「予備知識なしで観ても楽しかった」ベルサイユのばら eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
予備知識なしで観ても楽しかった
フランス革命を題材にした漫画を原作とするアニメ映画化作品。原作漫画は1979年から1980年にかけて一度アニメ化されており、この漫画がアニメ化されるのは45年ぶりで、さらに劇場アニメ化されるのは初である。18世紀のフランスを舞台にフランス国王妃マリー・アントワネットと女性で軍人のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェのドラマチックな生涯を描く。
点数:4.0。お勧めします。華麗かつ緊張感のある雰囲気のアニメ映画。貴族社会と軍隊社会の張りつめた雰囲気が視聴者の背筋を伸ばしてくれる。女性で軍人のオスカル准将は自分は一体何者かという自己同一性に悩むが最後に答えを見つける。オスカル准将のこのような人生は同様に自己同一性に悩む視聴者に生きるヒントを与えてくれる。
※フランス革命とは: フランス革命とは、1789年から1799年にかけてフランスで起こった、絶対王政を倒し、封建制度を廃止した市民革命です。啓蒙思想の影響を受け、自由、平等、博愛をスローガンに、国民議会による立憲君主制、共和制への移行、そしてナポレオンによるクーデターによる終結まで、激動の時代でした。(AI回答より)
※自己同一性とは: 自己同一性(じこどういつせい、アイデンティティ)とは、自分が何者であるかを認識し、自分自身を他者や社会の中で一貫して理解する感覚のことです。簡単に言えば、「自分が自分である」という意識です。(AI回答より)
有名な少女漫画が原作という以外は予備知識がなかったのだが私はこのアニメの華麗かつ緊張感のある雰囲気が楽しかった。特にバスティーユ監獄襲撃作戦でのオスカル准将の戦死の場面はドラマチックで迫力があった。オスカル准将は以前は自分が何者か悩んでいたが答えを見つけてから戦死したのでこの場面がすごく印象に残った。自分が自分であるという意識は人生で何かアクシデントがあった場合に必要になってくるのではないだろうか。順調に人生を送っているときは深く考えなくともよいがある日、引っ越ししたり、仕事を変えたり、生活環境が変化した場合になぜ私は生きているんだろうと悩むことがあるかもしれない。その時に自分が自分であるという意識を持っていると強いと思った。ましてや家柄により女性であることを禁止されて育ったオスカル准将の様な人物は自分が自分であるという意識はいつも必要であったに違いない。いわば本作はオスカル准将が自分の人生の名刺を作成する物語である。
テレビアニメ「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(2022年-2023年)も自己同一性に悩む主人公の女性が答えを見つける物語である。地球から遠い田舎の星である水星育ちの少女スレッタ・マーキュリーは巨大ロボット兵器「モビルスーツ」のパイロットになるため軍人を育てる教育機関アスティカシア高等専門学園に転校してくる。そこで彼女は宇宙を支配する大企業ベネリット・グループの総裁の一人娘ミオリネ・レンブランと運命的な出会いをする。大企業の御曹司や美男子の男子生徒たちに言い寄られながらもスレッタ・マーキュリーは学園生活を送るのだが、彼女は自分が何者か自信がなくなっていく。そんなある日、事件が起こりスレッタ・マーキュリーとミオリネ・レンブランの運命は大きく動き出す。スレッタ・マーキュリーにはお母さんがいるが実は本当の母親ではない。そしてスレッタ・マーキュリー自身も普通の人ではなく誰かのコピー人間であると判明する。スレッタ・マーキュリーは自分が何者か悩むが親友のミオリネ・レンブランなどの仲間たちのおかげでその答えを見つける。最初は自分に自信がもてなかったスレッタ・マーキュリーは最後は自分を確立する。
オスカル准将は女性でも男性でもない育ちによって悩んでいた。これは現代日本人の悩みでもあると思った。現代日本は男女平等を推し進めているにも関わらず矛盾も多い。男性はどうあるべきか。女性はどうあるべきか。などという指針があいまいな現代社会では私は男性か女性かと考えるのではなく私は何者かと一人一人が考えなくてはいけなくなっている。つまり男性か女性かなどという問題はどうでもいいのだ。この映画の最後、愛する人や愛する国が見つかったのだからオスカル准将は自分が女性か男性かなどどうでもいいと思ったにちがいない。オスカル准将は悩むことをやめ、ふっきれたのだ。白か黒かつけないでよいこともあるというこの考え方は素晴らしいと思った。なので人生勝ちか負けの2択だとは思わないようにしようと私は思った。
視聴:液晶テレビ(有料配信NETFLIX) 初視聴日:2025年6月10日(約2か月前) 視聴回数:1(早送りあり) 視聴人員:1(一人で見た)
2025年6月10日に書いた昔のレビュー:
自分の心も美しくなった気がする美しい映像
主人公オスカルのシーンが大げさなくらい美しく描かれていてすごい。ベルサイユ宮殿に咲くバラの花のように美しいオスカルが戦いのなかバラの花のように美しく散っていくさまを見たとき自分にも美しい涙が出ているような気分になりました。カンフー香港映画を見た後自分が強くなった気分になるみたいにこの映画を見ると自分も美しくなった気がしてくる不思議な映画です。フランス革命が舞台なので西部劇みたいな銃撃戦のシーンも楽しめます。
2025/08/13 追記1:
主人公の自己同一性の確立をテーマとする映画は多い。自分が何者であるかわかるという事は大きな精神的成長を意味するので視聴者はカタルシス(すっきり感)を得やすい。なので主人公が成長する成長物語は同時に主人公の自己同一性の確立の物語であるとも言える。アメリカの実写映画「ジョーカー」(2019年)は社会弱者の主人公アーサー・フレックが社会から理不尽な虐待を受けた末に堪忍袋の緒が切れ無慈悲な狂人ジョーカーに変身し悪のカリスマ(アイドル)になる話だ。映画のラストで無慈悲な狂人ジョーカーとなった主人公アーサー・フレックは自己同一性を確立しそれを観た視聴者は大きなカタルシス(すっきり感)を感じたのでこの映画は大ヒットした。ところがその続編映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024年)ではあろうことか主人公アーサー・フレックは確立したはずの自己同一性を放棄して無慈悲な狂人ジョーカーであることをやめてしまう。視聴者は主人公が成長せず退行するこの映画からカタルシスを得られず映画は全くヒットしなかった。自己同一性の確立は主人公の成長を意味する。NHK朝ドラと呼ばれる作品シリーズの中で大ヒットしたテレビドラマ「おしん」(1983)を例にとる。このドラマは雪国の貧しい村で生まれた主人公の少女おしんがいろいろな苦労の末に田倉商店を興して会社を成長させる話である。初めは何者でもなかった少女のおしんがスーパーマーケットの社長になるのでこれはおしんの自己同一性の確立の物語である。これらは「自分はいったい何者か?」と問いかけ「私は~である。」と答える構造の物語である。複雑な階層社会である現代人類の社会はじつに数多くの役割があり、「自分はいったい何者か」がわかりにくい。答えはひとりひとり異なるのである。地球に住む人類80億人が一人一人異なったアイデンティティ(自己同一性)を確立するのが理想であるがそれは難しい。全ての人はそれぞれ条件が異なっているからだ。だから人類は人生のなかでアイデンティティ(自己同一性)の確立に悩むのであろう。
追記2:
この映画の登場人物は華やかで自信ありげに振る舞うがそれはこの映画が創作物だからである。実際の貴族や軍人は常にこうではなかったと思う。映画では立派な部分しか見せない。人間が生きるという事は泥臭いものが大半である。だからこそこのきらびやかな映画には価値がある。この映画は美しさとは何かというテーマももっている。美しさとは本来は瞬間のものなのに、永遠に美しく見せようとする貴族社会の美しさは民衆の苦労の犠牲の上に成り立っている。本来の自然の美しさは一瞬である。本作のタイトル「ベルサイユのばら」の薔薇は自然の美しさを、ベルサイユは貴族が所有するベルサイユ宮殿の民衆の犠牲の上に成り立っている人工的な美しさをそれぞれ意味している。薔薇の自然の美しさははかないがベルサイユ宮殿の人工的な美しさは民衆の犠牲が必要だが長く続けることができる。同様にオスカル准将は自然の美しさを、マリー・アントワネット妃は人工的な美しさを作品中で象徴していたと思う。オスカル准将はフランス革命で貴族を裏切り民衆の味方をするが、これはオスカル准将はたとえ長く生きられないといえ、はかない自然の美を選んだという事だろう。貴族社会の人工的な美しさは莫大な費用がかかるので誰かの犠牲の上になりたっており、持続可能社会(SDGs)の理念からも大きくそれている。オスカル准将は自然の美しさが人工的な美しさに勝つことを知っていたのだと思う。美しさは人類にとってとても価値があるが。それは誰かや地球の犠牲の上に成り立ってはならないし、持続可能でなくてはならない。オスカル准将はその理念を示し自然の美しさの素晴らしさを世に示しながら戦死を遂げたのであった。不謹慎だが私にはオスカル准将の死のさまはとても美しく感じた。この戦死の場面は人間の生ははかなく寿命があるからこそ美しいといわんとしている様であった。この作品でオスカル准将は自然の美は貴族の美より何よりも美しいと言いたかったのかもしれない。
追記3:
本作は劇場映画ということもありベッドシーンがありますがベッドシーンの名作映画は数多い。アメリカのアクション映画「ターミーネーター」(1984年)ではハンバーグレストランでアルバイトしている女子大生サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)が未来からやってきた姿は人間そっくりの無敵の暗殺ロボット「ターミネーター」T800(アーノルド・シュワルツェネッガー)に訳もわからず命を狙われる。そのとき同様に未来からやってきた若い男の兵士カイル・リース軍曹(マイケル・ビーン)が無敵の暗殺ロボットT800を一時的に撃退し二人は一緒に無敵の暗殺ロボットT800から逃げる。無敵の暗殺ロボットT800からの追撃もかわし二人で逃げるうち二人の間には愛が芽生えそこでベッドシーンが入る。このベッドシーンは重要な意味があり、この時にできた息子が大きくなって未来の無敵の暗殺ロボットたちの親玉を倒すことになっている。
フランス・イギリス合作の恋愛映画「愛人/ラマン」(1992年)は1929年のフランス領インドシナ(現在のベトナム)が舞台であり裕福な華僑の中国人青年(レオン・カーフェイ)と貧しいベトナム人とフランス人の混血の少女(ジェーン・マーチ)のベッドシーンがある。裕福な華僑の中国人青年は少女が好きだが、貧しい少女のほうはこの関係をビジネスと割り切っている。この映画のベッドシーンは愛情とは違う意味をもっている。
ジブリのアニメ映画「もののけ姫」(1997年)でもベッドシーンがいちおう存在する。不慮の事故で「人類の破壊の呪い」を受けてしまい村に迷惑をかけないよう村を出て行った少年アシタカは放浪の旅の末に戦争で両親を殺され犬の神に育てられた「人類の破壊の呪いの被害者」少女サンと出会う。少女サンは人間を恨み「人類の破壊の呪い」の象徴である危険な鉄砲工場のタタラ場に殴り込みをかける。タタラ場の工場長エボシの策略によりサンはピンチになるがアシタカはサンを助け負傷してしまう。サンはアシタカを自分のほら穴の住みかに連れて行きケガの治療をする。ケガが治ったころ二人はそのほら穴で関係を結ぶ。行為中のベッドシーンはないが、サンとアシタカが一緒に寝ていて朝目覚める場面だけが存在する。この場面により視聴者にベッドシーンを想像させている。
フランス映画「デリカテッセン」(1991年)のベッドシーンも良かった。近未来のフランス・パリ、一階が精肉屋のアパートに住む個性的な住人たちの物語。この映画のベッドシーンは音だけだが印象的だ。ベッドシーンは監督の性格や嗜好が反映する映画において注目の要素である。