「認められる意義といくつかの問題性」桜色の風が咲く てつさんの映画レビュー(感想・評価)
認められる意義といくつかの問題性
この作品の存在を知ったとき、27年前に浜木綿子氏が「おふくろシリーズ」で同様の母子物語を演じたテレビドラマや、ご本人たちが NHK教育テレビ『ようこそ先輩』に出演して生育歴を語られた映像を思い出し、それらをできるだけ思い浮かべながら鑑賞に臨んだ。大きな違いを感じたのは、『ようこそ先輩』では、令子氏が智氏の段階的に障がいを深めていく過程を明るく語られていたので、ショックはそれほど大きくなかったのかもしれないと誤解していたのが、この映画を観ると、それぞれの段階でかなり深刻な悩みを抱えられていたのがまざまざと伝わってきた。そういう点では、
このたびの制作には意義深く感じた。赤ちゃん時代を演じた子を生き生きと演じさせるに当たって、パンフレットには、令子氏役の小雪氏がすっかり懐くまであやして関係づくりを進めていた努力が説明されていた。智氏は、母がモデルの映画なら断れない、と引き受けることになり、誤解や誤認が生じないように脚本のチェックを条件とし、特に可哀想な人の話にしないこと、苦悩してものを壊したり暴れるということはなかったので、そういう脚色はしないでほしいということを要望していて、第1稿からかなり注文をつけ、二十数回に及び、智氏は、視覚障がい者や盲ろう者に属する部分はかなりリアリティのあるものとなったという手応えを得るとともに、小雪氏に対しては、チャレンジ精神にあふれ、パワーがあり、「母親」であるところが令子氏と共通しており、田中偉登氏に対しては、ガッツに柔軟性、ユーモアもあるところが、自分に似ており、この作品で描かれる智氏の例を通して、世の中には色んな人間がいる、ということを感じてもらえれば良い、と述べていた。
悪い印象を受ける父の正美氏も、映画で描かれるように、両眼とも失明の恐れのある智氏に気遣って、実際にご自分もサングラスをかけていたことが明らかにされている。撮影条件の制約から、盲学校生活での影響を受けた友人や教師の出演機会が限られ、集約された役柄の造形がなされたところは評価したい。ただし、なぜ東京の盲学校を選んだかの理由がわからなかったので、説明がほしかったところであった。
この母子がたびたび深い絶望に襲われ、指点字の発見から新たな世界への扉を開かれた様子は、ヘレン・ケラーがサリバンとの格闘の末に指文字を綴り、言葉の認識を得た瞬間にも相当するところだと思えた。そうした格闘の努力は確かに敬意を感じるところではあると思うけれども、監督の松本准平氏が焦点を当てているのは、母の息子への献身であり、プロデューサーの結城崇史氏が観客に伝えたいことは、乗り越えられない苦難はない、ということのようである。私個人としては、抵抗感のあることがらである。まさに、世の中には色んな人間がいる、と受け取るに止めたいところである。あえて気になったことを挙げるとすれば、時代的制約でもあろうとは思われるし、徐々に姿勢の変化はみられるものの、結城氏の意向であえて加えられた父親の正美氏の言動で、家族のなかで障がい児のケアが母親任せにされるだけでなく、さらに父親の自分も含む他の家族の日常的ケアの負担をも求めるように追い込んでいったこと、いじめへの対処において、本人が強くなることに解決を求める傾向があったこと、本人の進路選択に当たり、常識的な限界を想定し、諦めることを選択肢として提示したことは、長尾医師の冷淡な姿勢とともに、反面教師として、これからの時代では、障がい者の社会進出を進めるために減らす努力をしていかなけらばならないところではないかと思われた。智氏の妻の光成沢美氏が、これもドラマになった『指先でつむぐ愛』で提起していたような、妻が障がい者の夫のケアをすることが無償で当然とみなされるのは良いのか、ということとは対照的な性別役割分担意識を温存させたり、母親のケア役割の負担増大やいじめ被害、そして進路選択肢の少なさも、乗り越えられない苦難ではない、と看過されることにはならないように願いたいものである。智氏を含め、全国の様々な盲ろう者の日常生活実態をドキュメンタリー作品にまとめた『もうろうをいきる』も併せて御覧いただきたい。