「ひたすら変な男に絡まれる女の無間地獄。襲い来る「同じ顔の男たち」に象徴されるマチズモ。」MEN 同じ顔の男たち じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ひたすら変な男に絡まれる女の無間地獄。襲い来る「同じ顔の男たち」に象徴されるマチズモ。
(肝心のネタの核心については伏せて書いてありますが、さすがに読んでたらなんとなく伝わっちゃうと思うので、一応ネタバレ扱いとしておきます。)
いかにもA24が好みそうな映画だ。
仕掛けのある雰囲気ホラーだけど、シネフィル的で、バリバリの社会派で。
でも、これ副題で「同じ顔の男たち」とか言っちゃっていいの?
この撮り方だと、普通に「気づかない」人もいると思うんだけど。
ヒロイン自身、そこのところには最後まで「気づかない」って設定なんだし。
観終わってから、エンドクレジットとかパンフとかで種明かしするのが筋のような……?
まあ、このネタくらいはオープンにしないと、話の説明がまったくできないって事情はよくわかるし、ただの「MEN」だと、僕みたいなネタ系映画好きが気づかずにスルーしちゃう可能性が高いってのもわかるんだが、さすがにネタばらしもいいところって気がするなあ。
まあ別にいいけど(笑)。
『ドント・ウォーリー・ダーリン』、『ファイブ・デビルズ』、『ザリガニの鳴くところ』……。
このところ、『何かがおかしい』みたいな出だしのネタ系映画とか、全米大ヒットのサスペンス映画とかを封切りで観に行ったら、その正体は「男性被害の深刻さを物語るガチガチの女性映画」でしたってことが続いている。
まあ、たいていのサスペンス映画は女性が怖いめに遇う話なわけで、じつはフェミニズムととても親和性が高いんだなってことには最近気づいた。
でも今回のは、この系統の映画のなかでも、まさに真打ち登場っていうか、ネタ自体がそれだけで出来てるというか。
これ、逆に女性監督が撮ったら、「ミサンドリズムだ、感じが悪い」みたいな話になりかねないところを、敢えて男性監督が「振り切った」形でやってるからこそ、なんとか映画として成立してるのかもしれない。
イギリスの片田舎に、ひとりの女性がやってくる。
カントリーハウスを借りて、しばらく住もうというのだ。
彼女は、目の前で夫(黒人)の墜死を目撃したことが、トラウマになっていた。
その直前、大喧嘩の末、暴力を振るわれた彼女は、夫を部屋から閉め出していた。
夫は上の階から押し入ろうとして足を滑らせて墜ちたか、もしくは自ら世を儚んで飛び降りたのだ。
傷ついた心を癒すために移り住んだカントリーハウス。
だが、悪夢はまだ始まったばかりだった……。
「飛び降りた人間と目が合う」というシチュエイションは、よく思い出せないが映画やドラマで今までにも何度か目にしたことがある気がする。少なくとも、柴村仁の『プシュケの涙』という青春ミステリは、まったく同じ出だしだった。
ただ重要なのは、目撃した事実以上に、「それが自分のせいかもしれない」という彼女が抱える罪悪感のほうだ。彼女は、夫の死という悪夢を引きずったまま田舎にやってきて、その延長上にあるような奇怪な出来事に遭遇することになる。
彼女が体験する恐怖の根幹は、ある意味わかりやすい。
「ただひたすら、変な男に絡まれ続ける」。
それに尽きる。
しかも、ヒロインは最後まで気づいていないようだが、
やってる俳優が全部一緒という(笑)。
要するに、かなり面倒なメンヘラ旦那からさんざんダメージくらったあと、今度は面倒なストーカー軍団(全員おんなじ顔)からちょっかいを出され続ける、そういう話だ。
本作に登場する男性キャラクターは、揃いも揃って全員が「女性を攻撃し傷つける差別主義者/ミソジニスト/マチズモ」として規定されるようなクズである。
一見温厚で朗らかそうだが、全身からぬめりを漂わせる管理人。
全裸で森から出てきて追ってくる、「野人」まがいの障碍者。
せっかく確保したその全裸徘徊者をいきなり釈放する警察官。
道端で唐突に絡んできて、敵意と性欲をぶつけてくるお面の子供。
優し気に声をかけながら、彼女が夫を殺したのだと痛罵する聖職者。
それらを、猛烈に愉しそうに、ロリー・キニアが「一人で」演じている。
「なぜ、みんな同じ顔をしているのか??」
本作のネタ映画としての中核は、まさにこの謎にあると思うし、
実際大半の人はその「からくり」に興味を持って観ると思うのだが、
さて、観終わった皆さんのなかで、「納得がいった」という人がどれくらいいるものか。
少なくとも、象徴的な意味合いとしては、このギミックは大変うまく機能している。
「しょせん男なんてのは、みんなおんなじケダモノでろくでなしだ」という認識の戯画的表現として、「一人の人間が演じる」というのは、非常に有効な表現手段だ。
あるいは、「少なくともこのヒロインにとっては、出てくる男はみんなおんなじ、自分に攻撃をしかけてくるろくでなしにしか見えていない」という認識の象徴的表現としては。
ヒロインが、出てくる男がみんなおんなじ顔でもまったく意に介さないのも、この文脈上でなら理解できる。
ただ、そこにラストで一定の「ロジカルな解釈」(実はこうだったんだよ)を与える、というのが、この手のネタ系映画では、一応のところ目指すべき着地点ではないのか?
これだけ、「同じ顔をした男たちが」の部分を「映画の売り」にしている以上、みんな「実は……」の真相部分に大いに期待しちゃうのが人情というものだろう。
そこに作品がきちんと応えられているか、というと僕は残念ながら、そうは思わない。
どれだけ「SF的/非現実的な理由」が「男たち」の背後に介在しているとしても、とくに林檎の木からポロポロ林檎の実が落ちる、というシーンは「その理屈」では決して「起きえない」現象である以上、この物語はすべて、ヒロインの●●と捉えざるをえない(出てくる男の左手がああなっているのも、そもそも初っ端に原因があるとすると、ここに来てから起きた怪異現象=森のトンネル以降起きたことはすべてが●●っぽい)。
そうすると、アレも、アレも、アレも、全部●●となってくるわけで、作品としてはどちらかというと、『裸のランチ』とかに近いジャンルの作品ということになる。
(実際、終盤展開する突拍子もない「例のグロシーン」は、明らかにデイヴィッド・クローネンバーグを意識したものとなっている。てか、「アレ」が出てくるところって、まさにクローネンバーグの『裸のランチ』そのまんまだもんね)
要するに、これは「実際は何が起きていたか」が重視される物語ではない。
ヒロインの内面で抱えていた、男という生物に対する「恐怖」と「怒り」、自分の内奥で渦巻く「後悔」と「自傷願望」と「生存本能」に、ヒロインが「どう向き合い、どう折り合いをつけたか」が重要な物語なのだ。
その意味では、おそらく本作で起きたことは、教会で出逢った「グリーンマン」のレリーフが引き起こした、彼女を浄化し立ち直らせるためのある種の「禊」の奇跡、あるいは、ダンテの『神曲』的な「地獄めぐり」だとでも考えておけばよい。
この映画の構造は、じつは『時計じかけのオレンジ』や『ジェイコブズ・ラダー』や『キラー・インサイド・ミー』なんかと、あまり変わらない。主人公が、自分のこれまで犯してきた「加害」や受けてきた「被害」を、「異なる文脈に見える形で」何度も何度も「追体験」することで、そのトラウマから解放され、転生(もしくは浄化)する、という、古来繰り返し語られてきた「地獄めぐり」の「DV被害女性」ヴァージョンなのである(死んだ夫への罪悪感を、同類の男たちから徹底的に痛めつけられるという形での「罰」を受けることで中和すると同時に、それに立ち向かい打ち倒すことによって「超克」するという流れ。潜在意識下でのトラウマ克服の過程が、同じ顔の男たちとのバトルという形で「受肉」しているわけだ)。
別に、それはそれで全然かまわない。
かまわないんだけど、あと少しくらいは「観客の多くがなるほど、そういうことだったのか」と思えるつくりにしておかないと、要らない反撥を引き起こすことになるだろうということだ。
ラストシーンも、客に考えさせるとはいっても、あまりに情報が少ないからなあ。
映画で呈示された「真相」をもとに改めて考えた場合、少なくとも「事故車」があって、「血」がついているのが「あの夜を過ぎての結果」としては揺るぎない事実として存在するわけだから(第三者の友人が目にしている)、もしかすると、ものすごい勢いで「巻き込み事故」を引き起こしてる可能性も大なわけで……。
それだと、ちょっとヒロインが可哀想すぎる気もするよね。
なお、作中に登場する「グリーンマン(Green Man)」とは、教会建築などで用いられる怪人の顔の装飾で、髪が植物として繁茂していたり、鼻や口から植生が生えていたりすることが多い。
イギリスのパブの通称でもあり、映画『ウィッカーマン』にも出てきたりするので、ケルトの古代信仰由来のような気がしていたが、必ずしもそうではなく、中東由来という説もあるらしい。
本作においては、「野人(Wild Man)」と混淆された状態で呈示される。「野人」は中世に遡る図像で、教会写本のマージナル(周縁部)などに頻繁に描き込まれた。森で全裸で生活していて、戦ったり、踊ったりする姿をとることが多い。ルネサンス期には、マルティン・ショーンガウアーの版画や、デューラーの油彩画でも描かれている。『ナイトメア・アリー』における「ギーク」も、もともとの由来はこの「野人」である。
あと、映画COMで紹介しているプロの方が述べていたが、「グリーンマン」「林檎」「タンポポ」というのが、それぞれ「豊穣」「接木によるクローン栽培」「無性生殖」の隠喩だというのは、作品を考えるうえで、有益な解釈だと思う。
ヒロインが旦那さんと対決するマンションの部屋や、終盤で襲われるカントリーハウスの部屋の中が真っ赤に染まっているのは、ダリオ・アルジェントっぽくって個人的に好み。
美しく居心地の良い建物だが、ガラス製のフランス窓に覆われていて、外からの攻撃には守りが脆弱、簡単に覗いたり侵入したりできてしまうというカントリーハウスの在り方は、まさにヒロインの心の在りようと呼応している。
昔、『借りぐらしのアリエッティ』でも同様のシーンがあったのを鮮烈に覚えているが、相手女性の住居に、外から異物をぶち込んでくるというのは、あからさまな男根によるレイプのメタファーであり、相手を蹂躙し、征服したいという男性の性的暴力性の発露である。
まあ、当の怪人は、セックスを介さなくても無限に……って話だが、もしかすると、これが全部ヒロインの●●だとすると、むしろ「そういう生き物として、女にはもう関わらないでほしい」みたいなヒロイン側の願望が反映された「ローリングバース」(町山智浩)なのかもしれない。
あと、トンネルの外の風景が中の水たまりに映って、シンメトリカルな美観を生み出しているシーンがあるのだが、今年10月に行ってきた新潟の「清津峡」で、実際に全く同じギミックを目にしてきたばかりだったので、ちょっと驚いた。
まあ正直、僕にはちょっと、フェミニズム的主張があからさますぎるし、
あまりに終わり方があいまいすぎるしで、もやっとしたところも残ったが、
A24らしい、細部まで作り込んだ、「凝った」衒学的なホラーであることは確か。
若い女性なんかは、抵抗なくむしろ共感しながら愉しめるんではないかな?
精神面の映像化ってテレビ版のエバの25話と26話と
アイデンティティとボーとMENだなあって感じです!
ボーとMENはA24だし特に共通点多いですね! まあ両方ともわかり辛いから低評価多くなるのはしょうがないですけどね、