「音楽は無限であり人生も無限」TAR ター redirさんの映画レビュー(感想・評価)
音楽は無限であり人生も無限
細かく伏線が貼られているようなのだが。一度見ただけではよくわからない。
ケイトブランシェットの存在感が全てを飲み込み全てを吐き出す。
冒頭のSNSの会話、、もう一度見ないと今となってはわからない。
床にばら撒いたレコード(LP)盤。カラヤンとかなんとか皆男性マエストロのもので無造作に足で選んでいるま他は選びもしない素ぶり。
努力を重ね手に入れた不動の地位、男社会にあり男以上のステータス、だからなんでもできる。寄り添わない。寄り添うのは同性婚の中で育てている子どもだけ。ターはお父さん。
子どもは暴漢に襲われたターに、世界で1番美しい人なのに、、と慰める。
逃亡したアシスタント、名前だけ頻繁に出てくるもう1人のアシスタントの子、いかにもハニートラップなチェロ奏者の子、妻であるコンマス、赤いバッグを持つ子、と多くの女性を虜にするターはわかりやすい世界でいえばかっこよくて誰もが無防備になってしまうようなイケオジと言った存在。彼女から技術や名声を奪い取ろうとする周りのおっさんたちはそれがまた歯痒く悔しいことだろう。
謎のアパート隣室の親子(自らの家族を顧みないターを現す?)そのほかにもクリーピーなものが時々出てくる。
ターは雑音が嫌。最初は雑音とイライラ嫌っていた音、だんだん規則性と企みを感じさせる音としてターの心を蝕む、メランコリアの謎の音を聞く女のようだ。
チャレンジという本の贈り物、メトロノームの音、冷蔵庫の音、公園で聞いた助けを求める女の叫び声、隣の悲惨な暮らしの親子(家族に見捨てられた)がノックする音、さまざまな雑音が雑音ではなく忌々しく自分を追い詰め、自分が蒔いた種から起こる様々な出来事にもひるまず、力あるものとして、女性だが男性同様に男性社会で生き抜いてきたマジョリティとして、またアメリカ人という覇権を表す存在として怯まず立ち向かう。
満席の映画館で、孤独を見せず孤独に闘うターをみていたら、なんだか広い荒野に1人だけ椅子に座って、座らされているような孤独感というか身体感覚さえ味わった。
なんかそんな凄みがある。
男性社会でのしあがり、また、彼女を踏み台にのし上がろウト追いかける男性を牽制しこれは私のスコアだと、ライブ録音の現場で男の指揮者をボコボコにする。ただしい暴力であろうと個人的には思う。
実際、最後フィリピンで、マッサージ店を教えてと頼んだつもりが売春宿?飾り窓?まがいの水槽に並ぶと女の子たちの店とわかり、水槽の雛壇に居並ぶ女の子たちがオーケストラのようなポジションでまちかまえており、くだんのチェロ奏者の若い女と同じ位置にいる女の子が目を向いてターを見据えていて、路上で吐いてしまうのだ。これまでの自分の加害者性を見せつけられた、、
図書館でスコアを探したが見つからず、というと、いまとどいたばかりでスト、スコアを渡され、アジアで若い楽団とやるのはクラシックではないとわかり、クライマックスはモンスターハンターのコスプレライブだった。これがまた最後までモンスターばりに頑張るターなのだ。
アメリカスタテン島、小さな、裕福ではない実家はそれまでのターが自力実力と、妻との関係(コネ、アドバイス)で築き上げてきた優雅な生活とは違う、自分の歴史から抹消したいよう存在。兄弟か誰か帰ってくるが、リディアではなく、リンダと呼び、今はリディアだったなと呼びなおす。暖かい交流も出迎えもない。リンダはあまりにもアメリカ的な感じでクラシカルではないからなのか、??なぜ名前を変えたのかわからないけど名前を変え、貧しい家族との訣別を選びとっていたのだろう。実家の自室のクローゼットには撮り溜めた題名のない音楽界のようなアメリカのクラシック番組、バーンスタインが司会をして音楽を啓蒙、音楽は無限の力みたいなことを言っていて、それが彼女の原点であり彼女はそこに時計を巻き戻して再スタートをするのだ(冒頭の雑誌かテレビのインタビューで、指揮について語る時、私が時間そのもの、私が時間を支配すると語っていた)ハラスメント訴訟、ブーイングを受けても落ち込んでも立ち上がるのだ。
男女の力学、女同士の力学、大人と子どもの力学(力の差まるで無視)アメリカとヨーロッパとアジアの力学。様々に見どころと見逃したところがあるがとにかくケイトが圧倒的であり、そして私は孤独の風をひたひたと感じた。
それでも、Music movesバーンスタインが語るとおり。Music moves そして人生はrolling stone