「コミュニケーション手段が奪わていく、壮絶。」桜色の風が咲く Immanuelさんの映画レビュー(感想・評価)
コミュニケーション手段が奪わていく、壮絶。
一言で言えば、「壮絶(そうぜつ)」な映画でした。僕は、「泣ける映画」というよりその境遇の理不尽さ・壮絶さに絶句せざるを得ませんでした。
僕はこの映画を見て、小雪さんが演じるところの智(さとし)さんの母の愛情、そして家族愛に「ハートウォーミングに心が温まった」というよりも、誰もが思うであろうともいますが「もし、智さんの立場に自分がたったらどうなるか」。そのことに戦慄せざるを得なかったです。
映画でも描かれていましたが、闇の世界へ落ちる恐怖。孤独への恐怖。その境遇の理不尽さへの葛藤。
聖句が出てきます。「神は耐えられない試練を与えられない※」。耐え難いギリギリの試練というものも現実に存在することもまた、事実です。
※「・・・神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
(1コリント10:13・新共同訳)
確かに智さんには「指点字」という「逃れ道」がありました。絶望の果てに、一筋の希望がありました。
原作となった智さんの母の著作のタイトルにもなっている「さとし わかるか」。もう、この一言に尽きる。その一言に、母の万感の思いと愛情が込められていると思いました。
人間を人間たるものにするのは、他者とのコミュニケーションです。その手段を奪われかけたところに、一筋の光。他人が軽々に語ることの出来きない、心を揺さぶる圧倒的な現実(リアリティ)がありました。
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