ペルシャン・レッスン 戦場の教室のレビュー・感想・評価
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特殊な才能 ✕ 生への執着 ✕ 強運²
ユダヤ人青年が主人公。
ドイツ軍親衛隊(通称はSS)に殺害される直前に、
自分はペルシャ人だと咄嗟にウソをつく。
・2840人のフルネームを暗記するという藤井聡太並の記憶力。
・突然殺されそうになる、その時とっさに「オレはユダヤ人ではない。ペルシャ人だ」と叫べる生への執着心。
・ペルシャ語を学びたくてペルシャ人を探していたドイツ人将校の部下に捕まる超強運その1。
・自らの命を投げ売ってホンモノのペルシャ人を殺害してくれた仲間を持つという超強運その2。
実話にインスパイアされた、と最初にテロップが出るが、どこからどこまでが実話か、まったくわからない。
※ネットで読んだ監督のインタビューでも、取材者を煙に巻いていた。
原作小説のタイトルは『言語の発明』。
まさにそうなのだが、その″新言語″を、残虐さで知られたSSの将校に対してペルシャ語として教えてしまう。
それだけでも、いつバレるか、なかなかの緊張感なのだが、
ほかにも、
ペルシャ人を自称する主人公を執念深く疑い続ける兵士(マイヤー)と、彼を取り巻く二人の女性兵士(エルザとヤナ)、男性器が小さいとエルザにディスられたことを根に持ち、ソビエト戦線送りにする強制収容所長。。
すべての登場人物が、実に人間臭い。
本題からは逸れてしまうが、、、
ユダヤ人強制収容所を舞台にした映画である以上、
生と死の隣り合わせを描こうとしている以上、
残酷なシーンはなくせないかもしれない。
しかし、個人的には、無抵抗な一般市民がなにもできず殺される映像は見たくない。
そのような劇薬がなくとも、死と隣り合わせの恐怖は描写できるはず、だと思えてならない。
人が産み出しながら人をも超越する「言語」なる神
ナチスドイツによるホロコーストが進む二次大戦真っ只中、とあるユダヤ人の青年が銃殺寸前にまで追い込まれる。
しかし、彼は咄嗟の機転で「自分はペルシャ人だ!」とでまかせを叫び、そして運良くペルシャ語を習いたがっていたナチス大尉のコッホに言語教師として雇われることに。しかし、彼は偶然知っていた「Bawbaw(父)」という言葉以外のペルシャ語なんて知らないため、インチキ言語を創作し続ける命がけのレッスンを強いられることになる……!!
題材にユダヤ人大虐殺たるホロコーストを選んでいる時点で、物語のトーンは終始重めのシリアスではあるんですが、もうこのあらすじの時点で滅法面白いです。
いや、本当笑いごとではないんですけど、常に漂っている緊張感も相俟って、申し訳ないんだけど笑ってしまう……って場面は多いんですよ。
なんせ、この偽ペルシャ人のジルくん(ジルはペルシャ偽名で本名は“レザ”)生き残るために必死なあまり、意図せずして自分から追い込まれがちなんですもん……
「適当に単語ベラベラ喋っちゃったけど、これ俺も全部覚えなきゃいけないじゃねーか!!」
「あのドイツ人野郎、1日4語とか言ってたのに真面目だから40語も覚えやがった!!」
可哀想。
偽ペルシャ人のジルくん、そりゃ生き残るために必死なんですけど、生死の境目を飛び越えるために極めるのが「インチキ言語」ってギャップがやはり面白いんですよ。
そして、ジルくんが必死であるほどに、我々も彼を応援して物語により深く感情移入してしまう。この構図がよく出来ています。
コッホ大尉「そういや“木”って習ってなかったな。何て言うんだ?」
ジルくん「“ラージ”」
コッホ大尉「それは“パン”って意味じゃなかったか!?貴様、やはり嘘つきの豚野郎か!!」
ジルくん「ち…違いますゥ~!同音異義ってヤツですゥ~~~!!」
マジで大変……!!
コッホ大尉は正規の軍人ではなく、料理人として赴任しているってこともあってどこか妙に憎めない部分があるんですよね。ドイツ人らしい生真面目でキッチリした部分があるし、雇ったとはいえ所詮捕虜に過ぎない筈のジルくんも言語教師としての仕事を評価して向き合ってくれるし……
それはやがて奇妙な友情らしきものにまで発展します。
考えてみれば、このジルくんの「インチキ言語」って“世界でこの2人の間でだけ通じる言語”っていう特別で特大の関係性そのものなんですよね。
予告にもあるインチキ言語で得意気に詩を創るコッホ大尉と、それに対して「素敵です」と宣うジルくん。事情を知る端から見れば、とてつもなく滑稽な場面ではあるんですが、2人の間だけの共通言語という関係性を通して見ると、皮肉以上の“何か”は確かにあると思えちゃうんですよ。
ただ、結局はコッホ大尉も同胞を次々と殺すナチスの一味でしかない…ということも端々で突きつけてきます。
確かに大尉の本職は料理人であり、直接的な非道は働いていないんですよ。それでも迫害される側のジルくんに言わせれば「殺人者に食を提供している時点で立派な戦争犯罪者」です。
そもそも、コッホ大尉は本来なら戦争に関わらないことも可能な立場だったにも関わらず、自らナチを選んで士官しており、その時点で十分に虐殺に対する責任は問われる立場にあるわけです。
この複雑に捻じれた大尉との関係性のほかにも、同胞が次々死ぬ中で自分だけが言語教師として厚遇されることへの葛藤、遂に現れてしまった本物ペルシャ人への恐怖、激化の一途を辿る戦争……といった全てが絡み合っていくため、常にハラハラドキドキは続きます。
ジルくんもインチキ言語で切り抜けようとする胆力や、収容所の人々の名前に紐づけて単語を次々創作して覚えていく知能の高さを随所で示して鼻を明かしていくスタイルですが、同時にどこまでも善良で責任感がある好青年なため、重圧に押し潰されそうなところがひたすら辛い……
罪滅ぼしとしてイタリア人兄弟に親切にしたら、その恩返しに兄の方が本物ペルシャ人を殺してしまう展開なんかは、観ている側も胸を締め付けられる思いでいっぱいになりました。
そんなワケで面白いあらすじに見合ったレベルで、とにかく見どころに溢れまくりな作品なんですが、特に圧巻はラストに至る展開です。「一体どこに転がっていくんだ?」と最後までハラハラしていたら「もうこれしかない!」と納得しかないラストに転がりましたからね……
ところで皆さん、その圧巻のラストの話をする前に一つ質問をさせてください。
貴方は“神”の存在を信じますか?
いきなり何を怪しげな質問をしてるんだ…とお思いでしょうが聞いてください。
ここで僕が言う“神”というのは信仰的な意味合いは持ちません。人の手で産み出されながらも、人の手を離れて超越してしまった存在のことを指し示しています。
僕は「言語」がその“神”に該当する存在だと考えております。
古く聖書において、神の怒りによってバベルの塔と共にバラバラにされてしまった「言語」が神というのも皮肉な話ではあります。しかし、生物でないにも関わらず国や時代を超えて絶えず淘汰と進化を繰り返し続け、人々をその独自のルールの下に縛り付けるその在り方は“神”以外に形容のしようがないとも思うのです。
この「言語≒神」論を前提に置きつつ、話を映画に戻しましょう。
映画終盤、戦争も末期に差し掛かりナチスドイツの敗北が濃厚となる。ジルくんのいる捕虜収容所も放棄が決定され、非道な戦争犯罪の証拠書類と共に捕虜たちも次々と虐殺されてしまいます。
コッホ大尉もナチスを見限り、収容所を捨てるどさくさに紛れて、以前より準備を進めていたペルシャへの亡命を決行。しかし、大尉は逃亡の折にジルくんも連れていき、そしてペルシャ語を教えてくれた感謝を述べながら解放してくれるのです。
それはもうリスク承知の義理堅さによる行動であり、大尉にとってジルくんとの友情は“本物”であったという何よりの証左でした。
この一連の流れで、第三者である観賞者からしても、大尉に対する感情が変わっちゃうんですよね。
自らの意志で虐殺に加担した戦争犯罪者ではあるけれど、助かってしまってもいいんじゃあないか?と……
しかし、結果は明白でした。
大尉は亡命先で話す言語がインチキペルシャ語であるため、正体がすぐにバレて捕まってしまう。誰にも通じないインチキ言語をがなり立てながら、惨めに、ワケもわからないまま連行されるという末路を遂げます。
一方、ジルくんはというと、連合国に無事保護され、逃亡に成功します。
その際、ナチスに焼却されたユダヤ人の同胞の名前が記された名簿の情報が知らないかと問われるのですが、彼はそこで2000を超えるインチキペルシャ語の語源である収容所の人々の名前を次々と伝えて驚かれるのです。
この瞬間、ジルくんと大尉の間のみで通じ合っていたインチキペルシャ語の“関係性”は破棄され、名前を失った無辜の民の無念を伝える“記録”という新たな意味がもたらされます。
この瞬間、我々は悟るのです。
大尉は「言語」によって裁かれ、ジルは「言語」によって救済をもたらした……と。
これはもう言語たる神による「神託」に等しい結論なんですよ。
神たるものの裁定であるが故に、我々が感情を差し挟む余地は微塵もなく、ただひたすらに納得するしかない。
まさかインチキペルシャ語にここまで「意味」と、明暗分かれたクライマックスに対する「説得力」を持たせてくるとは……終盤は本当に脱帽しきりでした。マジでスゲェ……
ナチスは価値観が狂ってるだけで、普通の人なんだと思った。 恋の話も...
ナチスは価値観が狂ってるだけで、普通の人なんだと思った。
恋の話もするし、密告もするし、真面目だし、優しいし、ピクニックを楽しむし。
こんな人たちが、平気で人を殺せるのが、人をゴミのように扱うのが、怖かった。
一歩間違えてたら、この人たちと友達になれてたかもしれない。
主人公はどうやって造語を覚えたのだろう。
人の名前を使って言葉を作り出したとしても覚えられる量ではないだろうに。
そこがピンと来なかった。
イタリア人がイギリス空軍のペルシャ人を殺したのは、戦争で関係が悪かったからとかかな。
嘘のペルシャ語がバレることにハラハラするだけの映画ならキツいと思ったが、そういうストーリーではなかったので良かった。
最後のシーンで主人公が名前をたくさん言えるのに感動的な音楽をつけていたが、うーん、唐突すぎて、ちょっと感動が空回り。
自分だったらそこまでやれない
自分だったら、嘘をつき続けることを諦めて、早々に運命に任せるだろう。この主人公も、ちょうど半分の時点で強い疑いを向けられ、そこで終わりかと思った。女性兵士の思惑も、どこで影響するのかわかったものではない。一人だけ優遇されるようになり、仲間に食糧を分けてやる様は、『アウシュビッツのチャンピオン』に似た感じを受けた。最後の危機にも、助けた者から助け返されるとは、思いもしなかった。生き延びて、犠牲者たちの名前を伝えることができたのは、確かに『アウシュヴィッツ・レポート』にも匹敵する。助命した大尉が報われなかったのは、加害側として仕方ないところかな。
偽ペルシャ語の語源
製作陣を見てほしい。ドイツ・ロシア・ベラルーシ合作、監督はウクライナ出身。政治的には今やあり得ないチームが、喜劇とも悲劇ともつかないホロコースト映画を作った。まことに歴史は変化するもので、決して一面では語れない。敵は敵のままでなく、味方も味方のままではない。
もちろんナチスの行為は永遠に正当化されることはないだろうが、この映画は、ナチスにいた人間をきちんと人間らしく描いている。彼らもささやかな希望を持った普通の人間であり、だからこそ普通の人間が大罪に加担してしまう怖さを考えさせられる。
コッホ大尉も、生き延びてほしいと願わずにいられない愛すべき人物だった。貧しい育ちで教養もなく当然ペルシャ語はおろか外国語習得の経験もないのだろう。ジルをペルシャ人と信じることで希望にしがみついているのだ。
一方、ペルシャ人を装うジルの、生か死かの綱渡りの展開にはハラハラさせられるものの、彼の事情がユダヤ人ということ以外まったくわからない(見逃しか?)ため、コッホほど感情移入ができない。それでも次第に自分の特権的立場がつらくなり仲間を助けるに至る姿は見る者に希望をくれる。地獄のなかにあって身を捨てて善を行う、これも人間の一面と信じたい。
でまかせのペルシャ語の語源となった数千の名前をそらんじるラストは感動的。その名を持っていたひとりひとりの生の重みが余韻となっていつまでも胸に響く。
名前の意味
架空言語モチーフと知り、SF好き的に胸が踊った。ぎりぎり間に合って新年1本目。
あらすじから、主人公が無からどう言語体系を組み立てていくか、矛盾を追及されたら(偽ペルシャ語とバレれば殺される)どう乗り越えるのか、といった点に興味を持った。
結果は、劇中ではほぼドイツ語から創作単語への置き換えに終始し、文法の話がなくやや肩透かしだった(「矛盾」もあったが、既出語の重複だった)。
だが、その「置き換え」こそが主人公を次第に蝕む。彼は厨房仕事の合間に作成を命じられている収容者名簿の人名をもじって新語を創出する。それは増え続ける単語を忘れないための工夫だった。だが、自分が生き残るために捻り出すその一語一語が、死地に送られるユダヤ人ひとりひとりの命だと気づいた時、教え子のSS士官の庇護から逃れて、絶滅収容所への列に自ら加わってしまうほど追い込まれる。
ラストの独白はユダヤ人社会や遺族には(死者が闇に葬られるのを防いだという意味で)ある種の救いだが、生き残った主人公にとっては一生背負わなければならないくびきでもある。
一方、教え子は元々は料理人で、「何となく」SSに入隊し、収容所の職員食堂を預かる立場にいる。仕事は几帳面、学習においては真面目で、一貫して約束を守る人物として描かれる(だからこそもうひとつのラストがカタルシスとなるわけだが)。
彼は(ペルシャ系の人間を探すため?)収容者名簿の仕事も担当しているが、彼にとって重要なのは字がきれいで表が整っているかで、書かれた名前は単なる文字の羅列に過ぎない。そこに関心が及んでいれば(実際、名簿のからくりに気づいたかと思わせるシーンもある)、主人公の嘘を見抜けたかもしれない。
結局、ユダヤ人の虐殺には直接関わっていないと自分を納得させたところで、行われていることに無関心であったことの報いを受けたといえる。秀逸なプロットだと感嘆した。
ただ、教え子が最後まで偽ペルシャ語に気づかなかったという設定には若干無理がある気がする。前線の配属先では情報入手が困難だったのは分かるが、脱走後イランに到着する前には第三国を経由しているはずで、読み書きを習っていないとしても、下調べや機内を含め本物のペルシャ語に一切触れないというのは不自然に思える。それだけ主人公を信じていたと強調するためか。
前半は自分に負荷をかけながら必死に頭をフル回転させるスリリングな「...
前半は自分に負荷をかけながら必死に頭をフル回転させるスリリングな「1人なんじゃもんじゃゲーム」。大尉がカード切るたびに、自分王国の言語を捻り出し、目の前の相手を信じさせる為、孤高の闘いを繰り広げる。少しのミスも許されない、the・記憶力ゲーム。
初めは自分が生き続けることだけを考え行動していた主人公だったが、収容所で過ごす中で、ユダヤ人が執拗に虐げられたり、情が芽生えた仲間が無残な形で死を遂げたりする姿を目の当たりにし、次第に自分だけ嘘で生かされ続けていることへの罪悪感を覚え、自ら死を選ぼうとする。
だが終盤、生き残るために撒いてきた種に、思いがけない形で救われることになる。
そして、全てが線になるラストの仕掛け。このような形で話が繋がるとは。変な言い方だが、名簿の妙。
歴史の証人として個々の名を名指すことの意義は、アルモドバルのパラレルマザーズのラストや、ジャネイルモネイのHell You Talmboutにも通ずるものを感じた。まるで、お前にはまだ重要な責務が残っていると言わんばかりに脚本に生かされ続けたようにも思える。
思いがけない地平に辿り着いた今、この物語の証人になれたことを貴重に思う、豊かな鑑賞体験であった。
最後までハラハラドキドキの連続
最後まで生き残れるのって、機転と決断力と集中力なんですね。戦争は本当に嫌だ。全てを失うことになるから。この極限状態で平静な心を持ち続ける事ができるのだろうか?いつペルシャ人でない事がバレるのか、最初から最後までまでハラハラドキドキでした。これだけ残虐非道な行為を強いられたユダヤ人が、今はパレスチナ人に対して行っているのが皮肉だ。戦後も多くのナチ党員が生き残り、行政を牛耳り何のお咎めがなかったという。人間はいつになったら、この愚かな歴史から学ぶんだろうか?
【”2840人の、ナチスの犠牲になったユダヤの民の名前。”驚異的な発想力と記憶力により、自らの負の運命をこじ開けた男の物語。ハラハラしながらも、ラストシーンは、可なり琴線に響く作品である。】
ー 実話に基づいた物語である、と冒頭テロップが流れる。-
◆感想
・ユダヤ人である、ジルが収容所で生き延びるために必死になって、収容所の元料理長のクラウス・コッホ大尉の、”終戦後は、テヘランでレストランを開きたい。”と言う願いの元、ペルシャ人と偽ってコッホ大尉に偽のペルシャ語の単語を教えていく過程が、ハラハラしながらも魅入られる。
・収容所には、ジルの事をユダヤ人と見抜いて、執拗に彼を追い詰めるマックス兵長がいるが、コッホ大尉の計らいで、料理係になったジルは必死に、収容所のユダヤ人達にスープを配る際に、一人一人の名前を聞き、”疲労””希望”と言った単語と名前の一部を結び付けて行く。
・新しく入所させられた囚人の中に、ペルシャ人が居る事を知ったマックス兵長の嬉しそうな表情。そして、調理室を訪れ、ジルを収容所の棟に連れて行くシーン。
ー 物凄く、ハラハラしたシーンである。だが、そのペルシャ人は障害がある弟と自分に、ジルがコッホ大尉から貰った肉の缶詰を貰った男により、首をナイフで切り裂かれていた・・。-
・そして、ナチス・ドイツが連合軍に追い込まれ、収容所も閉鎖されるシーン。所長は、ユダヤ人を総て始末しろ!と命令するが、何故かコッホ大尉はジルを連れて、収容所を後にし、途中で”新しい人生を・・。”と言って別れる。
ー このシーンは、元々ナチスの行為に嫌気が差していたコッホ大尉が、ジルが”ユダヤ人の命は、貴方たちよりも尊い”と勇気を持って言い放った事やキチンと捕虜名簿を綺麗な文字で書く姿勢など、彼の言動に親近感を覚え、”クラウスと呼んでくれ”と言った事が背景にあると、私は思った。-
・コッホ大尉がパスポートを偽装してテヘランへ脱出しようとするもジルに教わった偽のペルシャ語が通じずに取り押さえられるシーンは、実にシニカルである。
<ラストシーン、ジルがユダヤ人を保護したテントで、”収容所に居た人物の名前を一人でも良いから言ってくれ・・。”と問われた際に、彼の命を助けた暗記していた、ユダヤの民の名前を次々に口にするシーン。
その数の多さに驚く、多くのスタッフやユダヤ人たちの表情。
可なり琴線に響いたシーンである。
現況下、反戦映画の逸品が又一作、この世に出た事に深い意義を感じた作品である。>
関係性に誤解した友情
ナチスの収容所という設定が特殊すぎて、身近に置き換えることが難しいかも。
けど何年もペルシャ語らしきものを教えてもらい、自分は庇護を与え、全能の立場から友情を築けたと思えるクラウスの傲慢さよ。こういう男の人いる。仕事以上の間柄になれたと勝手に思い込む人。それ違いますから、あなたが権力持ってるだけですから。
ラスト、ベルギーの偽造パスポートでイラン入国できなかった彼の末路は気になるが、そうやって命懸けで逃げたユダヤ人のことに想いを馳せただろうか。ないな。
娯楽色が強いナチスもの。
ナチスによるユダヤ人虐殺という題材は映画で取り扱うには何かとナイーブな点が多く、評価も難しい。なにせ原爆投下に匹敵する人類史上最大の蛮行なのだから。
その蛮行を余すところなく描いた「サウルの息子」や「シンドラーのリスト」などを鑑賞した後では何かとハードルが上がってしまう分野だ。
最近の「アウシュビッツレポート」や「ホロコーストの罪人」などは真摯に歴史と向き合った好感持てる作品だった。
ただ、一見娯楽作品のように見るものを楽しませながらも深いメッセージがくみ取れるものとして「ライフイズビューティフル」や「ジョジョラビット」のような作品も捨てがたい。
では本作はどうかというと、一見ナチスものだが、その実、娯楽色がかなり強い作品と言える。だが、本作が「ライフイズビューティフル」のような作品かと言われると少々中途半端感が否めない。
本作は主人公が、命欲しさについたとっさの噓がいつばれるのかと見る者の興味をそそる展開なため、あまりナチスによる蛮行という点に重きが置かれていない。というか見る者が重く受け止められないような作りになっている。
だから、本編にあるユダヤ人の虐殺シーンを見てもとってつけたようにしか見えず、気分的にもあまり重く受け止められない。そういう点で本作は他のナチスものと比べてかなり気楽に見れた。すなわちほかの作品よりもさほどヘヴィーではなかったということ。
話の展開も後から本当のペルシャ人が現れたり、コッホ大尉がテヘランに行って全く言葉が通じないなんて、観客の誰もが予想する展開が用意されていて、作り手の浅さが感じ取れる。
ただラスト、創造した言語の数だけ収容者の名前を憶えていたという点はやはり史実に則ったというだけのことで重みは感じ取れた。
それでもやはり作品全体としては深みが感じられない、どっちつかずの中途半端な作品という感じだった。
そして本作を娯楽作品としてとらえるにしても、一番本作で重要なコッホ大尉がジルをペルシャ人と信じるに足る動機づけが弱すぎた。コッホ大尉は初めからジルを信じていたわけでなく半信半疑でその様子を見ていたはず。その段階で果たして彼の話すペルシャ語を真に受けて学ぼうとするだろうか。ジルの噓が後から発覚すれば全く無駄な時間を過ごしたことになる。
まず、しょっぱなにジルをコッホ大尉が信用するに足りる証拠なり客観的事実が説得力を与えるために必要だった。それもなしにあれよあれよとジルを信じてペルシャ語教室は進んでゆく。その後ジルが下手を打って、騙されたと逆上するコッホ大尉。この辺りはどう見てもコッホ大尉が馬鹿にしか見えない。そして寝言で造語のペルシャ語をつぶやいてるジルを見てやはり本当のペルシャ人だと思い込むという、もはや本作はコメディーなのかとさえ思えてしまった。
他にも将校の一物が小さいなどの中傷をしたがために女性看守が左遷されたり、軍人のくせに風呂場を覗くなどの風紀の乱れっぷり。ある意味当時のナチス党の人間がこれだけ愚かだったとコケにして笑うような作品なのかなと思えた。
とにかく、鑑賞中そんな感じで素直に本作をナチスものとしては他の作品同様に印象深いものとは受け止められなかった。
喜劇のような悲劇
口コミは賛否両論ですが、私は劇場に行って良かった。ナチスドイツの暴虐を描いた芸術作品は多くありますが、この映画は『夜と霧』以上に収容所内部の視点から大戦中のドイツを知ることができたと感じます。冒頭に主人公と同じ車に乗ってきた大量のユダヤ人達が一瞬にして機関銃で死体の山になった、あの、あの湖の畔で、ピクニックを楽しむドイツ人士官たち…。背筋が寒くなりました。
40語の一覧を渡されたときや、「木はラージだ」と返してしまったときのようなわかりやすく息を呑む瞬間はもちろん、女性士官が再度名簿係に復活して定規を挟んだまま退出したときもハラハラポイントでしたね。
そして物語の終盤から「いま、『皿、はなんだ?』と聞かれたら思い出せない」とか考えてました…。
一方で、大きな歴史の流れに抗えなかったコッホ大尉にも感情移入しながらの観劇でした。彼がテヘランにたどり着き開業したドイツレストランで、ジルと「二人にしかわからないペルシア語」で会話する未来を妄想しました。
見応えがあった
ナチスにユダヤ人ではなくペルシャ人だと嘘をついたために、戦争後にレバノンでレストランを開きたいと考えていたナチスの大尉にペルシャ語を教える羽目になり、出鱈目の言葉を教える。
大尉が真剣に勉強すればするほど、バレた時は何て恐ろしいことかとゾッとする。
大尉は部下に「彼はどう見てもユダヤ人だ」と説得されるのに信じなかったのはレバノンに行って夢を実現させたかったからで、父親はお湯を売っていたというくらい幼少期は極貧という過去がある。そういう打ち明け話をしてしまうほど、彼を信頼していたわけだが、その信頼はもちろん一方的なものである。権力者側がマヌケなのは嘲笑ものだが、この作品ではドイツ軍の人間関係も描いていて、ナチスの中にも当然ながら色んな人がいたんだなと思う。
アメリカ軍が来て収容所は撤収となり、夢を実現するためにいち早くレバノンに飛ぶ大尉は、訳の分からない言葉を話したために入管で捕まってしまう。彼の気持ちを考えると、何とも可哀想。
一方、大尉の配慮で収容所から脱出できた彼は無事に保護され、収容されていたユダヤ人について聞かれると、収容者の名前を元に偽の単語を作り出していたため2800人の名前を記憶していた。元々、記憶力のいい人物だったのか、死と隣り合わせの恐怖が彼をそうしたのか。
ナチスの残酷さを描きつつも、それだけでない、人間の深く複雑な関係を描いていて面白かった。
「BPM」のイケイケな青年が、あの小柄な主人公と同じ俳優とは!
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