「自らの無理解・無関心に気づかされる」サントメール ある被告 佐分 利信さんの映画レビュー(感想・評価)
自らの無理解・無関心に気づかされる
若いころにある人に
「君は合理的な判断を重視する人だね」
と言われたことがある。
その時は社会人、企業で仕事をする人間としてまともだという評価を得たと思っていた。しかし、今はわかるのだ。彼は私のことを、一方的な価値観に固執しすぎていると非難とも揶揄ともとれる論評を私に対して下していたのだと。
正直に告白すると、この映画の作り手が観客に伝えたいことが、終盤の女性弁護士の弁論を聞くまでは理解できずにいた。だからその意味で親切な構成の作品だとも思うことができたのだが、やはりここは、
「ここまで言わなければまだ分からないのか」
という、この頑迷な観客への厳しい最後通告と受け止めることにしなければなるまい。
映画が中心に据える被告はアフリカ系の女性である。白人男性の価値観が中心とされる西洋アカデミズムの世界からは「移民」「女性」という二つの疎外されるカテゴリーに属する人物として描かれている。
この疎外され、周囲からの無理解、無関心の果てに精神にほころびをきたし、ついには自分の子供を殺してしまう。このことを法と社会はいかに裁くのかという問いかけが映画の主題だと思う。
そして、このような疎外感や無関心の果てに疲れ果ててしまった人との婚姻関係を解消した自分の過去への問いかけとそれは大きく重なるものだと感じた。
地方の高校を卒業しすぐに就職をして生きてきた女性の、社会から軽んじられることに対して感じる疎外感や希望のなさを私がどれだけ理解しようとしたであろうか。その無理解な社会に私自身が含まれるということについてどれだけわかっていたであろうか。
私に対する不可解な行動とそのことについて悪びれることのなかった相手の態度に苛立つばかりで、つまるところ私の相手に対する無理解や無関心の写し鏡だったことがわかっていなかった。
彼女が手塩にかけて育ててきた子供たちと別の生活を選択したという理解に苦しむ結論を出したことも、いまさら何も変わらないが、離婚して5年を経ったいま少しはわかるような気がするようになった。