TAR ターのレビュー・感想・評価
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難解…
解説なくしてはラストは分からなかった。実際のところはあったのかは不明だが、かつての教え子へのハラスメントにより、トップ指揮者の地位のみならず、家族までも失っていく。副指揮者やソロを選ぶ際の非情な選択がTarの傲慢さと取るのか、仕事への忠実さと取るのかは分かれるところだと思うが、これでは人は付いていかないし、映画のようにやがて裏切られるだろう。この鉄壁な姿勢から崩れていく様をケイト・ブランシェットが好演している。
これのどこが2023年のベストなのだろうか。
率直に言って、2023年ワーストレベルの映画だと思った。
評論家の前評判も高かったので、期待して観たが、見事に裏切られた。
ストーリー自体は、実はシンプルと言えばシンプルで、いわゆる権力者の転落劇からの再起ものである。
誤解のないように言っておくが、べつにそういう話が嫌いなわけではないし、サイコホラーっぽい雰囲気は、寧ろ好みの話ではある。
ただ、それにしたって本編160分はいくらなんでも長尺すぎるだろう。
ダラダラと続く鈍重なだけのシーンの連続、散漫に敷かれただけの伏線。
そして最悪の元凶はあのラスト。
ラストが凄い!と言っている人が多かったが、あんな虚をつかれるような幕切れには閉口するしかなかった。
唯一、ケイト・ブランシェットの名怪演だけは素晴らしかったと思う。
テーマは何?
タイトルのTARは主人公Lydia Tár の名前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性首席指揮者にまで登りつめたカリスマでなんとコンサートマスターの女性と同性婚しているレスビアンの設定。
二時間半を超える長尺で前半は彼女の人格や音楽への洞察が描かれます、音楽シーンは余りにも少なくブツ切れなので音楽映画と思って観た人は失望するかも。
インタビューシーンなどで延々音楽を語りますが言葉でなく演奏で示してほしいと思っていたら終盤で古いビデオに出てきたバーンスタインが「音楽は言葉ではない、音から音への変化の流れが100万の言葉以上に私たちの心を動かすのだ・・」と私の思っていたことを代弁してくれました、トッド・フィールド監督は無理を承知で主人公に語らせたのですね。
PCやスマホ画面でメールのアップが映されるシーンが不自然なので気になりましたが、古い伝統に支配されるクラシック界の対局としての若者文化、主人公がレスビアン醜聞やパワハラなどの弱味をSNSなどで晒され転落してゆく現代の象徴として使ったのでしょう。
テーマはクラシック音楽の先行きへの懸念、慟哭なのでしょうかね・・。
余りにも個性的で特殊な人物設定なので感情移入もままならず、長尺で作家性の強い映画なので私にはしっくりきませんでした。
アートとラット
ベルリンフィルの著名な指揮者リディア・ター。レズビアンを公言していてバイオリン奏者のシャロンと養女と暮らし、フランチェスカを助手としていた。新曲の創作などで多忙の中、幻聴や幻影に悩まされる。そんなとき、以前指導していたクリスタの自殺を知り。
TAR ターって、よくある名字なのかな、変わったタイトルです。浮気ばかりして権威を持った傲慢な男、TARを男に置き換えるとこんな人はよくいたなあ、と思いました。しかしTARは、純粋にARTを愛し、RATのように逞しい。なるほどアナグラムになっていたのか、上手いタイトルです。
ケイト・ブランシェトに喝采。
メタARTAR
いつの時代も偉大な芸術家がしでかした愚行は枚挙に頭がない。が、社会は変化し続ける。ネット社会は書き込み一つで作り手を容易く相対化し、マウントすることが出来る時代を出現させた。芸能人ももう、芸の肥やし、とは言っていられない情報ダダ漏れ社会が到来したのだ。画像一つで長年築き上げたキャリアが一瞬で吹き飛ぶ恐ろしい世界だ。
が、表現自体が劣っているわけではない、不倫した芸能人の表現全てが否定されたわけで
はない。表現は、時代を作る。何故なら最良の表現は我々が知覚するこの世界より一次元高いところから「降りてくる」からだ。その時表現者は、誰でも無い。ただの容器なのだ。この映画の中でターが神と呼ぶものはそれである。だからあそこまで堕ちても同じように振れるのだ。我々大衆が乗り込んでいるネット社会もまた表現の一つと考えれば、それは相互に相対化し続ける螺旋構造を描いている。この映画のケイトブランシェットの名演が、奏でられる素晴らしい音楽がそれを二重に肯定している。
メタフィクションが、ポップアートが問いかけた、創造力とは何なのか、という問いの答えは、まだ出ていないのである。何故なら、社会の基盤が変わり続けるからだ。この映画は今、もう一度、それを問う。これが表現の良心でなくて何だろうか。
ラストシーンがいただけない⤵️
TARター観ました
やり過ぎて悪趣味
まるでA24のホラー映画並み
傷ついた主人公をそこまでイジる必要ある?
過ぎたるは及ばざるが如し!
武士の情けが無い國の発想
付いて行けないわ🥲
それが感想
ケイト・ブランシェットの演技力に❗️❗️ 一台のカメラで、永遠続く...
ケイト・ブランシェットの演技力に❗️❗️
一台のカメラで、永遠続く講義シーンは、講義の内容も含めて息を呑んで引き込まれた。
好意を持って接してくる人は、扱い方を間違えると、とてつもない毒になる。気をつけなければ・・・。
SNS世代によって駆逐される 旧世代の断末魔
「弱い者は去れ」。それでいいではないか。
昭和の人間として、同世代の同志=TARを観る。
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東京藝大の指揮科は、入学定員は2名。
卒業しても安定した仕事場はまずない。
世界で活躍しているトップの指揮者など、ほんの片手の数だ。
厳し過ぎる前途だ。
TARは指揮者として、また教師としてどこかしら横暴なのだろうか?
僕はそうは思わない。
ついて行けない者はふるい落とされて脱落すれば良いことだ。
落後者たちは「自分にはこの教師に師事できるだけの素養も将来性もなかったのだ」と、黙して思い知れば良いだけのことだ。引けば良いのだ。
それでも熱い夢が続いているのなら、別の道を自身で探せば良いだけのことだ。
音楽院の学生でTARの助手を勤めるフランチェスカが、「冷たくされた」と思い込み、逆恨みをしてTARに対しての総攻撃を仕掛けたわけだが。フランチェスカは、自分が「甘ったれが許される幼稚園児」ででもあったつもりなのだろうか。
この映画作品は
【新世代と旧世代の断裂】、並びに
【旧い時代の終わる様相】をテーマとして、
「マエストラの失脚」というストーリーを題材に重ねて、時代の焦燥を厳しく抉っている。
「少子化」が、
世界中の経済と文化を蝕んでいるのだ。
「少子化」が、
人類の足跡、そして未来を破壊しているのだ。
=人手が足りない。
=労働者が集まらない。
だから採用基準は徐々にゆるくなり、クソを採用しなくてはならなくなっている。
宮仕えの正社員なんかになるよりも、彼らは即席YouTuberになって、脚光を浴びる丸儲けの人生を得たいと思っている。
彼らは市民として投票所に行くよりも仮想空間のメイドカフェでうつつを抜かしたいと願っている。
渋々就職はしてくれても、一週間で辞められてしまっては困るものだから、蝶よ花よと新人類は大切にされて、おだてられて、
そうして若者は大人の世界を舐めくさって、組織を(=オーケストラを) 掻き回してくれるのだ。
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【指揮者の日常を撮る貴重な映画】
劇中、
いくつかのクラシックの名曲が登場するが、メインは「グスタフ・マーラーの5番」だった。
冒頭の4音が「タタタター→、タタタター→、タタタター↗」と幽玄の彼方から聴こえてくるような、トランペットのファンファーレで始まる あれだ。
交響曲の作曲家たちは一つのジンクスを意識してきた、
それは第1に「ベートーヴェンの9番」についてのもの ―
《交響曲を9曲作った作曲家は死ぬという言い伝え》だ。
マーラーはそれを嫌い、8番と9番の間に「大地の歌」を挿入したのだが、結局彼も例外ではなく、9番を仕上げたところで彼は没した。
第2に、
ベートーヴェンの最高傑作「交響曲第5番=運命」を意識し、作曲家たちは取り分け自作の「5番」には自分の音楽家としての全てと、師ベートーヴェンへのリスペクト注ぎ込んできた。
ゆえに
マーラーが書いた「5番」のファンファーレは、ベートーヴェンの「5番・運命」の「タタタターン↘」の4音の音形をオマージュ引用している。
(※動画)
その「鬼門の5番」への挑戦。
そしてついに「9曲 全曲録音完成」のコンプリートだ。
何かが起こるに十分な序章だ。
ベルリン・フィルでのライブ録音に、満を持して挑戦するTARに「トラップ」が襲い掛かる。
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【変質する情報社会】
今どきのゲーム世代や、SNSでの匿名中傷フリークたちが、親世代の大人の社会と、人類がここまで築いてきた荘厳な文化をあっという間に絶滅させてゆく時代。
人間の劣化。軽薄にして陰湿だ。
―その恐怖の有り様を、この「TAR」は見せてくれている。
孤高の教師TARに対して、
「死なばもろとも」と、報復の巻き添えを画策して自爆をした元弟子クリスタやフランチェスカ、
エルガーのチェロ協奏曲をやってのけた若者世代=フランチェスカ支持者のオルガ。
そしてパートナーのTARよりも風評を信じるシャロン。
そのどちらがより正しくて、より狂っていると思うのか・・
それは今現在のこの世界の趨勢が判断して、結論を出すことなんだろう。
爛熟した文明は、登りつめた栄華のあとに、いずれの地においても、戦争と倫理の乱れと疫病で没落していった。
頂点を極めたはずのあの都市たちは、どれもたがわず廃墟となり、滅亡した国家の遺跡と化している。
それは黄河、インダス、ギリシャ、そしてメソポタミア。
"あの没落” が、いまはとうとう全世界を巻き込む規模で、我々人類の歴史を爛熟から終焉へと導いて、自滅へ向かってスタートしているのだと、僕は思っている。
巷のニュースのすべてが物語るのは
山肌を1個の小石が転がり落ちるとき、僕らが見る現象=それは大きな山脈がいつかは崩れ去って跡形もなくなる未来の、それは紛れもない目撃であり、一コマなのだということ。
「そんな大袈裟な」と言われるかもしれないが、コロナよりもはるかに感染力が強く、人類をINTER-NETして伝播する新しいウイルスは
そこまでの破壊力を持っていると思う。
フェイクニュースが巷に流れる。
真贋の見分けがつかない動画も溢れる。
産業も 通信も 銀行も止まる。
それらは悪ふざけを競うハッカーたちばかりでなく
国家間での情報戦として、実弾と遜色ない威力で敵陣を惑わせ、民心を迷わせ たぶらかしている。
「何が本当のことなのか」
もう誰にも分からない世の中ではないか。
リアルよりバーチャル、
肉筆よりも 生成AI、
肉体労働よりも3Dプリンター、
面会よりもリモートだ。
熱弁を飛ばし、熱いタクトをふるい、
激しいジョギングで自分の雑念と闘い、
サンドバッグを殴って己の弱さを叩きのめそうとする指揮者のTARに、
僕は強く惹かれる。
が、そういう昔のおじんである僕は
小さなきっかけでTARと同じ「おやじ狩り」の標的となり生贄とされるんだろう。
顔面蒼白。白塗りのメイク。
時代遅れで、VHSテープを観ていて、若者文化に疎いTARは、スマホのチャットによって呆気なく葬られていくのだ。
これは明日の私たちの姿。
フィリピンの奥地に逃げて行ったって、そこには最早 着ぐるみの化け物しかいなかったというラストシーンに
鳥肌が立つ。
デジタルデトックスは、もうこの世では不可能なのか。
顔も声もない匿名のバーチャルワールドの隆興によって、早晩人類は滅ぼされてしまうのであろうけれど
「その前に、このわたしの断末魔も聞きやがれ」と
リディア・ターの目は語っているのだろうと思う。
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マーラーの5番のファンファーレは、
世の終焉を告げる葬礼のラッパ。
世界の終わりを嘆く、絶望的な閉塞感と死の扉の軋みのように聴こえてならなかった。
·
(※)
楽譜付きマーラーNo.5冒頭動画
Curtain up for Mahler!
#trumpet#sheetmusic
ケイトを愛でる
ケイト・ブランシェットの独壇場の作品。
ひたすら彼女の演技を2時間半、堪能する。
ブルー・ジャスミンも良いが、こっちも負けじと良い演技。
最後の方の、副指揮者に殴りかかるとこなんて、笑ってしまうほど、迫真。
20231216 目黒シネマ
音楽は動く
そんなに主人公が悪いようには感じなかったのだが、パワハラに鈍いのかもしれないが、余程主人公の方のストレスが強いと思った。若いチェロ奏者はあー今時のイヤイヤ感だしてるーで、そんなのが好きになっちゃうの?才能に惚れた?他の人のレビューを見てどういう意味なのかを拝見したがそれでも意味が分からんかった。
これからは
やはり今の時代、いくら優秀であろうが、
セクハラ•パワハラ疑惑や、自殺の原因と取り沙汰されれば、その職務を全うさせてはもらえない世の中である。
またさらには、公然とした場に於いて、暴挙とととれる行動を白日の下に晒したとなれば、
再起は無理であろう。
なぜそこまで自信過剰なのか⁉️
頭脳明晰ならば、一歩立ち止まり自身の事を
見返し、不安要素を見つけ出し早めに対処すれば良かったのではないか⁉️
同性愛夫婦の夫だからか男言葉を使い、
カッコつけするが 変❗️
教える学生へも自分の言葉に酔い学生のプライベートにまで勝手に言葉にして公然と晒せば、恨みを買うのも当然。
可愛がっていた秘書を副指揮者に取り上げなかったことで、掌返したように秘密のメールを暴露されて窮地に陥りもした。
ある意味周りが見えていない裸の王様か。
世間一般自業自得と言うだろう。
優秀であっても時には冷静に自分を振り返り、
反省や自己変革も必要ということだろう。
しかし優秀でない者は、どうすればいいのだ⁉️
この作品何が目的で作ったのだろう⁉️
更なる高みへ
努力と才能に見合った地位を手にした所から始まる転落劇。正しい選択をしても過程を誤れば正しい結果を得ることはできないのは当然のことだ。
しかし、主人公は最高の演奏を求められる世界一のオーケストラの指揮者だ。民主的に正しい方法で音作りをしていては、途中で確実に空中分解してしまうだろう。
であるならば、楽団内部に軋轢を抱えることになろうとも、己の芸術性と名声を武器に独裁者になることも必要だろう。しかし、今の社会はそこから出てくる小さな軋みも聞き逃さない。
であるならば、権威の城からの転落は必然ということになる。何とか生き延びられたとしても、この時点の彼女では望む成果にはたどり着けないだろう。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。原点となった音楽への思いを取り戻したことで、新天地へと踏み出すことになる。
きっと、次こそは音楽への思いを忘れることなく、更なる高みを目指すのだろう。謙虚さや思いやり、用心深さと狡猾さも新たな武器にして。
…
バッハを否定する学生は、この作品の良き道標となってくれた。彼のシーンとラストシーンが、この作品の主たるテーマを表現していると思う。
…
演奏者のブラインド審査と、マッサージしてくれる女性を選ぶ水槽の対比は印象的だった。ただこの対比が何を表すのか、初見では理解できなかった。
彼女の絶頂と崩壊と
絵が上手に書ける人のほか、楽器ができる人は「人種が違う」と思うことにして自分自身を納得させ、自分のメンタルを守っている評論子ですけれども。
反面、楽器の演奏を聞くのは大好きなのてすが、そんな体たらくの故、クラシック音楽の指揮者・演奏家の世界にはまったく不案内なので、その限りでの(まったくの映画作品としての)評であることを、あらかじめお断りしておきたいと思います。
マエストロ(名門オーケストラの首席指揮者)の世界も、やっぱり「男社会」ということで、女性マエストロ(本来ならばマエストラ?)であるリディアには、何かと生き苦しい世界だったのでしょうか。
冒頭のインタビューシーンから、まずその彼女のその「立ち位置」か感得できるように思いました。
言ってみれば、そういう「ガラス細工」の上にリディアの権威は成り立っていただけに、いったん崩れ始めると、その崩壊の速さは、あっという間だったのだろうとも思います。評論子は。
彼女が、男子学生と意見が合わないことに苛立って、パワハラとも受け取れるようなに辛辣な態度をとったり、プライベートの性的な面(同性愛)では意外と乱雑気味(?)であったりすることが窺われることは、斯界で女性の地位が高くは評価されていないことのストレスの、いわば「はけ口」になもなっていたことでしょう。
そういうストレスのから、いわば内部崩壊を起こしてしまい、楽団を去ることにすらなってしまう―。
「強面」のような外面とは裏腹に、彼女の苦しかった?心情には、同情を禁じ得ないようにも思います。
解説的なセリフも少なく、会話主体の本作は、本物の鑑賞能力(洞察力?共感力?)が要求されますが、佳作の評価には値する一本だったとは思います。評価子は。
<映画のことば>
指揮者は作曲家に奉仕するの。自我もアイデンティティーも昇華させ、聴衆と神の前に立って、自分を消し去る。
(追記)
本作でのケイト・ブランシェットの演技が圧巻だったことは、まったく異論がありません。評論子にも。
(追々記)
評論子が参加している映画サークルの「映画を語る会」でお題作品として取り上げられていた一本でしたけれども。 今は地方暮らしをしている評論子には観る機会がなく、当時は「聴講生」として悔しさを抑えながら、話し合いを聞いていたものでした。
DVD化になり、ようやく観ることのできた作品でした。
鄙(ひな)に住んでいると、映画一本観るのにも苦労がありますけれども。
これも「艱難、汝を玉にす」の試練だと思い、乗り越えることができればと考えています。
『ブルー・ジャスミン』のケイトが帰ってきた
ケイト・ブランシェットは、『ブルー・ジャスミン』でセレブから真っ逆さまに堕ちていく女性を演じた。本作との女性指揮者リディア・ター役との大きな違いは、ターには自分を偽る嘘がないということだ。
嘘がない。自分にも他人にも極めて厳しい。思い込みとこだわりの究極の完璧主義者。だから頂点に立った。究極の真を追求しすぎた。いつしか自己肯定は他者否定につながり、パワハラ、スキャンダルに発展していく。
嘘があってもよかったのだ。虚栄心に溺れてもよかったはずだ。彼女の鬼気迫る演技は、そう思わせるほどの人としての意地が炸裂していた。音と映像が見事にマッチした空間で、彼女の孤高は際立っていた。
同性愛者のリディアの唯一の癒しは、妻シャロンとその娘との静かな生活。シャロンの控えめな存在感が光る。シャロンを演じたアンナ・ホスはドイツ映画の至宝。「東ベルリンから来た女」、「あの日のように抱きしめて」など秀作の主演に抜擢されている。あのケイト、ルーニーの同性愛を描いた「キャロル」とはまた違った視点で、ふたりのコラボの妙味を味わうことができる。
リディアの字幕のテロップが、すべて男性の口調で出てくるところも効果的だ。
リディアが失意のどん底の中、実家の部屋でバースタインのビデオに涙を流すシーン。
原点に帰る、初心に帰るっていいなあ。素顔のリディアがとても可愛かった。
張り巡らせてある伏線に疲弊。。。
冒頭のインタビューシーンは、なかなか印象的だ。
インタビュワーがター(ケイト・ブランシェット)の経歴を延々と話すのだが、ターはリラックスした様子で終わるのを待つ。
すべてについて自信たっぷりだ。
ジュリアード音楽院での講義では、バッハを嫌う一人の学生を完膚なきまで論破する。学生の″止まらない貧乏ゆすり″が、ストレスの大きさを表している。
とにかく、すべてのシーンに「伏線と思わせられる映像や音」がびっしりと張り巡らせてあり、見るのに大変な集中が必要になる。
気になったのは、
玄関チャイムの単調な繰り返し
ジョギング中に聞こえた女性の悲鳴
など。
観る側にも高いテンションがかかる作品だ。
終わった後、どっと疲れが残った。。。
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