「末期癌の息子とその母親との愛を描いたお涙頂戴📽️と思ったら大間違い。その意味では邦題は外している。病院の窓から同じ、ひこうき雲を父と息子とが見ていたシーン(ユーミンじゃん!)が印象的。」愛する人に伝える言葉 もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
末期癌の息子とその母親との愛を描いたお涙頂戴📽️と思ったら大間違い。その意味では邦題は外している。病院の窓から同じ、ひこうき雲を父と息子とが見ていたシーン(ユーミンじゃん!)が印象的。
①原題は“De Son Vivant”(彼の生涯)(追記:フランス人の友達によると“De son vivant” means “when he was alive” (meaning before his death”とのこと)。シンプルな題だけれども、こちらの方が📽️の中身をストレートに伝えていると思う。邦題は少し甘い。でも原題では客が入らないかもね。
②カトリーヌ・ドヌーヴが普通の母親役をするとは思っていなかったが、やはりと言って良いかどうか、いま流行りの“毒親”すれすれの役である。息子への干渉が過ぎるように思うし、自己チューっぽいところは、いよいよ息子の死期が迫って来て主治医の先生(本当の癌の専門医さんですってね)から心の準備をするように言われた時に「信じられないわ。希望を捨てるなんて」と先ずは自分の気持ちを優先していること丸わかりの台詞を吐いてしまい、先生に「息子さんのことを第一に考えるようにしましょう」と諭されるところ等に垣間見得る。20歳で女の子を孕ましてしまった息子とその女の子との関係を断たせたのも「息子を失いたくなかった」と自分で言っていたし。
毒親や過保護な親や子離れ出来ない親は世界中にいるとは思うけれども、私がフランスの親子関係・家族関係に対して抱いているイメージからは違和感があって、どちらかというと日本的だなと思った。というのも、私のフランス人の友達の親や姉妹とのつきあい方を見ていると、決して愛情がないわけでは無いがお互い自立した大人同士という距離感を持って接しているのが大変好ましく思えるからだ。
そういう面から見ると、この📽️は突然向き合わねばならなくなった息子の死という悲劇が契機ではあるが、過保護な母親がやっと子離れ出来た物語と捉えることも出来よう。ラスト、自分が息子に捨てさせた孫に手を差し伸べるシーンが印象的。そして孫が祖母の差し伸べられた手をとることで、赦しが為されたことを伝える真に映画的な表現。
③主人公への癌の告知➡️余命の告知➡️治療の日々➡️緩和ケアの日々➡️死、を描きながら決して暗くならないのは、折々に挿入される主治医の先生と看護師達とのディスカッションや合唱・音楽演奏(タンゴダンサーまで出てくる)のシーンがあるため。今までの癌闘病📽️ではあまりお目にかからなかったユニークかつ新しい取り組みである(実際に主治医の先生を演じるガブリエル・サラ医師が自分の病院で行っている活動とこのと。)
④ブワノ・マジメルは、演じるバンジャマン(英語ではベンジヤミンですね)の余命宣告から死を迎えるまでの移り行く心境を表情も含めて繊細に表現。あまりに自然すぎて演じているとは思わせない程だが、これが演技というものだろう。
④バンジャマンの最後を看取った看護師が休暇中で運転中(アカンがな😁)サラ先生に電話をかけて「先ほど息をひきとられました。」と報告した時、サラ先生の「お母さんはその場におられたのか?」という質問に対して看護師の「いいえ、でも息子さんはおられました。」という答えにサラ先生は実に嬉しそうな顔をした。
確かに病室に息子がいた(クルスタリがトイレに行っている間に入室したのだろう。)のには驚いたが、二人は親子の名乗りをしたのだろうか?
ただ、人間は息を引き取っても暫くは音は聴こえているという。息子が最後にベッド脇に座ってギターを奏でながら歌った歌がバンジャマンの耳に届いたことを祈りたい。
追記:この映画は余命宣告されてから主人公が穏やかに死を迎えるまでの、主人公の心の動き、周りの人々の主人公との絡み合い・触れ合い、穏やかな死を迎えられるように手を尽くす病院の人々のケアを描くのが主題なので、これを言うと主題から逸れてしまうのだけれども、📽️を観ている間ずっと余命宣告というのは正しいのかどうか考えていた。バンジャマンは意識が朦朧としていたしその辺りは想像するしかない。