「究極のラブストーリー」レジェンド&バタフライ keithKHさんの映画レビュー(感想・評価)
究極のラブストーリー
願わくば、己の今わの際で、ラストシーンに信長が述懐した台詞を呟きたいと思います。
織田信長と濃姫が生きた激動の30年を描く感動超大作と謳う、誰もが知る日本史の英雄伝を描く2時間48分の本格時代劇大作と受け止められていますが、本作は、時代劇の体裁をとった壮大で崇高なラブストーリーです。
歴史の冷酷な運命に翻弄された、一人の男と一人の女のピュアな愛とナイーブな哀しみの30年間を、女(濃姫)が切々と冷静に綴った叙事詩、それが本作の本質です。
カメラは、常に綾瀬はるか演じる濃姫の視点で捉えていきます。粗野で尊大で傲慢な言動を放ちながら、その本性は、実は繊細で小心で惰弱な信長を、時に冷ややかに、時に温かく見つめ包み込む濃姫の、いわば記録者としての”目”を、私は本作を観ていて強く実感していました。
キムタク演じる信長の喜怒哀楽は、露悪的なほど赤裸々に表されますが、濃姫の感情表現は、たった一度を除いて、殆ど出て来ないのは、その証左です。。
日本史に燦然と輝く偉大なるレジェンド、その真の姿を、可憐に舞い翔ぶ蝶(バタフライ)が見つめ綴った物語、女性が綴った愛の変遷の究極の物語といえるでしょう。
最近の映画ではやたらと多用される人物の寄せアップが、本作でも冒頭から頻繁に使われます。茶の間で観るテレビのドラマなら緊迫感を出すために使っても良いですが、映画館で観る映画では、寧ろ立体感遠近感を見せるべきで、従い引きロングが適しているはずで、人物の顔アップ映像は必要最小限に抑えるべきというのが私の信条です。
映画館の大画面いっぱいに人の顔が、何度も何度も映されると、粗ばかりが目立って興醒めしてしまいます。本作でも早々に失望しかけましたが、そのうちに、少なくともキムタクの目、その瞳の輝き、そこに漂う勢いであり生気が、時間経過に伴って明らかに変わっていくことに気づきました。
粗暴な青年期、誇りと自信に満ちた桶狭間からの凱旋時、野心と欲望が溢れ出る岐阜城入城時、脂ぎった精力漲る天下布武を唱えた時、虚脱感燃え尽き感も漂う天下人となった最後の壮年期・・・、その時々の歴史上の出来事を経るにつれ、瞳の奥の輝き方が劇的に変わっていきます。それにつれて濃姫に対するスタンスや気持ちが変わっていきます。
一方、濃姫は、カメラ目線の主体であるせいか、目もその奥の瞳にも変化は認められませんし、そもそも濃姫は登場からラスト身罷るまで、一切笑顔を見せませんでした。語り部のクールな立ち位置に終始したともいえますが、たった一度、京の都の賤民部落での大太刀回りを逃げ隠れた所で、生の”女”の感情が噴出していました。それゆえにこの時の二人の抱擁シーンは感動的です。
更に時代劇でありながら、実はあまりアクションシーンの多くない本作で、この賤民部落での太刀回りシーンは、キムタクの機敏な動作・太刀捌き、メリハリの効いた動き、緊迫感に満ちた空気感等など、大いに見応えがあります。
また、最近の映画は、劇中に挿入歌、そしてエンドクレジットロールに歌詞のついた主題歌が流れますが、曲によっては映画テーマと不適合と思うことが屡々あります。本作では、ラストの本能寺の合戦での厳めしい効果音が増幅されて、そのままエンディングBGMとなり、エンドロールのクレジットが流れていきます。如何にも伝説的夢物語が終えていくに相応しい幕引きで、非常に好感が持てました。
東映京都撮影所で製作されたために、京都の多くの社寺でロケされていますが、中でも洛東の古刹・泉涌寺の使い方には驚き、思わず喝采しました。
信長の最期の言葉、「ずっと好いていた」。
波乱万丈の30年間を辿った本作の描きたいことを、この一言が見事に表していて、素直に感動に震えて厳粛な気持ちでエンディングを迎えられました。