「安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作」TAR ター ぽんすけさんの映画レビュー(感想・評価)
安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作
名誉男性とキャンセルカルチャーの話。ちなみに私は男です。
私がクラシックの知識が全然なく、交わされる会話への理解が乏しいので、退屈しそうだったが、終始引き込まれた。
ストーリーは単純だが、倫理的にはかなり入り組んでいる。
・オープンリーレズビアン
・男性優位の歴史を持つクラシック音楽界で、世界的な頂点に立った女性
・女性の登用や育成に熱心
と主人公のターを紹介すれば、フェミニストであるかのような偏見を抱いてしまうだろう。
ところが、そこに
・女性への加害者性
というこの映画の最大の要素が積み上がる。そのことで、オセロで白が黒にひっくり返されるように、すべての見方が変わる。
ターは乱暴に言うなれば「名誉男性」とフェミニストから批判されるような人物なのだ。彼女は決して男性に高圧的なわけではなく、むしろ才能には等しく敬意を払うし、傲慢な人間ではない。
だが、権力者だし、その力をはっきりと自分のエゴのために利用する。そのことが世間に発覚するや否や、彼女の輝かしい人生は暗転していく。
ターをヘテロのシス男性に設定したら、ただのマチズモ批判映画だし、(メッセージとしては良くても)正直面白みはあまりない。その点、実はターはマッチョな「レズビアン」なのだ。
劇中、たびたびターが自説を語る場面が描かれるが、非常に論理的で理知的、個人的にさほど違和感を抱くことはなかった。だからこそ、次第にターのマチズモが明かされていくにつれ、いろいろと考えさせられてしまった。
かなり詳しくは語られない映画で、いろいろとわからないことも多かった。見方はいろいろある。むしろ反フェミニズム映画という見方すらある。
・人道的見地からバッハを否定する学生を論破するシーン。正直、私はターの説教にうなづいてしまったが、どうだったのか?
・副指揮者候補の秘書は、ロシア人チェリスト同様に、権威を利用したいだけの人だったのか?
・ターが怪我を負う場面で、男性のせいにするウソは、なんだったのだろうか?
わからないが、ターは人の意見やアドバイスを、実は聞こうとしない。唯一絶対的にピュアな愛情を注ぐ養子のいじめ問題にさえ、本人の意志を聞いたうえで行動するわけではない姿勢に、「聞かない」ということが、何より権威主義やマチズモの象徴的な行為なのだなと感じた。
近年、やたら増えたぶん、固定化したジェンダーメッセージを受けて食傷気味だったなかで、かなり揺さぶりをかけている映画であることは間違いない。
当たり前のことだが、フェミニストだの、ゲイだの言っても、一枚岩で同じ考えのわけではない。まったく劇中では描かれないが、ターの悪業が炎上し、キャンセルカルチャーの渦に沈んでも、なお擁護するフェミニストやジェンダーマイノリティの支持者は、この映画の世界にいたのではないだろうか。いろいろな感想を聞いてみたくなる映画だ。