アンデス、ふたりぼっちのレビュー・感想・評価
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マッチに頼らざるを得ない、生/死。
アンデスの山奥で二人暮らす老夫婦の日常。
途中「マッチが底をつく」ことを、妻がチクチクずっと嘆いていて、正直しつこいなと思っていた。
でも。マッチが無ければ、火をどうやって得るのか。火がなければ、どうやって煮炊きや暖を取ればいいのか。火は、食事や寒さをしのぐこと、つまり餓死や凍死しないことにつながる。火=マッチが生きるために無くてはならない物だと気づいた瞬間、そんな取るに足らないものに頼らざるを得ない二人の寄る辺なさが、痛切に迫ったてきた。
もしコミュニティがあれば、マッチが一時的に無くなっても、誰かに頼ることもできると思う。
けれど、彼らにはその「誰か」がいない。彼らは息子からも見放され、町からも遠い。社会から完全に忘れ去られた存在になっている。
これは彼らが辺境で暮らすからいけないのだろうか。
いや、社会は老齢や少数民族などを理由に、彼らの(ような)存在を無視しているのではないか、と問うているのではないか。しかも「マッチが無い」という、たったそれだけの表現で。
すごい、と思うと同時に、深く胸にグッサリ来た。
文化の単位を考える
私たちは文化を考える時、ついつい国単位で捉えがちだけど、それはずいぶん荒っぽい考え方なのだとこの映画を観て思い知らされた。この映画は、ペルーの少数民族、アイマラ族の2人の男女の生活を描いている。全編アイマラ語で演技されていて、スペイン語は一切聞こえてこない。山奥でたった2人で動物たちを飼いながら暮らしている様子をカメラは静かに写し取る。伝統を守って暮らす2人には息子がいるが、街に出たきり帰ってこない。標高5000メートルの地点で大地と共に生きるこのような文化と言語があると言うこと自体が感動的であり、世界の広さと深さに驚嘆する。
少数民族の言語は、世界的に減少しつつある。インターネットは世界の文化を近くしたが、基本は英語の世界だ。少数民族の言語のキーボード入力ができなかれば、その言語は使われにくくなる。少数言語はAI時代の機械学習の素材として不利だろう。そうなると、その分文化は消滅し、多様性が失われる。帰らない息子はきっと街で「今の生活」を満喫しているだろう。その裏では文化が消えようとしている。この映画は、その消えようとしている側に徹底的にカメラを向けている貴重な作品だ。
アンデス山中で消えゆく老夫婦の退屈な話
私は来年、南米大陸のアンデス山脈、その村々を訪ねて見たいと思っている。それで今回、もしかしたら何かのヒントがあるかもしれないと思い、この映画を見た。
映画案内には標高5千mの高地に住む老夫婦、全編アイマラ語で語られペルー本国で大ヒット、とあった。小津安二郎を彷彿させる雄大な自然と二人だけの宇宙とも。
小津安二郎との関係性はほぼないと思うけど。
この映画がなぜペルー本国で大ヒットしたのかには興味がある。見方によっては、かなり退屈な映画です。
私が感じたのは、スペインに制服される前、さらにインカ帝国よりも前のアンデス山地にはアイマラ語を話すアイマラ族がいた。当然、前近代的だ。
この映画は見てる者を苛立たせる。それは我々が近代的な価値観やものの見方、枠組で生きているからだ。
例えば、我々の思考には時間軸が明確だ。原因と結果、知識と過去の経験則に基づく未来予測、それが映画の中の二人にはできない。全てが行き当たりバッタリで計画性がない。
例えば、羊が死んだら埋葬するのではなく食べる。そうすればリャマを殺して食べるのは避けられたはず。
マッチがなくなる前に、体力があるうちに買い置きしておくだろう。そのマッチを絶やし種火を絶やさぬ様にすることが火事に繋がった。
二人の行為の合理性のなさが見てる私を苛つかせる。つまりこの映画は近代の枠組みの外側に生きている人々を描いた作品なのだ。
近代の象徴としてのマッチ、サンダル、息子、ペルーの人々がこの映画にならかのシンバシーを感じたとしたら、自分達のDNAに受け継がれたアイマラの遺伝子とか、燃える家の十字架とかにではないか。
これは失う事、失い続ける事を描いた映画だ。希望はどこにもないし、そもそも、アイマラ語には希望という言葉も存在しないと見た。
逆にあるのは、精霊、祈り、大地、笛、踊り。挿入された音楽は皆無。風、小川のせせらぎ、業火、犬、二人のいびきと呻き、笛の音のみだ。
近代的な思考をする私にはとても退屈で何が言いたいのかよく分からなかった。しかし、八百万の神々を信仰し、自然の脅威にひれ伏し、色んなものを失い続け、それでも生きていかなくてはいけない私には、ラストのパクシは神々しく見えた。
人生の本質
一つの文化の途絶える瞬間と、もっと本質的な人生の儚さをこれでもかと凝縮させた静かな大傑作である。
ずっとドキュメンタリーだと思っていたので、どんなカメラワークと奇跡的なアングルだよって思っていたけど、演技だったんですねー( 。゚Д゚。)
南米ペルーの超限界集落、と言っても一軒だけの息子の帰りを待ちわびる...
南米ペルーの超限界集落、と言っても一軒だけの息子の帰りを待ちわびる老夫婦日常生活のお話だった 山間民族の暮らし振りって場所は違っても似ているなと思った(先に見たハニーランドとかブータンとか) ここは水だけは豊富なようだけど
2人だけでも祭り事はちゃんと執り行ってるし、山の生活は大変だからか自然崇拝も
しかし命綱のマッチが無くなってからは夢見通りもう悪い事しか起こらず、お年寄りが火を絶やさない、やな予感と思ったら…最寄りの村までどのくらいあるのか語られなかったが、最後は山を降りる決断をしたのだろう
超珍しいアイマラ語による映画
過疎化した高地のユル系夫婦的な映画かと思ってたら全然過酷な話だった。超ナメてた。
スペイン語ではなくアイマラ語。『死』を示す言葉は似ていたような気が。
自分がこの夫婦の息子だとしたら、心配ではあってもこの文化には戻れん。残念だけど。
全く知らないことばかり
標高5000mの所に住むって、どういう事だろう? なぜここに住んでいるのか?
この言葉の話者は200万人くらいだそうだが、もう街の若者は知らない人も多い。
途中まで、ドキュメンタリーかと思っていた。羊の毛から糸にして、糸玉にして、織物にしていくのが、興味深かった。
衝撃映像
はぁテレビもねぇ、ラジオもねぇ、おらこんな村いやだぁ♪状態の過酷な環境で生きる老夫婦
爺さんはずっと体が痛い、俺も年取ったとボヤキまくり、婆さんは息子はいつ帰ってくる、なんで私達を置いて出ていったと嘆きまくる毎日
前情報入れずに観ていたので、ずっとこの映画ドキュメンタリーだと思い込み、途中からの衝撃映像の数々に、「すげー!!」「北の国からだ!!」「この監督、なんで黙ってカメラ回せるの⁉」と一人興奮していたら…
リャマのシーンなんて、「おー!!奇跡だ!!すげーな、このカット」と叫びたい衝動を堪えていたのだが、映画体験としては幸せな時間だったので無問題❗
来たるべき時
人里離れたアンデスの高原で2人だけで自給自足の生活をする老夫婦の話。
少し前までならつい2日前に閉館した神保町の劇場で公開していた様な作品という印象ですね。
少しの羊に犬とラマが各1頭、そして件の老夫婦が暮らすだけの石造りの小屋。
アイマラ語というのが元々こういうものかは判らないけれど、ほぼ無感情で投げる様な話し方での会話が繰り広げられて、イマイチ没入し難い感じ。
精霊に感謝し暮らす牧歌的な夫婦の物語かと思いきや、何年も返ってこない息子に忘れられる不吉な夢をみて、そしてマッチが残り僅かなことに気付き…なかなかな波乱の物語。
悲しく厳しいお話しではあるけれど、ここで2人で暮らすと決めたということは、これもある意味織り込み済みなのかなと。
それを前提に考えてしまうしドキュメンタリーではない訳だから、幸福感でも力強さでもやり切れなさでも絶望感でも良いけれど、もうちょい響くものが欲しかったかな。
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