「異世界」TAR ター 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
異世界
オケの人事によるわだかまりからやがて追われる指揮者の話。
リディア(ケイトブランシェット)には思いやりが欠けているが思いやりがないといけない──わけではない。
いけなかったのは人をないがしろにしたときどうなるかを予測できなかったことあるいは予測しなかったこと。
長く忠にかしずいてきた秘書のフランチェスカを選任せず、副指揮者セバスチャンをあっさり解任し、主任チェリストにソロをやらせず、かつて楽団にいた教え子のクリスタは心を病んで自死してしまう。
強い権力を有する者あるいは天才。往往にして実力や才能を有する者は人としての倫理が抜け落ちていることがある。それが大丈夫な時代もあったが現代の公ではだめだ。そういうキャンセル文化についての映画でもある。Tár=リディアは悪人というわけではないが、独裁的でえこひいきをする癖もあり、それが自身を追い詰めていく──という話を見たことのない雰囲気とカメラで追っていく。
絵に高級と成熟があった。いわゆる富者の気配だが金満な気配ではなく洗練された豊かさの気配。
前段の部分で、すこしめんどうな一介のファンと話すシーンがある。その女性がバーキンをもっていてすてきなバックねとリディアがほめるのだがリディアの生活環境はバーキンを持たなければならないようなSNS的金満とはランクがちがう。すべてがSFのように美しかった。
特大書棚のある住居、仕事用のフラット、テーラーメイドの服、ポルシェタイカン、ピアノ、調度品や装飾品、間接照明、高級家具、トールスピーカー、打放しコンクリートのミニマル感、プライベートジェット、レストランの高級感。トンネルを走っている絵は惑星ソラリスのようだ。モノトーンとブランシェットの彫像のような顔立ちとブロンド髪と寒色のベルリン。個人的には見たことのない映画だった。
Little Childrenから16年ぶりの監督作品でトッドフィールドがブランシェットにあて書きした映画だそう。
ブランシェットがTárになりきっていることと撮影によってこのわけのわからないような雰囲気が生じてしまっている。
Little Childrenとはぜんぜん違うのでトッドフィールドのカラーはわからないがおそらくキューブリックのような完璧主義者なのだろう。
理知で精力的だが、直球で物怖じしないリディアの人となりが魅力的に描かれる。ふつうあからさまに貧乏揺すりをしている者に雄弁をふるわないし、功労者にさらっと解雇を告げたりしないし、いじめっ子を直接脅しつけたりしない。
強行な姿勢がかのじょをじわじわ窮地へおいやっていくことと、それに対する警告のような強迫観念や夢判断の描写が同時に描かれる。
映画が人間(庶民)生活へ下野するのは、隣家に請われて瀕死の母親を介護用便座へもどす作業を手伝ったとき、ぬいぐるみを渡そうとして暗い建物へ入ったとき、仕事を追われて実家へもどったとき──ぐらいであとはすべてがハイクラス生活風景になっている。その対比が“いびつ”でもあり生活環境においても心理スリラーになっていた──と感じた。
Tárの命題のひとつとしてあるのは人間感情と楽曲の関係性──である。
大学の講義をしているときある黒人学生がバッハが嫌いと言った。その理由をバッハはノン気(同性愛者から見た異性愛者を指す)だから男尊女卑であり子供が20人もいるから嫌いなんだ──と述べる。
偏屈な理由だがそこから敷衍して人間性は作品にあらわれるか否かということをリディアは縷説していく。簡単に言うと嫌いな人間がつくった曲ならば、その曲を聴いたとき、人間同様嫌いの反応をするだろうか?おそらくそんなことはないだろうし、そうでないなら作者と曲を同視するのはまちがいだ。
にもかかわらず指揮者はマーラーの感情──そこにあるのは歓びなのか悲しみなのかについて──あるていど解釈していかなければならない。
よって解釈を書いた彼女のスコアは彼女自身のようなものだ。
が、リディアは人間関係を指揮ほど巧くは解釈できなかった。
ラスト、彼女はコスプレした観客あいてにモンハン用のオケを指揮している。さてどんな解釈をしているのか。・・・。
まえにとある日本映画のレビューで日本映画は二回りほどばかがみる想定で映画をつくる──とけなしたことがあるが、それと逆で理知を絵にしたような映画だった。が、観衆側に権威者がわきそうな映画でもあった。いずれにしろ見たことのない映画だった。