「“普通”という無言の暴力」そばかす しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
“普通”という無言の暴力
主人公の蘇畑(三浦透子)はアセクシャル、つまり他者に対して恋愛感情を持たない人という設定。
だが彼女はアラサー。
結婚しろと周りはうるさい。
それで彼女は、何かと周囲とぶつかってしまう。
それは、異性を好きになって当たり前、結婚して当たり前という“普通の”価値観との摩擦でもある。
そう、蘇畑を苦しめるのは、“普通”という価値観だ。
“普通”結婚するべき、恋愛するべき。
だって結婚は女性の幸せ。だから王子様を見つけましょう。…
社会に溢れている“普通”という価値観が、無言の暴力となって彼女を傷つけている。
それでも、蘇畑を新しい仕事に誘った八代(前原晃)や再開した中学の同級生の真帆(前田敦子)、父親(三宅弘城)など彼女に理解を示す人はいる。
さて、この映画の男性の描かれ方に注目したい。
冒頭の飲み会の男性は、一緒に飲んでいた蘇畑の同僚によって「サイアク」と評される。
蘇畑とお見合いをした男性はフラれる。
真帆の父親は、真帆によって公衆の面前で罵倒される。
妹の夫は不倫している。
彼らは、みな社会的な責任を果たし、おおむね“男らしい”男たちであるが、決していい描かれ方をしていない。
一方、蘇畑に優しい男たちはどうか?
八代はゲイで、一家を支えるべき父親はメンタルを病んで仕事を休んでいる。
彼らはそれぞれ事情を抱えていて、そして“普通の男らしくない”。
この脚本上のメッセージは明らかだ。
決して、世界の全員が“普通”ではない。
そうであるなら、“普通”という価値観の押し付けは、暴力になり得る。
蘇畑だけではない。
八代はゲイであるために小学校の先生を辞めたことが示唆されるし、父親はメンタルを病んでいる設定。このように、“優しい男たち”もまた、“暴力”にさらされ、傷ついている。
そのような中にあっても、ラスト、蘇畑は走り始める。
彼女の好きな映画「宇宙戦争」のトム・クルーズのように、それは何かから逃げるためではないだろう。
蘇畑は強い。
だが、その強さは、いわゆる“男らしさ”のようなものとは違う。
そういう強さを持った女性を、三浦透子が実に巧く演じている。