裸のムラのレビュー・感想・評価
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それぞれのストーリーが、、
関連性がよく理解できなかった。
石川県知事、イスラム家族、バンライファーたちのお話。主題は何だったのだろう。
談合的な政治への怒り?イスラムへの不理解?自由人の見せかけの自由っぷり?
よくわからなかった。
真面目なドキュメンタリー
真面目な良いドキュメンタリーでしたが思ったほど政治的ではありませんでした。「バンライファ―(家を持たずキャンピングカーに住む人たち)」「日本人とインドネシア人の夫婦とその子供というイスラム教一家」「石川県知事と森喜朗」の3つの話題です。複数のTV番組を組み合わせて劇場映画としたようですね。保守王国石川県で、細川護熙の応援を受けて(森喜朗が推す)自民党候補を破って知事になった谷川氏は、8選(!)のあいだにどっぷり自民党の人になって森喜朗や馳浩の応援を受けるようになるわけだ。森喜朗のポンコツぶりはちらっと分かったが、その辺の皮肉がもう少し強めだと良かったな。
イスラムの人が日本のクリスマスを批判するところは面白かった。「宗教心も何もないのにジーザスの誕生日を祝うことが意味不明。あなたの子どもがイスラムのお祭りのパーティに誘われたら行かせるか?」だってさ。ごもっとも。
『はりぼて』より監督の作家性がグッと前に出たとぼけた演出に鋭い風刺を滲ませる笑いながらドンヨリする作品
石川テレビで放送された2つのドキュメンタリー番組『裸のムラ』と『日本国男村』を基にして制作された作品。27年に渡る長期県政を牛耳った谷本前石川県知事の退陣と県知事選を軸に車で移動しながら生活するバンライファーの2家族とムスリムの家族の日常生活を見つめる作品。五百旗頭監督の前作『はりぼて』と同じく、とぼけた劇伴と茶目っ気たっぷりの編集で観客の苦笑を誘いますがさまざまな語り口が炙り出すのは多様性を頑なに拒むムラ社会の実態。周囲の偏見と何とか折り合いをつけようとするムスリムの家族の中にあるのも一見自由気ままに見えるバンライフにも暗い影を落とすのは多様性に背を向けたあからさまな男性優位。不寛容の連鎖にドンヨリさせられますがそこに灯りをともすのが歯に絹着せぬ発言も臆さない一方で誰よりもきっちり社会に貢献しているムスリム女性であることにほのかな希望と進むべき未来が見えます。
何気に本作はオールスタームービーで、故安倍元首相、菅前首相、森元首相、小泉元環境大臣らが次から次に登場して迷セリフを残していくのも印象的。石川県政の歴史を時間を遡りながら紹介する語り口も斬新で、『はりぼて』よりも五百旗頭監督の作家性がグッと前に出た作品でした。
空気を撮りたいって言い出すんだよね、
インタビューで、監督が空気を伝えたいと言ってたけど、それが映画を散漫にさせた。2時間をどう使えば、核心が伝わるのか、まずそれを考えるべき。ガラス瓶を拭く女性は、偶然撮れたのでしょう。なぜ、丁寧に拭くのか、誰に言われたのか、それが一番知りたい。もしくは想像させてほしい。情緒的に走り過ぎたね。
さまざまなムラ
パンフ掲載の解説にも書いてあったのですが、「内容がとっ散らかっている」印象は強いので、同じ監督の作品だった『はりぼて』ほどお薦めしません。
・為政者(主に石川県与党の自民)
・日本のイスラム教徒一家
・バンライファー(仕事すら車中の暮らし)
3組の「ムラ」または「家庭」を描いているのだが、何を対比しているのかが分かりにくかった。
これはわざと計算ずくでやっていそうで、その意図はおそらく「分かりやすく誘導するTVドキュメンタリーへのアンチテーゼ」なのだろうとは思った。
好意的に見て解釈すれば、おそらくコロナ禍で浮き彫りになったそれぞれのムラの特徴の対比だったのではないか?
・失言の数々を繰り返しながら擁護しあう、もっとも忖度と男性ルールで成り立つ醜悪な石川県政治村
・コロナ禍で皆が引きこもった結果、在来の人々からの差別や攻撃を受けなくなったイスラム教徒家庭
・何にもしがらみなく自由に生きたがっている男が、自分の娘に課題を強制して不自由に縛り付けていた
などと分析はしましたが、それが制作者の意図と合っているかどうかはわかりません。
ただ、この複数のドキュメントを難解にまとめた作品は、受け手それぞれの感想が大きく異なる「不確かな」フィルムになっていると思いました。
そして、この不確かさからは、「テレビでは流せない面白さ、おかしな状況を映画なら伝えられる、伝えたい」という意欲は、あまり感じられなかったです。
それがあったのは、せいぜい水受けを拭う女性のシーンくらいか。
人は、目的と手段が入れ替わりがち。
彼ら記者が取材している政治家に多いのですが。
地元の人々のため、国民のために政治家を目指したはずのかつての若者が、いつのまにか「選挙に当選する」「権力を手にする」「党内で評価される」「特定の支持者のためだけの政策を進める」「金になることが優先」ことが目的の、頭のおかしな政治屋になることは、たびたび目にします。
同様に「真実を伝えたい」「世の中の役に立ちたい」、と新聞やテレビの記者になった方が、「評価されたい」「ちやほやされたい」とばかりに、違うものに変質していくことも多いのではという疑問も抱きました。
党派性を帯びて、支持されたり。
政治家・政策は全て悪と断じることそのものが目的になったり。
補助金には難癖つけて悦にいったり。
自説を発表して、自分が正しいと主張することが目的になったり。
挙句は、黒子である記者ではないものになりたがったりしてないか。
作家、監督という賞賛と栄誉を欲しがったりしてないか?
文化人枠に収まりたくなってないか?
(中には「これじゃ記者じゃなくて、活動家じゃね?」みたいな奴もいますし)
この映画からは、「俺、こんなに小難しいことを、独自の目で表現してんだぜ、監督さまとして認められたいんだ!」みたいな腐臭も感じたりして。
それぞれの「ムラ」を見せる事ではなく、「監督の自分」を見せることが目的の映画ではなかったか?という疑念が拭えず。
監督が、そんな「文化人ムラ」に囚われたようにも見えたのでした。
わかりやすいニュース映像は意図的なものもあるかもしれない
大島新さんもパンフレットに書かれていたようだが、一見、映像の流れが読めなかったりするが、初日、監督の舞台挨拶を聞いて、そうか、やはり意図的な編集があるから、テレビニュースはスマートに見えるんだということがよくわかった。それはこの作品が編集が云々ではなく、終わってみたらなるほどと思える。やはり、見事な編集だと思う。
それにしても、このムラ社会、よほどのことがないと変わらないなあと実感した。
そう言えば新しい時代を皆さんとともになんてポスターに書いてた政党があったなあ。
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