いまダンスをするのは誰だ?のレビュー・感想・評価
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観客と映画が対話する映画芸術作品
パーキンソン病に苦しみながら家族や仕事を失いかけた一人のサラリーマンが病ー障がいと向き合うことを通して、人とも向き合っていく再生の物語。監督・古新舜氏のすぐれた構成によって描かれた、写真のアルバムを紐解くようでもあり、ドキュメンタリーにも感じられる作品である。かつ、一つ一つのシーンに関して、同時代の我々が考えていくべき重要な課題や要素が散りばめられ、観客にとっての思考の隙間がつくられている。そういった意味で映画作品と観客との対話が生まれる可能性をもつ本物の映画芸術と言える。
病や障害については勿論のこと、社会における心理的安全性について、人が人と関わることの貴重さについて、「諦めることを諦め」挫折してもなお一歩ずつゆっくりと歩みを進める人間の弱さと健気な強さについて、そして生の一瞬の輝きを描き、私たちにタイトルの通り「いまダンスをするのは誰だ」と問いかける。
パーキンソン病の主人公・馬場を演じる樋口了一氏もパーキンソン病に罹り、演技に反映されているという。症状が出て、心身ともに過酷な中での撮影もあったという話を耳にした。その過酷さは想像を絶するが、観る者にとって生々しい限りの演技に圧倒される。私たちがそれを受け取った際、病への理解ということに留まらない。
仕事でミスをしたり、下手なプライドから虚勢を張ってみたり、人を羨んで所謂ええかっこしいことを言ってみたり、あるいは他人にあたってしまったり、自分自身の存在や世界を主張したいあまりに私たちがついやってしまいがちな弱さの象徴とも言える言動というものがある。本作品においてはそのどれもが痛いほどに描写されており、「人は弱い」ということが観る者の眼前に予め浮き彫りにされる。
作中では、主人公馬場は自身に余裕がなくなり、カッとなって子に手を上げるまでに至ってしまう。一方では、人は追い詰められるとそこまで堕ちてしまうのか、とも見えるが、また一方では、病の辛さを誰にも打ち明けることもできないながらも、変わらず仕事をしなければと踏ん張ろうとする一人のうな垂れた男の姿がある。どちらにしても「人間の弱さ」に変わりはないのだろう。彼はため息をつくほどに滑稽なのである。
ところが、パーキンソン病のサラリーマンは、妻子に出て行かれ、会社でも居場所を無くしたかのようになり、ええかっこしいで始まってしまった取り返しのつかない嘘がバレてどん底を味わった時に目が醒める。自身を見つめ直そうとするのだ。それまでの人をよせつけないようなバリアも自ら破り、人と関わろうとし、そして自身の持つ病とも関わろうとする。彼が心だけでなく、他者に対して身体も開いていくのを観客は目の当たりにするのである。
悲劇的な状況下から、背筋を伸ばし目に輝きを放ち始めていく主人公の姿は心を動かされずにはいられない。前述の「弱さ」とは対照的に人間の持ちうる「強さ」も同時に描く。個人的には、私の友人が教えてくれた「Life is crazy, but beautiful..」という言葉とも作品が私の中で結びついていった。
また、この作品の台詞は見る者にとっての記憶に残る言葉が多いのではないだろうか。例えば、「諦めることを諦める」と台詞にも出てくる。シンプルだが明確なこの台詞は、私たちの生きてきた中で何かを諦めかけた時のことを想起させたり、もしかしたら今なお諦めようとしている自身に対して立ち止まって見るように投げかけているようにも感じられる。諦めることを諦めるのが、ダンスをする始まりなのだろう。筆者自身は、なおも「いまダンスをすべきなのは誰だ」と鋭い提起をされているように思えてならない。
人は、変われる
病と転勤。大きな問題(課題)を抱えてなお進まなくてはならないとはいえ、妻と娘が出ていく前の主人公は、さながら暴君でした。
気分が重く、目を背けたくなる程に。
それだけに、誤解や嘘もありながら出会い・気づき・経験等を重ね、どんどん視界が拡がっていくような姿に、こちらも励まされました。
人は変われる。いつからでも、どこからでも。
そう思える作品です。
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