「芸術作品と人格、キャンセルカルチャー」TAR ター marcomKさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術作品と人格、キャンセルカルチャー
芸術作品と人格のギャップを極端なまでにカリカチュアしたのは映画アマデウスであった。神に召されたかのような至上の音楽と、下品な若者モーツァルトのふるまいとの対比は、多くの人に芸術の理不尽で、気紛れな一面を鮮やかに知らしめた。リディアの芸術は、未だそこまで至高でもないし、振る舞いも概ね至って常識的。チェリストのオーディションはブラインドで満場一致の結果だし、副指揮者選定への一連の動きも至極真っ当に感じた。芸術家のステイタスは受賞歴やプライベートジェット、住処等で記号的に表現されていて、そこからの転落がサイコスリラーぽく曰く有りげにサブリミナルも交えて描かれているのだけど、そこはいまいち小粒でコントラストに欠けるきらいがあった。
権力とステイタスを手中にした者への厳しい姿勢は、SNSとスマホの発達によりますます苛烈になり、盗撮や意図的な編集により、何かあれば一瞬で引きずり下ろされて血祭りにされる。「でる杭は打たれる」のは小澤征爾のN響事件のように昔もあった。でもその後、作品まで封印されかねないのが現代の習いになりつつある。恐ろしい世の中だと思う。キャンセルカルチャーと言うらしい。殺人を犯したカラヴァッジョの絵は見てはいけないのか? 出演者に1人犯罪者が出ただけで映画やドラマが見れなくなるのはそれで良いのだろうか?
バッハが子沢山であったことから女性虐待と断罪して彼の作品は聴かないという男子学生のエピソードは、シナリオ上の極端な設定と言うだけでは済まなくなってきている。ジュリアードの学生がバッハのロ短調ミサやグールドのことを知らない訳もなく、あれは政治的な虚勢かもしれないが、リディアは真面目なのでガチで学生をやりこめてその一連のやりとりが盗撮アップされてパワハラとして晒されてしまう。実に立場逆転なのだ。
リディアがロボットと呼んで忌み嫌うSNSとスマホによる小さな正義を行使する人々は、一方で身近な神を生み、一方で振幅の小さな平準化されて清潔な世界を生み出していく。
一連のクラシックをめぐる蘊蓄の羅列やアナグラム(TAR→RAT→ART等)は、わからなくても余り問題は無い。むしろそれらを十ぱ一絡げに葬り去らんとする意図すら透かし見える。教養はマウンティングのためにあるのではなく「遊びの材料」ってのはタモリの名言。ドイツ語の字幕が無いのも敢えてだ。ヴィスコンティよさようならって。クラシック界も大きな変革の波の中にあり、レコードやCD等のパッケージメディアの終焉というかニッチ化に伴って、名門DGドイッチェグラモフォンも青息吐息だからこそ実名でのタイアップに応じたのだし、専制君主のような指揮者も、積り重なった玉石混淆の教条主義的な蘊蓄も最早既にオールドファッションだ。
だからこそラストのアジアの若々しい新興国での再生が意味を持ってくる。コンクールの覇者が近年殆どアジア勢であることが示すように新しいクラシックの可能性は確実にアジアにある。それは今までと異なる風変わりな、見慣れない外見を纏っているかもしれないが、音楽の本質は意外に変わらない。リディアが真摯なスコアリーディングから作曲家の意図を探っていく姿勢は、マーラーだろうがモンハンだろうが全く同じだった。この姿勢がある限り、明るい未来が確信できるラストが呆気ないけど良かった。
最後に一点、どんな音楽も根本には歌があり、同じ空間で空気の震えを共有するという原初体験は、異議噴出の冒頭エンドクレジットで流れる民俗音楽の歌で強制的に実現されていたし、リディアとオルガ(名前ヤバっ)の音楽による邂逅(作曲中の曲をピアノで試し弾き&チェロコン練習)は、息の合った合奏が高次の愉悦をもたらし、何よりもセクシーである音楽の秘密を示していた。てんこ盛りの映画だが、音楽の喜び、音楽への真摯な姿勢といった根本はきちんと表現されていたと思う。