「主人公の独善と、芸術表現の根本を描いた秀作」TAR ター komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
主人公の独善と、芸術表現の根本を描いた秀作
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画『TAR ター』を、結論から言うと個人的には面白く見て、秀作だなと思われました。
特に主人公のリディア・ターを演じたケイト・ブランシェットさんの演技は説得力が図抜けていて、ベネチア国際映画祭の最優秀女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したのも納得だと思われました。
この映画『TAR ター』のストーリーを超絶、雑にまとめると、
【優れた指揮者である主人公リディア・ターが、自身の高度な表現レベルを周りに求めることによって、不適格発言をした副指揮者をパワハラ的に辞職させ、かつての教え子を自殺に追い込み、地位の利用によってセクハラまがいの登用や扱いをある楽団員に行い、それらの問題が表面化すると楽団を孤独に追われ没落するストーリー】
になると思われます。
すると、本来は全く共感性の薄い主人公なのです。
しかしこの映画は一方で、芸術表現の根本を描いており、そこに(大切な部分で)到達している主人公によって、観客は主人公に説得力を感じて映画を最後まで観ることになるのです。
ところで私的な興味に引き付けると、芸術表現とは
A.的確に表現する
B.的確表現への過程が美しい表現である
の2点が重要になって来ると思われます。
すると、<A.的確な表現>において、この映画の主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェットさん)は特に優れているということになります。
<A.的確な表現>とは、タイミングやトーンなどが的確だ、ということです。
主人公リディア・ターはこの映画の冒頭のインタビューで、指揮者が刻む「時間」の重要性を語っています。
<A.的確な表現>とは、作品や人々や自身が求めるタイミングやトーンを、ピタリと「時間」を刻んで当て続ける、いわば生理的本能的なセンスだと思われます。
そして、主人公リディア・ターは、このタイミングやトーンをピタリと当て続ける<A.的確な表現>の能力が図抜けていて、的確さでズレてしまう他の人々を支配することが可能になるのです。
ところが、芸術表現には(個人的には)《B.的確表現への過程の美しさ》も必要とされると思われます。
この《B.的確表現への過程の美しさ》とは、<A.的確な表現>をする過程で、その表現が広く世界や人々に開かれている必要があることを指していると思われます。
私達が(音楽にしろ映画にしろスポーツにしろ)あらゆる表現で感動や感銘を受けるのは、それらの表現が、私達の経験や歴史つまり[様々な関係性の集積]との分厚い接点を持っているからだと思われます。
つまり、芸術表現での《B.的確表現への過程の美しさ》とは、([様々な関係性の集積]である)私達の経験や歴史に対して開かれ通じている、とのことなのです。
映画の中で、学生の1人が、主人公リディア・ターに対して、バッハは白人男性優位の時代の作曲家でマイノリティに差別的で好きではない旨の発言をします。
するとリディア・ターは、このバッハ嫌いの学生に対して、SNS的にカテゴライズ分類された場所からの批判の浅はかさを否定し、バッハの表現がいかに人々に開かれているのかを説明します。
しかし、このバッハ嫌いの学生の苛立ちは逆に頂点に達し、リディア・ターに罵声を浴びせて教室を出て行きます。
このバッハ嫌いの学生の問題は、貧乏ゆすりを繰り返すばかりで、リディア・ターに説得力ある<A.的確な表現>でバッハの問題を説明することが出来ていなかった点です。
しかし、バッハが、(マイノリティ含めた様々な立場の人々に開かれている必要の)現在においては《B.的確表現への過程の美しさ》(=[様々な関係性の集積]である、私達の経験や歴史に対して開かれ通じている必要)で問題があるのではないか?に関するこの学生の指摘は、当たっている面もあると思われるのです。
つまり、バッハ(あるいはクラシック音楽)は、クラシックの狭い世界でのみ現在における《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?という疑義です。
主人公リディア・ターは、かつての教え子だった指揮者のクリスタ・テイラー(シルヴィア・フローテさん)を痴情のもつれなどから、(彼女は精神的に不安定で指揮者に向かないなどと各方面にメールし再就職をはばむなどし)クリスタ・テイラーを自殺に追い込みます。
そして、その前後にリディア・ターは、幻聴や幻覚を見ることになるのです。
このリディア・ターの幻聴や幻覚は、直接的には後に自殺するクリスタ・テイラーが発端と言えると思われます。
しかし、リディア・ターの幻聴や幻覚は、本質的には、(バッハはクラシックの狭い世界でのみ《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?‥などの)リディア・ター自身の基盤であるクラシックの世界に対して、外の世界から発生している疑義の現われだと思われるのです。
リディア・ターは結局、外の世界から発生している彼女に対する疑義の嵐によって、楽団を追われ、実家に帰って師のレナード・バーンスタイン氏のビデオを見て音楽家を志した原点を思い出し涙するも(それは一方でこれまでの姿勢を変えることがないという再びの宣言とも言え)、最後はコスプレに身をまとう観客相手のゲーム音楽の指揮者として、クラシック音楽の指揮者としては没落して映画は終了します。
この映画『TAR ター』は、以上のように共感し辛い主人公であるにもかかわらず、あらゆる芸術表現の深い本質を描いているとも言え、静かな感銘を受ける作品になっていたと思われました。
ただ一方で、バッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの視点は、現在の様々な人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》の重要さを指摘しているとは思われましたが、逆に彼ら彼女らからの<A.的確な表現>があったわけではありませんでした。
なぜなら、現在において、様々な立場の人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》を引き受けた表現をしようとすればするほど、<A.的確な表現>はその多様性の波に飲み込まれてぼんやり漠然とし続け、<A.的確な表現>から遠く離れた【凡庸な表現】に陥って行くと思われるからです。
私達は、この映画でバッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの【凡庸な表現】に一方で出会っていたともいえるのです。
そこを明確に描かず、あくまで主人公リディア・ター中心に描いたところに、この映画の長所と短所が表裏一体に存在していたとも思われました。
映画の最後のクラシックの音楽とは真逆の歪んだ電子音が流れる中で、現在の表現のどん詰まりをこの映画は表現していたのだろうなとも思われました。