TAR ターのレビュー・感想・評価
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ケイトブランシェットは良かった
ケイトブランシェットの演技は良かった。これは文句のつけようがない。
単に自分が早起き+二本目の鑑賞で冒頭のクレジットで半分寝てしまうくらいのコンディションだったのが悪いのかも知れないけど人物と名前が覚えられずやや着いていけなくなった挙句に予告で「映画史に残るラストシーン」とまで煽られてたのがあの終わり方で?????となった
よほど自分にはわからない高尚な意味づけだったのだろうとレビュー観たらモンハンが元ネタ?
いっそ腹が立ってきました
安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作
名誉男性とキャンセルカルチャーの話。ちなみに私は男です。
私がクラシックの知識が全然なく、交わされる会話への理解が乏しいので、退屈しそうだったが、終始引き込まれた。
ストーリーは単純だが、倫理的にはかなり入り組んでいる。
・オープンリーレズビアン
・男性優位の歴史を持つクラシック音楽界で、世界的な頂点に立った女性
・女性の登用や育成に熱心
と主人公のターを紹介すれば、フェミニストであるかのような偏見を抱いてしまうだろう。
ところが、そこに
・女性への加害者性
というこの映画の最大の要素が積み上がる。そのことで、オセロで白が黒にひっくり返されるように、すべての見方が変わる。
ターは乱暴に言うなれば「名誉男性」とフェミニストから批判されるような人物なのだ。彼女は決して男性に高圧的なわけではなく、むしろ才能には等しく敬意を払うし、傲慢な人間ではない。
だが、権力者だし、その力をはっきりと自分のエゴのために利用する。そのことが世間に発覚するや否や、彼女の輝かしい人生は暗転していく。
ターをヘテロのシス男性に設定したら、ただのマチズモ批判映画だし、(メッセージとしては良くても)正直面白みはあまりない。その点、実はターはマッチョな「レズビアン」なのだ。
劇中、たびたびターが自説を語る場面が描かれるが、非常に論理的で理知的、個人的にさほど違和感を抱くことはなかった。だからこそ、次第にターのマチズモが明かされていくにつれ、いろいろと考えさせられてしまった。
かなり詳しくは語られない映画で、いろいろとわからないことも多かった。見方はいろいろある。むしろ反フェミニズム映画という見方すらある。
・人道的見地からバッハを否定する学生を論破するシーン。正直、私はターの説教にうなづいてしまったが、どうだったのか?
・副指揮者候補の秘書は、ロシア人チェリスト同様に、権威を利用したいだけの人だったのか?
・ターが怪我を負う場面で、男性のせいにするウソは、なんだったのだろうか?
わからないが、ターは人の意見やアドバイスを、実は聞こうとしない。唯一絶対的にピュアな愛情を注ぐ養子のいじめ問題にさえ、本人の意志を聞いたうえで行動するわけではない姿勢に、「聞かない」ということが、何より権威主義やマチズモの象徴的な行為なのだなと感じた。
近年、やたら増えたぶん、固定化したジェンダーメッセージを受けて食傷気味だったなかで、かなり揺さぶりをかけている映画であることは間違いない。
当たり前のことだが、フェミニストだの、ゲイだの言っても、一枚岩で同じ考えのわけではない。まったく劇中では描かれないが、ターの悪業が炎上し、キャンセルカルチャーの渦に沈んでも、なお擁護するフェミニストやジェンダーマイノリティの支持者は、この映画の世界にいたのではないだろうか。いろいろな感想を聞いてみたくなる映画だ。
ターよ、めげるな!
リディアターの落城なのか?
クラシック界の女性指揮者は、男性社会や、妬み、そらみ、恨みとの世界。すごいね。ジュリアードでのシーン。隣のおばちゃん。リディアのトレーニング。
えっ!Jゴールドスミスの猿の惑星は、盗作?
ベトナムの川は、地獄の黙示録でワニがいるから、泳げない。笑いますね。ケイトブランシェットの演技は160分を長くさせない。
5回観た
「TAR」に魅入られ、5回も観てしまいました。
繰り返し観て、あっ、そういうことかと納得した箇所、何回観ても心を動かされるシーンをいくつか。
●赤のボールペン
副指揮者のセバスチャンを“急襲”したTAR。TARがデスクから素早くポケットに入れたのはセバスチャンがいつもカチャカチャやってTARをいらつかせていた赤のボールペン。自分のペースを乱す“リズム”を何よりも忌み嫌う彼女は、先んじてボールペンを奪うことにより、自身のペースでセバスチャンを退任に追い込むことにまんまと成功したのでした。
●クリスタの幽霊
冒頭から赤毛の後頭部が映っていたクリスタ。その後もストーカーのようにTARにまとわりついていましたが、TARの自宅にも居ましたよね!時系列的にはたぶん既に自死したあと。ということは…。
あの幾度も出てくる模様を、メトロノームに描いたりペトラの部屋の粘土で造ったりしたのもきっとクリスタなのでしょう。
夜中に「リディア!」と叫び、TARにしがみついて何かに怯えるペトラ。彼女にはクリスタが見えていた?
●指揮するTAR
自宅のピアノでマーラーを弾くシーンからいきなりリハの現場に突入。流暢なドイツ語や身振り手振りでオケに指示したり、コーヒーブレイクしたり、いろんな動きがとにかくカッコイイ。TARが指揮するところだけ何時間でも観ていたい。
●№5
アジアの某国に流れ着いたTAR。気持ちも新たに音楽に向き合います。「時差ボケがひどくて」
とホテルのフロント?に相談したところ、紹介されたのは風俗っぽいお店。“水槽”の中にまるでオーケストラのように配置され、俯いている女性たちの中から指名するよう促され戸惑うTARに、ひとり目を見開き射るような視線を向けた女性の胸には№5と書かれたプレートが。たまらず店を飛び出し、通りで嘔吐するTAR。
権力の座から引きずり降ろされ、ニューヨーク郊外の実家?に戻り、レニーのビデオを観ながら涙していたあたりから、TARの気持ちは変化し始めていたんだろうけど、№5(=道半ばで挫折した交響曲第5番)に眼差しを向けられ、自分が犯してきた数々の醜悪な罪に初めて気付いた瞬間でした。ここは何度観ても泣けます。
●再生
指揮台からオーケストラの子どもたちに、作曲者の意図について考えてみましょうと語りかけるTAR。きっと自分の姿を恩師レニーに重ねているはず。
そしてラストのコンサートシーン。これから旅に出発するぞ、覚悟はいいかといった意味のナレーションが流れ、モンハンの正装をした観客に見守られる中、TARは再生に向けて新たな一歩を踏み出しました。泣ける。
ゲーム弱者にとっては、まさに???
やはり、ケイト・ブランシェットは凄い。
彼女以外では本当に有り得ない。
またマーラーの5番というチョイスが、まさにグーの音も出ないというべき見事な設定。
意表を突く構成も面白い。
本来であれば、エンディングの後に流れるはずの長いクレジットが、なぜか?冒頭から延々と始まる。
そして、その意味が、観終わった後になって「な・る・ほ・ど〜」となる、あのラスト!
しかし、ゲーム弱者にとっては…
まさに???となってしまう…
さらに言うと、ストーリーの脇の甘さが気になる。
メールの削除が出来てない事を知りつつ、そのまま放置というのは、全く現実的でない。
あのシーンは、もっと強権的にアシスタントを追い詰め、確実に削除させないと。
まあ、そもそも、各オーケストラ団体に届いていた着信メールが明らかになれば、削除の意味もないのだが…
そういった意味でも、もっと自身の保身を盤石にさせる老獪な策は練らないと…
また、その一方、投資家であるエリオットが、裏から法曹界に働きかけ、強力な弁護士は使えないように指図していたとか…(そうなれば、より一層あの乱入シーンも際立つ)
そのくらいもないとねえ…
まあ、別に本作は権謀術数のサスペンス映画でも無いのだが…
リディア・ターなる人物が、実際本当にいるんでは?と思えるほど、非常に現実感の強い演出と芝居で引き込まれる展開だったので、やはりプロットの方もリアルに徹してくれないとねえ…
結果どうしても手抜きに見えてしまう。
監督自身も語っていたが、この映画のテーマの肝は決して表面的なキャンセル・カルチャーの歪みなどでなく、権力それ自体の腐敗にあるのだから。
権力を持ってしまった者の腐った足掻きは、もっとリアルに見せて欲しかった。
そこは、ちょっと物足りなかった。
あと、ドイツ語の台詞は全て字幕を入れないと!
元の英語版に英語の字幕が入っていないシーンは、そのまま殆どスルーしてしまったのだろうが、やはりヴィスコンティの件は入れるべき。
たぶん「ヴィスコンティの事は忘れるように」と言ってるのだろうが、まさにその『ヴェニスに死す』が、その後の彼女の行先を暗示してるのだから。
そして、そのマーラーの第5番のライブ録音がリディアにとって一世一代ともいえる大仕事であることは、劇中もっと繰り返し伝えた方が、いろんな意味で効果的であったと思うが…
しつこいのは野暮と思ったかねえ。
まあ、それにしてもケイト・ブランシェットの圧巻の演技!100年経っても語り継がれるのは間違いないと思う。
リスペクトの対象
なんだろ、コレは?
作中のクラシック同様に監督の意図を読み取れとでもいうのだろうか?まるで作中にあるクラシックの楽譜のような構成だった。
この作品の見方が分からない。
後半などはエラく駆け足だったようにも思う。
冒頭から語られるのは「ター」という指揮者の紹介だけだ。こんな事してこんな性癖があってこんな考え方で…なのだけど、彼女の素顔は見えてこないようにも思う。肩書を維持する為の立ち居振る舞いを延々と見せられてるような。
彼女には指揮者という権力があり、それに見合う実績もある。それ故に生殺与奪の権限までも有してるかのようだ。後半になりその一部が発覚し、彼女は落ちぶれていきのだけれど…その件の早いこと早いこと。
まるでブツギレのように事象だけが繋がれていく。
ほいで、崇高なクラシックとはかけ離れた、ゲームのイベントのような会場で幕は下りる。
は???
問題は、何も核心を描かないというか…観客達が共有するものが極端に少ないという事だ。
物語に色々と転機は訪れる。それなりの材料は提示もされる。でも、そこの詳細な感情などは描かれない。主人公にも脇役達にも。
だから、冒頭の書き出しになった。
「映画の詳細な物語をどうぞ皆様で構築してください。まるで指揮者が楽譜や楽団と対峙するかの如く」
…いや、知らんがな。
だから、この映画を何に分類していいかも分からない。
大筋は提示されるも解釈は無限に広がるのだ。
メッセージ的なのはいくつはあって。
スキャンダルによる才能の消失だとかはわかりやすい。
権威を振り翳す者の末路とか。彼女自身も虎の威を借る狐に見えなくもない。
彼女に優秀な才能があるのは確かなのだろう。でも真にリスペクトされるべきはバッハでありベートーヴェンのはずである。そのリスペクトの対象を本人も周囲も世界さえも間違えてるみたいな。
ターをそのまま映画に置き換えるのならば、監督も主演俳優も作品を構成するパーツでしかないのだから、踏ん反り帰って偉そうにする資格などなく…作品以外をリスペクトするような事は滑稽でしかないのだ。
現に彼女は落ちぶれていったけど、バッハやベートーヴェンが落ちぶれるような事はないのだ。
分からないけど、ハリウッドの現体制への警鐘も含んでるのかもしれない。
まぁ…拡大解釈ではあるけれど。
主演ケイト・ブランシェットは流石であった。
何ヶ国語を喋るんだとも思うし、学生に講義してたあの1カットは…エゲツない。
ほぼ1人で喋ってる。莫大な情報量の台詞だし、ピアノを弾けば歌まで歌う。
そこにいる他の役者陣は相当なプレッシャーだったんじゃなかろうか…。
謎、ではないが、余白に満ち満ちた作品だった。
クラシックの業界に明るかったり楽曲の知識があったりする人はまた違う観点もあるだと思われる。
毛糸・ブランケット
ケイト・ブランシェット目当て
低めの声が魅力的な、気品とエロスのフランス貴婦人
フランス女優陣は、変わらぬ美貌の持ち主多し
月刊ロードショーの、ソフィー・マルソー特大全裸ポスターは国宝レベルです
3冊買っとくんだったと今も後悔
昔、古本屋で見つけたけどポスターガビガビ…
昔 懐かし おぞましい記憶
前日にラストエンペラー4Kレストア版を劇場鑑賞したので、3時間ダラダラ映画にはバッチリ耐性が出来てました
この映画(ター)は終始、厳しい芸術世界のピリピリとした緊張感に包まれて引き込まれます
緊張感を生み出してるのはケイト1人
いつもと違う、つぶらな瞳
特殊メイクか、瞳だけノーメイク風なのか…?
厳しい世界の頂点に長年君臨する女性って、眼力が凄いハズなのに、瞳だけは少し穏やかな印象
こういう人が1番ヤヴァイ
喋って動けば圧が凄い
緊張感ハンパない
本当に怖い人だった…
芸術界のピラミッドの頂点に立つ者は、1度でもつまずくと、地上まで転げ堕ちるのか…?
身から出たサビ…?
他のレビューにも書いたけど、昔 勤めてた会社に、鬼の様に綺麗で、鬼の様な性格の鬼女上司が居ました
鬼美人なら全てが許されるのだと、この時学びました
リディア・ターの振る舞いは、この鬼に少し似てました
鬼はビアンではなかったが…
思い出すと、今でも少しだけ過呼吸になります
歳のせい? 涙
この監督のリトル・チルドレンは大好き
物凄いエロスと物凄い大号泣だった
ポルシェ タイカンと、(たぶん)マイバッハ?が効果的だった
終盤は人生を物語る様に、5の型落ちタクシーへ…
(5も好きですが)
特にタイカンはプロモ映像みたいだった
タイカンを体感的な…
スポンサーなのか?
昔の日産みたいなエグい契約じゃなきゃいいけど…
映画冒頭でスタッフテロップ数分…少し嫌な予感
そしてレコードジャケットを素足で踏みつけるシーン
僕も踏まれたい
嫌な予感を払拭する、序盤から圧巻の台詞劇スタート
ワンカット?
ケイト劇場開幕ナリ
本物より本物に見えるインタビューシーン
指揮シーンの、字幕なしの流暢なドイツ語
インディジョーンズ4の、ゴリゴリのドイツ語も良かった
あれはハリソンを食ってた…
張りのないハリソンをゲシュタポ?ケイトが捕食
軍服もイイネ!
ハキュン
でも、コスプレならソーのヘラが1番
たしか、あの映画もケイトが全部持ってった記憶が…
そして走る姿が美しい
熟女系ターミネーター
なぶり殺されたい
銃殺は嫌
伏線が多いけど、結局は観客の集中力を持続させる為の、効果的なダミーだった
高級アパートに不釣り合いな、介護に苦労してる怪しい隣人
ダミーキャラなり
含みを持たせた人物ばかりだが、ほぼ全員美人なので見入っちゃう
ハニートラップ
ハニーフラッシュ
ハニーアントワネット
網にかかってマイっちんぐ劇場
珍しく毛の生えたマーク・ストロングマシン
バーコード・ストロングマシンに進化
退化?
芸術家的キモさは男の憧れ
人の事 言えない…
結局、損な役回り
ラストで見事に芸術的にボコられる…涙
このシーンが、かなり持ってく♪
貧乏ゆすりが止まらない人間バイブな黒人生徒
医者に行け…涙
中盤から現れる実力派美人チェロ奏者
童貞殺しのセーター(ワンピース?)に芸術を感じる
感汁?爆
こういう無自覚に主張の強い芸術家は本当に居そう
高嶋ちさ子?
サイコパス
チサコはパス
ケイトの演技に引き込まれるけど、あまり話が進展しない…
演技力に魅了されるけど、内容は薄味の芸能界あるある
徐々にホラー要素が増していく…ジョーカーみたいな展開だが、真相は明かされず
あまり長くは感じなかったが、3時間弱の割には、しれっと地味なラスト
でも現実味があって、これはこれで良かった
ラストのジャングルブックな観客は何者?
特に気にならなかったが…
後で調べたらモンハンのコスプレだった
モンハン知らない
ひたすらずーっと走ってるイメージ
ミラ様の映画は観たけど、相変わらずの夫婦イチャイチャ映画だった
たしか、まぁまぁ面白かった記憶が(爆)
ゲームはネオジオで止まってる…
龍虎の拳2がネオジオ ミニに入ってないのが残念である
そしてオーケストラと無関係な、サスペンスチックでややB級なED曲
劇中のコンコン ノック音は、隣の劇場からのこもれ音だと思ってたら、違った!
まさにダミーノイズ
集中力が少し削れた
意外とわずらわしい…
(ジャロに連絡)
映画鑑賞後に色々調べたら、殆ど全てが意味深い演出だったみたい
知らんけど
ケイトの独走演技に、終始ずっと包まれる
まるで高級ブランケットの様…では無いけれど
毛糸の様な?…絶対違う
圧巻の、ザ・ケイト劇場でした
芸術作品と人格、キャンセルカルチャー
芸術作品と人格のギャップを極端なまでにカリカチュアしたのは映画アマデウスであった。神に召されたかのような至上の音楽と、下品な若者モーツァルトのふるまいとの対比は、多くの人に芸術の理不尽で、気紛れな一面を鮮やかに知らしめた。リディアの芸術は、未だそこまで至高でもないし、振る舞いも概ね至って常識的。チェリストのオーディションはブラインドで満場一致の結果だし、副指揮者選定への一連の動きも至極真っ当に感じた。芸術家のステイタスは受賞歴やプライベートジェット、住処等で記号的に表現されていて、そこからの転落がサイコスリラーぽく曰く有りげにサブリミナルも交えて描かれているのだけど、そこはいまいち小粒でコントラストに欠けるきらいがあった。
権力とステイタスを手中にした者への厳しい姿勢は、SNSとスマホの発達によりますます苛烈になり、盗撮や意図的な編集により、何かあれば一瞬で引きずり下ろされて血祭りにされる。「でる杭は打たれる」のは小澤征爾のN響事件のように昔もあった。でもその後、作品まで封印されかねないのが現代の習いになりつつある。恐ろしい世の中だと思う。キャンセルカルチャーと言うらしい。殺人を犯したカラヴァッジョの絵は見てはいけないのか? 出演者に1人犯罪者が出ただけで映画やドラマが見れなくなるのはそれで良いのだろうか?
バッハが子沢山であったことから女性虐待と断罪して彼の作品は聴かないという男子学生のエピソードは、シナリオ上の極端な設定と言うだけでは済まなくなってきている。ジュリアードの学生がバッハのロ短調ミサやグールドのことを知らない訳もなく、あれは政治的な虚勢かもしれないが、リディアは真面目なのでガチで学生をやりこめてその一連のやりとりが盗撮アップされてパワハラとして晒されてしまう。実に立場逆転なのだ。
リディアがロボットと呼んで忌み嫌うSNSとスマホによる小さな正義を行使する人々は、一方で身近な神を生み、一方で振幅の小さな平準化されて清潔な世界を生み出していく。
一連のクラシックをめぐる蘊蓄の羅列やアナグラム(TAR→RAT→ART等)は、わからなくても余り問題は無い。むしろそれらを十ぱ一絡げに葬り去らんとする意図すら透かし見える。教養はマウンティングのためにあるのではなく「遊びの材料」ってのはタモリの名言。ドイツ語の字幕が無いのも敢えてだ。ヴィスコンティよさようならって。クラシック界も大きな変革の波の中にあり、レコードやCD等のパッケージメディアの終焉というかニッチ化に伴って、名門DGドイッチェグラモフォンも青息吐息だからこそ実名でのタイアップに応じたのだし、専制君主のような指揮者も、積り重なった玉石混淆の教条主義的な蘊蓄も最早既にオールドファッションだ。
だからこそラストのアジアの若々しい新興国での再生が意味を持ってくる。コンクールの覇者が近年殆どアジア勢であることが示すように新しいクラシックの可能性は確実にアジアにある。それは今までと異なる風変わりな、見慣れない外見を纏っているかもしれないが、音楽の本質は意外に変わらない。リディアが真摯なスコアリーディングから作曲家の意図を探っていく姿勢は、マーラーだろうがモンハンだろうが全く同じだった。この姿勢がある限り、明るい未来が確信できるラストが呆気ないけど良かった。
最後に一点、どんな音楽も根本には歌があり、同じ空間で空気の震えを共有するという原初体験は、異議噴出の冒頭エンドクレジットで流れる民俗音楽の歌で強制的に実現されていたし、リディアとオルガ(名前ヤバっ)の音楽による邂逅(作曲中の曲をピアノで試し弾き&チェロコン練習)は、息の合った合奏が高次の愉悦をもたらし、何よりもセクシーである音楽の秘密を示していた。てんこ盛りの映画だが、音楽の喜び、音楽への真摯な姿勢といった根本はきちんと表現されていたと思う。
鏡
オープニングの演出に驚いた。一気に、ケイトが演じる役の世界観に引き込まれた!。鏡の演出、カメラワーク、音、全てを失った主人公が再び決意を固めたシーンなど、とても魅力的な女性で、この作品が10年後、15年後に再評価されると確信している。
てっきりジョーカーの監督だと
いつもの映画館②で
平日になかなか時間が合わず日曜日の昼の回に
ちょっと難解な文芸作品を想像していたら
想像以上にそんな感じだった
前半は睡魔に苦戦気味 ここまで長い必要はあるか
長台詞の応酬みたいなのを観るのが超苦行
最後の方は結構展開がポンポンポンと楽しめた
ラストはオラはユーモアと受け取ったのだが
どうなんだろう そもそも実話なんだっけか
何かモヤモヤシーンが多かったがそれはそれでまぁいいかと
・スマホのチャットのやりとりは誰と誰だ
・自殺したひとって画面に出てきたっけ
・隣人が新聞がどうとか聞いてくる
・公園の悲鳴
・冷蔵庫の音
・廃墟で誰に追われた
他の人のレビューが読みたくてしょうがない
こう思えるのはよかったということなのだ
自分の解釈は合っているのか…
同じようにとらえた人がいて嬉しかったり
別の解釈を知ってあぁと感心したりする
通常エンドロールで流れる情報がオープニングで出る
なのでエンドロールは短かめだった
ちょっとひねくれた監督なのか 実験的というか
巨匠的なひとなのか まぁそうなんだろうな
てっきりジョーカーの監督だと思って
観たいリストに入れていた
それはトッド・フィリップス 予約してから知った
ジェンダーというより「人間の業」をエグる作品
今年のアカデミー賞作品ノミネートで気になっていた作品。権力・クリエイターって何?と考えさせられるテーマ。
ベルリン・フィルの主席指揮者で女性のリディア・ターが主人公。マーラーの全交響曲をベルリンで振ってCDにするぐらいの第一人者。そのリディアが欲しいままにした権力と、指揮者としての才能が徐々に崩壊していく様を描くヒューマンドラマ。
映画的には、まずは音でしょうね〜。クラシックをテーマにしているので、当然に演奏シーンの迫力があるのですが、リディアがだんだんと堕ちていき、精神が蝕まれていくのを、色々な「雑音」で表現している。隣人の呼び鈴、人の叫び声、メトロノーム、冷蔵庫の音(お〜、ハチクロじゃん!)、様々な雑音が彼女を追い込んでいく。もうドラマではなく、ホラーですわ。
で、主演のケイト・ブランシェットは凄いの一言です。ピアノでバッハを弾くは、マーラーを振るは、ドイツ語とアメリカ英語(確か彼女はオーストラリア人)はペラペラだわ。何よりも、この主席指揮者様の不遜で堂々とした態度を強烈に示しています。
物語的な妙も素晴らしいですね。これ、高名な指揮者がセクハラとパワハラしまくる話で、実際のカラヤンやバーンスタインの逸話が元ネタ。でも、それに1つ決定的な嘘を入れるだけで、そんなゲスな話が深い話になる。それは「高名な指揮者」を女性にしたこと、です。
ただその1つの嘘で価値観がひっくり返るんです。指揮者とコンマスが付き合って、エコ贔屓でソリストを決めるなんて、男性の指揮者を主役にしたら、いまのポリコレ世界では作品になりませんよね?でも女性なら、立派なジェンダーもの、になる。これも痛烈な皮肉ですよね〜。
やりたい事を成し遂げるためには、名前すら偽り(リンダ→リディア)、あるべき姿を演じて嘘を重ねる。そうして築きあげた権力の前には男も女もない。何かを得るためには、何か失わねばならない。で、全てを失っても、フィリピンでモンハンのゲーム音楽の指揮をしてでも、クリエイターはやめられない。
決して面白い作品でも分かりやすい作品でもないので、おすすめはしませんね。
ただ、恐ろしい人間の業を描いた傑作なのは間違えないです。
作者の人格と作品自体の価値
指揮者である主人公の生活を淡々と捉えるような映像ですが、栄光を手に入れ自信に満ち溢れた日常の中に緊迫感や不穏感が立ち込めてゆく様子が良かったです。
ある理由で段々と立場を失ってゆく展開は、自業自得という部分もあると思いますが、何だか男性の権力者のお話にありそうな自業自得ぶりと感じました。
見る前のイメージでは、女性がトップに登り詰めるための女性としての苦労などが描かれているのかと思っていましたが、権威ある立場を利用しよろしくない振舞いをして転落するという、権威を持つ者に男も女も関係ないとは言え、不思議な印象でした。
音楽に対する真摯な態度については好感が持てますし、作者の人格と作品自体の価値について講釈するところは成程とは感じましたが、生徒に対する攻撃的な論破はやはり不適切だと思います。
あの場面の嫌な空気感、居心地の悪さは半端なかったです。
ラストはバッドエンドともハッピーエンドともどちらとも取れる、という話は聞いていたのでどうなるかと思っていましたが、ビジュアルとして…え?と。
小さいながらもクラシックのコンサートで再起すると思ったらコスプレイベントかーい!と、カメラワークもそういう困惑をさせる見せ方で、インパクトがありました。
確かに、世界最高峰のオーケストラからこれとなると、正直落ちぶれたやるせなさを感じます。
しかし、転落した後の、幼少期の音楽に対する純粋な気持ちを確認したらしき場面を踏まえると、権威や場所などは関係なく人を感動させる音楽を信じ真摯に向き合っている様は尊さも感じます。
冒頭のエンドクレジットの民族音楽らしき歌は、民族音楽を研究していたという主人公が栄光や権威を手に入れる前、音楽に対する純粋な気持ちを象徴するものだろうかと。
ラストはそんな栄光や権威を手に入れる前に戻ったということかとも思いました。
ラストシーンの後のクレジットの音楽は、現代的な機械音楽のようでしたが、最初の民族音楽からクラシックな管弦楽を経て機械音楽へと時代が変化している、権威あるクラシックも音楽の一時代に過ぎないということなのかとも思いました。
音楽の力を信じて音楽に身を捧げる指揮者として主人公は尊敬できるものの、権威に溺れて人を蔑ろにするのは共感できないところなど、作者の人格と作品自体の価値を論じる部分と重なりますし、ラストも含め価値の捉え方を考えさせられます。
具体的な説明がなく示唆するようなよく分からない部分も色々ありますので、考察や批評なども見てみたいと思います。
後から、ラストのコスプレイベントはゲームのモンスターハンターのコンサートらしいと知りました。
周りを見ずに突き進む人の顛末
周りと乖離してる主人公との関係性を、主人公ターの視点のみで描く。
他の視点がないことでよりターの行動心理を顕著かし、観てるものの倫理観に問いかける。
そして表情を持たせない為に使われるスマホ画面のやり取りが他者とターとの距離感を浮き彫りにする辺り、ホラーではないがゾクゾクする感覚を覚えた。
彼女の共感力のなさと裏腹に自尊心の塊となってる自身の倫理観の欠如の積み重ねによる崩壊、その決壊の演出がとても際立ってた作品でした。
オーケストラの王者TARちゃん
ざっくり言えば、「ブラック・スワン」の指揮者版といったところ。もしくは、不眠症(インソムニア)の白昼夢と思えなくもない。
メトロノームは誰が動かしたのか、スコアは誰が持っていったのか、チェリストは廃屋のどこに消えたのか、などなど不可解な事象が皆投げっ放しになっていて、そうなるとこちらとしては現実なのか幻覚なのか判然としなくなる。
ケイト・ブランシェットさんの演技が絶賛されていて、それはそうなんだけど、主人公が錯乱して転落していく物語などというものは嫌というほど見てきたので、何かもう食傷気味。
最近の映画のエンドロールでクレジットタイトルが延々と続くのにも飽きてきたので、最初に持ってきてラストあっさり終わるという奇手はアリだと思った。
TARの墜落と再生、その先は果たして
公開がもっと早ければ、今年後のアカデミー主演女優賞はケイト・ブランシェットが獲ると信じただろう。彼女が演じていなければ単なるクソ野郎に見えてもおかしくない圧倒的カリスマ指揮者の墜落と再生の兆しを描いた160分。クラシックに満ちた音楽映画かと思いきや全編を通してかなり抑えめのトーンで静けさと不穏さが漂い、時にホラー混じりに描かれるTARの狂人っぷりにドン引きしながら笑ってしまっていた。
鑑賞後いくつかの映画解説を聞いて、台詞・音響・美術セットなど細部に隠された意味を知ることで更に面白く感じた。最後にTARが指揮するオーケストラの演奏する曲が「モンスターハンター」の楽曲であるということも解説動画で知ったのだが、モンハンの設定自体に重ね合わせているのだとしたら、TARの再始動とは、再びのハンティング(狩り)に出ていくのだと思えてならない。開始30秒でいきなりエンドロールが始まる斬新な演出は、物語の始まりがTARの人生の頂点であり、そこから堕ちていくだけの話の始まりだったのだと合点がいく。
それにしてもTARの実在感が半端なかった。今作のケイト・ブランシェットの超人的な演技力は、今年見た邦画で衝撃を受けたTOKYO MER劇場版の鈴木亮平さんの演技がそれに並ぶだろう。
音楽は無限であり人生も無限
細かく伏線が貼られているようなのだが。一度見ただけではよくわからない。
ケイトブランシェットの存在感が全てを飲み込み全てを吐き出す。
冒頭のSNSの会話、、もう一度見ないと今となってはわからない。
床にばら撒いたレコード(LP)盤。カラヤンとかなんとか皆男性マエストロのもので無造作に足で選んでいるま他は選びもしない素ぶり。
努力を重ね手に入れた不動の地位、男社会にあり男以上のステータス、だからなんでもできる。寄り添わない。寄り添うのは同性婚の中で育てている子どもだけ。ターはお父さん。
子どもは暴漢に襲われたターに、世界で1番美しい人なのに、、と慰める。
逃亡したアシスタント、名前だけ頻繁に出てくるもう1人のアシスタントの子、いかにもハニートラップなチェロ奏者の子、妻であるコンマス、赤いバッグを持つ子、と多くの女性を虜にするターはわかりやすい世界でいえばかっこよくて誰もが無防備になってしまうようなイケオジと言った存在。彼女から技術や名声を奪い取ろうとする周りのおっさんたちはそれがまた歯痒く悔しいことだろう。
謎のアパート隣室の親子(自らの家族を顧みないターを現す?)そのほかにもクリーピーなものが時々出てくる。
ターは雑音が嫌。最初は雑音とイライラ嫌っていた音、だんだん規則性と企みを感じさせる音としてターの心を蝕む、メランコリアの謎の音を聞く女のようだ。
チャレンジという本の贈り物、メトロノームの音、冷蔵庫の音、公園で聞いた助けを求める女の叫び声、隣の悲惨な暮らしの親子(家族に見捨てられた)がノックする音、さまざまな雑音が雑音ではなく忌々しく自分を追い詰め、自分が蒔いた種から起こる様々な出来事にもひるまず、力あるものとして、女性だが男性同様に男性社会で生き抜いてきたマジョリティとして、またアメリカ人という覇権を表す存在として怯まず立ち向かう。
満席の映画館で、孤独を見せず孤独に闘うターをみていたら、なんだか広い荒野に1人だけ椅子に座って、座らされているような孤独感というか身体感覚さえ味わった。
なんかそんな凄みがある。
男性社会でのしあがり、また、彼女を踏み台にのし上がろウト追いかける男性を牽制しこれは私のスコアだと、ライブ録音の現場で男の指揮者をボコボコにする。ただしい暴力であろうと個人的には思う。
実際、最後フィリピンで、マッサージ店を教えてと頼んだつもりが売春宿?飾り窓?まがいの水槽に並ぶと女の子たちの店とわかり、水槽の雛壇に居並ぶ女の子たちがオーケストラのようなポジションでまちかまえており、くだんのチェロ奏者の若い女と同じ位置にいる女の子が目を向いてターを見据えていて、路上で吐いてしまうのだ。これまでの自分の加害者性を見せつけられた、、
図書館でスコアを探したが見つからず、というと、いまとどいたばかりでスト、スコアを渡され、アジアで若い楽団とやるのはクラシックではないとわかり、クライマックスはモンスターハンターのコスプレライブだった。これがまた最後までモンスターばりに頑張るターなのだ。
アメリカスタテン島、小さな、裕福ではない実家はそれまでのターが自力実力と、妻との関係(コネ、アドバイス)で築き上げてきた優雅な生活とは違う、自分の歴史から抹消したいよう存在。兄弟か誰か帰ってくるが、リディアではなく、リンダと呼び、今はリディアだったなと呼びなおす。暖かい交流も出迎えもない。リンダはあまりにもアメリカ的な感じでクラシカルではないからなのか、??なぜ名前を変えたのかわからないけど名前を変え、貧しい家族との訣別を選びとっていたのだろう。実家の自室のクローゼットには撮り溜めた題名のない音楽界のようなアメリカのクラシック番組、バーンスタインが司会をして音楽を啓蒙、音楽は無限の力みたいなことを言っていて、それが彼女の原点であり彼女はそこに時計を巻き戻して再スタートをするのだ(冒頭の雑誌かテレビのインタビューで、指揮について語る時、私が時間そのもの、私が時間を支配すると語っていた)ハラスメント訴訟、ブーイングを受けても落ち込んでも立ち上がるのだ。
男女の力学、女同士の力学、大人と子どもの力学(力の差まるで無視)アメリカとヨーロッパとアジアの力学。様々に見どころと見逃したところがあるがとにかくケイトが圧倒的であり、そして私は孤独の風をひたひたと感じた。
それでも、Music movesバーンスタインが語るとおり。Music moves そして人生はrolling stone
リンダの末路
特にクラシックファンでもない私には、前半が長く感じられました。
異例の経歴を持つある女性指揮者の栄光と転落がシビアに描かれています。
子どものイジメ相手を恫喝する場面など、こういう手口でのし上がってきたのかな、と思わせる。
シャロンとも欲得ずくでパートナーになったのでは。
後半、音楽業界でなくても、なんで自分じゃなくてアンタがそこにいるのって殴りかかっていく主人公の気持ちは分かるけど、何ていうか痛々しすぎて、スッキリしない。
驚愕のラスト、ターの実家を見たあとでは、リンダは再びここから這い上がっていくのでは、とも感じました。
主役を女性にしたのは意図的に感じる
主役を男性指揮者から女性に転換した事でハラスメントの実態がより明瞭になったように思う。
男性→女性の力関係が取り払われ、狭い世界の中で絶対的な権力をもったレズビアンである事でマイノリティ=弱者の色眼鏡が外されハラスメントが必ずしも性別や人種で関係が決まるものではなくて、あくまでも当事者間の関係、環境、立場に起因してそれに個人の先入観や差別意識が乗っかってくるって状況が分かりやすかった。
更に白人権威主義的なクラシック界を舞台にすることで、芸術やエンターテイメントを囲む環境と観客の目の時代的変化を痛感させられる。
もう前半でのターの言動が後半になってブーメランになってガンガン刺さってくるのがすごい。前半を見ている時はもっともらしく聞こえていたけど、後半になるにつれ時代の価値観に擦り合わさって見え方が180度変わってしまう。
それは映画を囲むフィールドが前半のクラシック界の中から後半はもっと広い世間へとスライドしたからだと思うんだけど、大事にする基準が違う眼線へ移動したとたんに前半のター眼線の自分の事以外は他人事から、後半はターの事なんて他人事に見えてくるのも空恐ろしい。
他にもクリエイティブ論みたいな事が色々と入ってきてそれも面白かったです。
作品の所有者と解釈はあくまで鑑賞した個人にあって、作ること自体は指揮者や監督には出来ない。以前は作品のパッケージの顔は総括する人にあったけれど、もうクオリティの質は作るスタッフやスタジオの力が先に立って、作り手の作品の解釈をありがたがる時代は終わって個人の様々な見方を許容できる事の方が重要になったって意味にとれました。
ちょっとしたワードがけっこう刺さってくるのが面白かったのとオチには笑いました。
家で見るには集中力が必要な映画だったのと音が良いのとで映画館で見てよかった!
カオスを経て原点にもどる
真面目なオーケストラ作品かと思いきや、途中からなかなかのカオスっぷり。
ステレオタイプと、多様性をおしつけるステレオタイプ、どこにでもある原理主義、パワハラ、セクシャリティ、炎上と、現代の問題を詰め込んだ作品になっている。
ただのドラマにせず、もはや何が正しいのかわからない。そんな現代をありのままに現していた。
前半は非常に抽象的な会話が続くが、この作品の軸であり、カオスの中心となるターを表現するために必要なプロセスである。
登場人物が多く、説明が少ないので、理解するまではひたすら知らない人の噂話を聞かせられるのはちょっと厳しい。
そして、なんといってもラストシーン。だれもが拍子抜けに感じる(劇場でもそんな雰囲気を感じた)なのだが、振り返ると終わり方も含めこの作品の真髄なのだと感じる。エンディングもクラシックではなく、ロック。
名声とか、炎上とか、ジャンルとか、そんなものから無縁の、純粋に楽しむこと。表現できない感情こそが大事という原点。
bunkamuraとか、大阪の作曲家(カプコンのことね)が出てきて嬉しかった笑
2023年劇場鑑賞72本目
権威の脆弱性とキャンセルカルチャーの虚無性をバランス良く描いた秀逸サスペンスドラマ。
冒頭からいきなり延々とスタッフロールが流れ意表をつかれるが、その後は静かに著名な指揮者リディア・ターの日常が淡々と丁寧に描かれる。彼女の日常が徐々に壊れていく中盤辺りからは、カフカの様な不条理な世界観も忍ばせつつ、後半の決定的事件からは一気に凋落へと流転していく。ドライな感覚が終始あってサスペンスドラマとして構成が非常に秀逸。
昨今あらゆる業界で跋扈するキャンセルカルチャーを、ポップスやジャズなどと違い、個性の違いが事程左様に分かり難い特異なクラシック界で描いて見せたのが巧い。映画と違いまだまだ女性指揮者というマイノリティなキャラクター設定も、このテーマを描くにあたって上手く作用しているように思う。
印象操作で容易に真実を歪曲出来てしまう現代において、リディア自身の人間性に多少の問題があったとしても、彼女の様なクラシック界にとって財産とも言える情熱的な才人が埋没してしまう悲劇は、非常に考えさせられる。それでも表現する事を辞めなかったリディアのたどり着くラストは、決してバットエンディングではないなと個人的には受け取った。
自信満々のキャリアの謳歌から、強迫観念に駆られ次第に憔悴していくリディアを、ケイト・ブランシェットは仔細に説得力たっぷりにさすがの成りきり演技で見せ、この作品の軸となっている。見終わった後も悶々と考えさせらる逸品。
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