「多幸感にあふれる「優しい」物語。ぽっちゃりヒロインと理想主義者の青年が世界を変える。」金の国 水の国 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
多幸感にあふれる「優しい」物語。ぽっちゃりヒロインと理想主義者の青年が世界を変える。
原作未読。だいたい想像していたとおりのような話ではあったが、
充分に面白かった。観に行って良かった!
ぽっちゃりヒロインというのは、もしかするとアニメの特権かもしれない。
どうしても、実写の場合はその系統の人気女優というのが生まれづらく、柳原可奈子や馬場園梓なんかはふつうに可愛いとは思うが、「主演」を張るタイプかというと、どうもそういう気もしない。
(しいて言えば、往年の菊池桃子にこの役やらせたかったかも……w)
しかもCVは超美少女の浜辺美波という、おまけつき。
90年代には、美少女キャラの中の人の顔のことはなるべく考えないようにして、声にだけ集中して一生懸命観るようにしていたことを考えると、なんだか隔世の感がある。宮崎駿が芸能人をアニメ映画に引き込んだのも、あながち悪いことばかりではなかった。
浜辺美波というのは、決して器用な娘ではない。
僕は実は、彼女が東宝シンデレラにひっかかってすぐに撮った『アリと恋文』のDVDまで持っている隠れ浜辺美波オタクなのだが、彼女は昔からたいして演技がうまかったわけではなかった。
金沢の田舎で育まれた透明感は抜群だが、「顔」に「才能」が追い付いていなかった。
(『賭ケグルイ』とか、彼女の無理な演技がきつくて、途中で音を上げたくらいだ)
でも、一途で、頑張り屋で、努力家で、鍛錬を重ねることで、一生懸命いまの地位を築いてきた。
テレビとかに出ても、決して当意即妙の受け答えができるほうではないが、芯の強さと仕事への想いの純粋さは伝わってくる。
そういう娘だから、彼女が「声優」をやるときいて、正直不安にも思った。
少なくとも『HELLO WORLD』(2019)では、明らかに回りの足を引っ張ってたからなあ……てか、ちゃんと周囲も呂律がまわってないところぐらいはリテイク出してやれよって当時思ったものだった。
でも一方で、今回の予告編を観て思ったのだ。
サーラの不器用さとか、自信の無さとか、おっとりしたところとか、でも芯が強くてぶれないところとか、じつは、浜辺ちゃんに、すごくよく似てるんじゃないかな、と。
で、実際に観て思った。
おお、なんかあんまりうまくないけど、これはこれで「ハマり役」だよ。
サーラの後ろに、演じている浜辺ちゃんの「空気」がほんのり見えるし、
浜辺ちゃんが収録を通じて、サーラに同化してる感じが伝わってくる。
まさに、絶妙の配役とはこれのことじゃないのか。
浜辺ちゃん以外の声優陣も、皆さん良い仕事ぶり。
賀来賢人くんは、声優として聞いたのは初めてだったが、十分にプロの仕事ぶりだった。
その他、脇はベテラン声優で固めていて、まったく不安感を感じさせる部分はなかった。暗殺部隊のライララは、エンドクレジットを見るまで新井里美だと信じこんでいて、沢城みゆきだとあとから知ってギャフン(笑)。
ー ー ー ー
お話は、ある意味、とても御伽噺めいているように思えた。
たぶんそれは、前提となる設定自体が「およそ現実にはありえないような偶然」に立脚しているからかもしれない。
まず、二つの国の王様が、示し合わせることなく、相手国への政略結婚の婿と嫁としてそれぞれ「犬と猫を送り合う」という偶然。
それから、その相手方の婿候補と嫁候補が、それぞれ辺境の(といいつつ国境間際の)歩いていける距離に住んでいて、そこの「壁」に抜け穴があるという偶然。
そして、両国でたった一人ずつしかいない、婿候補と嫁候補が、森でばったり出逢ってしまうという偶然。
そう考えれば、この二人はまさに「運命のカップル」だといっていいだろう。
「運命」とは、この場合、作り手の「作為」のことを指す。
本来「逢うはずのない」ふたりは、神(作者)の導きによって、「出逢うべくして出逢った」。
そして、ふたりが出逢ったことで、「必然的に」歴史は動き出すのである。
本作の設定の「非現実性」は、逆にこういう「御伽噺のような奇跡」でも起こらなければ、隣接する二国間での戦争はおおよそ避けられないのだ、という現実をわれわれに突き付けてくる。
パンフによれば、原作者も監督も、映画製作のただなかでウクライナ侵攻が始まってしまい、ずいぶんと悩み、気の重い時期を過ごしたという。
でも逆に言えば、まさに本作は、ロシアがウクライナに侵略戦争を仕掛けている今こそ、観るべき映画なのかもしれない。
どうやれば、戦争以外の形で、二国間の利害関係は解消することができるのか?
国交締結の前提として、どういう条件をクリアしなければならないのか?
病が進行し、引退の時期が近づいた為政者にとっての「レガシー」の重要性とは?
ほっこりした優しい物語のなかに、なにかの「今に対応するための」知恵が隠されているかもしれない。そんな気分で、つい観てしまう自分がいる。
少なくとも、「戦後50年」というのは、国交回復にはなかなかに良い節目なのではないか、とか。
何故かといえば、50年経つと、世代が二回りするので、「身近な家族や親族、友人を、敵国との戦争で喪った」直接的な被害者がぐっと少なくなるからだ。
戦争の記憶が「風化」するのは、必ずしも悪いことばかりではない。
記憶が風化すれば、「憎しみ」もまた、だんだんと風化していくものだから。
ー ー ー ー
映画はだいたい原作どおりだということだが、
観た皆さんが口を揃えておっしゃっているとおり、
基本的には、「優しい映画」だということに尽きる。
二国間の抗争を扱ってはいるが、血なまぐさい描写は一切なし。
多少の荒事は出てくるが、死んだり怪我を負ったりする描写もほとんどない。
出てくる人間は(悪役も含めて)みんな善人で、根っからの悪人はいない。
ひとりの青年の前向きな野心と、周囲の優しさの積み重ねのなかで、「うまくいくわけがない」とみんなが信じ込んでいた「和平」への道が、どんどんと切り拓かれていく。
もはや戦いでしか解決はもたらされない、という切羽詰まった状況であっても、「説得力のある魅力的な政治家」がひとり現れるだけで、これだけ切り拓かれる「未来」は変わっていくものなんだな、と率直に「人の力」の素晴らしさを痛感させられる。
●御伽噺めいた設定。
●悪い人間が誰も出てこない。
●悪役も実は善意に基づいて動いている。
●二国間の争いが、ひとりの青臭い夢の力で回避される。
●凝り固まった年長者の心が、若者の熱意で動かされる。
といった部分では、一見あまり似たところのない話だが、
『王様ランキング』ととてもよく似た世界観というか、
近しい「人間観」でつくられた物語だな、とも思った。
二国間の相克と和平の物語を、主役ふたりの初々しい恋愛とリンクして語る。
意外と難しいこのミッションを、本作は絶妙の語り口で実現してみせてくれている。
とくに、ナランバヤルという青年のキャラクターは本当に魅力的で、彼の優しさと行動力に引っ張られて、観ている間はつい時間を忘れて楽しんでしまった。
「動く道」「動く船」の休止や、ムーンライト・サラディーンの出自に関する彼の「推理」はふつうに鋭いもので、「切れ者」としての彼の在り方に説得力をもたせることにも、ちゃんと成功していたように思う。
サーラのほうも、中盤ちょっとうじうじしすぎてやきもきもしたが、総じて僕から見ても「お嫁さんにしたい度数100」の愛らしいお嬢さんで、ついつい応援してあげたくなった。
あと、犬のルクマンと猫のオドンチメグ(パンフを観て初めてCVが同じ声優さんだったと知る)も、あざとい使われようだが、実に可愛くてなごむ(この二匹は仲良しにはなれても、つがえないんだな)。
アルハミトの王宮のなかにだけ、噴水や池、風呂など水が潤沢に用いられているとか、サーラの居城の周囲は涸れ堀だとか、細かいところまで美術設定も練り込まれていて感心。
あと、意外に重要なのが、全編で繰り返される「食事」のシーンだ。
サーラは太めであることにはコンプレックスがあるようだが、「食べる」こと自体には常にいささかのためらいもない(笑)。「食べる」ことで「太る」かもしれないが、そうであっても「しっかり食べる」という行為の「大切さ」については信じて疑わないのだ。この「芯の強さ」が彼女を一流の人間たらしめているとも言える。
一方、ナランバヤルにとって、豪勢な食事はアルハミトという国の富の象徴であり、サーラの居城が提供してくれる「擬似家族」の象徴でもある。サーラが理想のお嫁さんであるのと同様、料理を提供して世話を焼いてくれる「ばあや」が、彼にとっては幼くして亡くした「母」の代わりとして機能していることも見逃せない(バイカリでは姉のウーリーンが「母親」のペルソナを代行している)。
だから、何かとこの物語では、ピクニックで食事とか、呑み比べの景品が食事とか、「食べる」シーンが頻出する。
ナランバヤルは、しきりにサーラに食事を譲るし、それを嫌がらずにサーラは食べる。これは、ナランバヤルが「サーラがぽっちゃりである」ことを、「まったく気にしていない」という証左でもある。
この物語で、国と国とを動かすのは「水」だが、
人と人とをつないでいくのは常に「食事」なのだ。
ただ、ふと見終わってからつらつらと考えてみると、
第93王女というからには、お姉さま3人との間の残りの90人はどうしてるのかとか、
レオポルディーネが君臨してるみたいだけど、大量の「王妃及び愛妾」(母親の世代)はどこにいるのかとか、
お互いの派遣した政略結婚使節(まあ犬と猫だったわけだが)が「どこに嫁ぐことになっている」のかを両国が知らないとか、そんなこと果たしてあるもんだろうかとか、
末席の王女が政略結婚相手に選ばれるのはわかるとして、なんで地方の技師にすぎないナランバヤルに、族長は「婿」役を押し付けたのか(そう高く評価してたふうにも見えない)とか、
過去に国境線を画定するとき、アルハミトがわざわざ水場のある森の「手前」で壁を築くなんてことがあるんだろうかとか(まあ、ないよねw)、
水もないのにあれだけ食料が溢れかえっているというのは交易の結果だろうが、野菜などの生鮮食料品が豊富にあるってことは、そんな遠くないところに農場地帯(もちろん豊富な水がないと育たない)があるはずなんだが、とか、
説明をスルーしているらしき部分がいろいろとあることに今更気づく。
族長が男色だったら跡取りとか困るだろ、とか。
あと、「デブの私が載ったら通路が落ちてしまう!」とかさっきまで愁嘆場演じてた空中秘密通路に、結果的に3人で載っちゃってるのってどうなの、とか(笑)。
でも、観ているあいだそれが気にならなかったということは、それだけストーリーテリングが巧みだということでもあるだろう。
ラスト直前の台詞で、ナランバヤルが「すぐ帰るよ! すぐに!」みたいなことを強調してて、さては性的ほのめかしかと思ったら、後日譚でしっかり結果が出されていて笑った。
しかも肥満遺伝子が……ちゃんと継承されている!
まあ、西アフリカや南太平洋では、逆に肥っていることこそが女性の「美」の基準とされ、むしろ美しくあるために肥ることを強要されるって話もきいたことがある。昔なにかのバラエティー番組で、アフリカ出身のタレントが、「自国で一番人気の出そうな日本人女性タレントは?」と訊かれて、「渡辺直美、一択」と食い気味に答えていたのも強く印象に残っている。
ナランバヤルもまた、「お嬢さん」のことは、身体もひっくるめて「美しい」と考えているにちがいない。
むしろ、貧しくひもじいバイカリの地に育ったナランバヤルにとっては、サーラのふくよかさは、豊穣の象徴であり、幸せの具象化に見えているのではないか?
ふたりの幸せが、家族の幸せになり、やがてそれは国の幸せになり、未来の幸せになる。
監督は「原作を読んだ後の多幸感が長く持続する感じ」をちゃんと感じられる作品にしたかったとパンフで言っていたが、その意味で、エンドクレジットでの、日本の「絵巻」の形式を用いて登場人物たちの「めでたしめでたし」を表現した手法はドンピシャだったと思う。