵は、亡くなった女性たちが
短い生涯を終えた悲しい事実を
伝えていきたい、忘れてはならない
出来事だと語るように思いました。
こういう映画もたまには必要
昔の実話からチクりと現代社会の人々、マスコミ、政治をも風刺しながら警告する映画も必要と感じた
ただ、役者が誰が出てるのか知らないで観に行ったので、話題になった役者が出る度にそっちに意識が引っ張られ最初は集中できなかったかも
まあでも終わってみれば全体的にエピソードも含め良い映画だった
震災の教訓を活かすということ
ちょうど100年前の1923年9月1日に発生した関東大震災。10万人余りの死者・行方不明者を出した大災害でしたが、同時に地震直後の混乱期に生じた流言飛語に端を発して、朝鮮半島出身者(1910年に日韓併合が行われており、この当時朝鮮半島は日本の領土なので、彼らも国籍は日本人ですね)や中国人が虐殺され、また内地出身の日本人でも大杉栄や伊藤野枝などの社会主義者がこの機に乗じて粛清されたり、聴覚がなく言葉が喋れない聾啞者も殺されてしまうという被害に遭うこともあったそうです。
そして本作で取り上げられた福田村事件では、香川県出身の行商人の一行が、現在の千葉県野田市にあった福田村で、そもそも行商人に警戒しろという俗説があったことが土台とあり、さらには震災直後の流言飛語により、しゃべっている讃岐弁が分からないので朝鮮半島出身者ではないかと疑われて殺されるという、実に惨たらしい事案も発生。本作のパンフレットによれば、地震そのものや火災による死者以外に、出身や属性、思想を理由に殺された人たちが6千人以上もいたというのだから、驚くほかありません。
本作は、上記の史実をベースに物語仕立てにしたものでしたが、テーマの重要性やその記録・記憶としての意義のみならず、ドラマとしての面白さ、俳優陣の演技、大正当時を再現した風景など、ひとつの映画として全般的に非常に優れているように感じました。
ドラマという部分で注目すべきは、エンドロールやパンフレットの並びで本作の主役に位置付けられた澤田夫妻(井浦新と田中麗奈)の存在でした。夫の智一は、福田村出身だったものの、教師として京城(現在のソウル)に渡っていました。それが震災の直前に妻とともに故郷に戻り百姓をしていました。震災後、沼部新助(永山瑛太)が率いる行商人の一行が福田村を通り、そこで朝鮮人ではないかと疑われて結果的に村の自警団などが沼部たちを襲うに至った時も、沢田夫妻は第三者的な立場の者として仲裁に入ります。
テーマ的には、加害者側であった在郷軍人会のリーダーである長谷川(水道橋博士)か、被害者側であった沼部が主役だと言えるお話です。それを敢えて第三者である澤田夫妻を主役に据えたのは何故なのか?思うに彼らは、加害者と被害者のいずれにも属さないという意味で現代で本作を観ている観客と同じ立ち位置にいる存在であり、つまりは現代に生きる我々の分身だったと言えるように思えます。つまり、主役は我々ということなのです。
そして1919年に朝鮮半島で発生した三・一独立運動の際に発生した提岩里教会事件(暴動を扇動した首謀者29名が、日本の憲兵に提岩里の教会に監禁され、放火により殺された事件)に居合わせながらも傍観するしかなかった澤田智一が、福田村での虐殺に際しては、傍観することなく、冷静さを失って行商人たちを襲おうとしている村人を止めようとします。その努力は虚しく、15人いた行商人のうち9人(胎児を含めると10人)の命が失われてしまう訳ですが、この現代人の分身たる澤田の行動こそが、本作が最も観客に伝えたかったことではないかと感じたところです。
また同時に、澤田や福田村の村長らが、「彼らは朝鮮人ではない」と言って沼部たちを襲おうとしている村人たちの説得を試みますが、それに対して沼部が「(朝)鮮人なら殺していいんか?」と言うシーンもとても印象に残りました。被差別部落出身であった沼部ら行商人の一行でしたが、沼部は朝鮮半島出身者に対しても融和的であるところが描かれる一方、一行の中には自分たち被差別部落出身者よりも朝鮮半島出身者は下であると言う者もいることが描かれていました。この辺りの描写は実にリアルで、この世から差別がなくならない構造的、心理的な状況を表現していましたが、「〇〇だから殺していい」、「排除していい」、「差別していい」という話には1ミリの正当性もありません。それを一言で表現したこのセリフは、本作最大の見せ場であったと思います。
さて、関東大震災の教訓を如何に現代に活かすべきかという話になりますが、毎年1月17日や3月11日、そして9月1日になると、「防災」が語られます。関東大震災を例にとれば、10万人以上の人が震災により亡くなった訳で、これを如何に減らすかということは、まず第一に考えるべきところでしょう。
一方で、前述の通り直接震災で被害に遭ったわけではないのに、朝鮮半島出身者を中心に6千人以上の人が亡くなりました。主に流言飛語がその原因になった訳ですが、こうしたことを防ぐには、過去に福田村事件のようなことが起きてしまったことを語り継ぎ、それを戒めとすることで、こうした悲劇を繰り返さないようにするしかないのではと思います。そうした観点からすると、松野官房長官が「関東大震災における朝鮮人虐殺の記録がない」とコメントしたり、関東大震災の朝鮮人被害者の慰霊祭に追悼文を送らない小池都知事の言動は、過去の震災を教訓に未来の防災を確立するという考えの対極にあるもので、実に嘆かわしいと思わざるをえません。(あの石原慎太郎氏ですら、都知事時代に追悼文を送っていたそうです。)
そんな訳で、テーマ性から物語性、俳優陣の奮闘に至るまで、実に見事な作品だったので、評価は★4.5とします。
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