「結婚前日の中島裕翔が落とされるジャニオタ呪い穴! 汚し尽くされるゆーてぃーの「受難劇」!」#マンホール じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
結婚前日の中島裕翔が落とされるジャニオタ呪い穴! 汚し尽くされるゆーてぃーの「受難劇」!
結婚前日の中島裕翔がマンホールに落ちて出たくても出られないって……、
それ、1000%、ジャニオタの呪いじゃねえか!!(笑)
「きいいいいいい!! 意地でも、あたしたちの中島裕翔は結婚させないわよ!!」
「たとえ、ゆーてぃーを傷つけることになっても、そんな結婚阻止してやるわ!!」
あの人たちの怨念力なら、まちがいなく「呪」を飛ばせるもんなあ……。
本当にそういう話だったかどうかはさておき、
(いや、けっこうマジでそういう話だったかもしれない!)
つい先日『FALLフォール』を観て、高度600メートルから地上に「降りられない」話を堪能したので、ここは続けて今度は地上まで「登れない」話を是が非でも観ておかないと、と妙な使命感に駆られてレイトショーで視聴。
この手のワンシチュエーションスリラーとしては、一応ふつうに面白かった。
でも、『FALLフォール』があまりに面白すぎたので、どうしてもそこは見劣りするかも。
まずは、この映画のタイトルが『マンホール』ではなく、『#(ハッシュタグ)マンホール』になっている点に注目したい。
この映画の本当の主眼は、実は「マンホールからいかに脱出するか」ではない。
閉鎖空間から脱出するために「スマホ一個でどう戦えるか」。そこがポイントだ。
「#」が重要なのだ。
マンホールに落ちた主人公は、逆境からの脱出を試みるにあたって、徹頭徹尾「スマホ」を用いて状況を打開しようとする。
誰でも考えつくような「スマホの充電切れ」といった安易なサスペンスには、あえてしない。
最初から最後まで、「スマホ」は、彼に残された最後にして最大の武器だ。
ふだんからあまりスマホを使いこなせていない原始人の自分からすると、「おおスマホでこんなことまでできるのか」と感心することしきり。
彼は、電話をかけ、GPSをチェックし、スマホを放り投げて穴の外の動画を撮る。
さらには、「#マンホール女」のアカウントを開設し、ネットユーザーに危機的状況を配信し、協力を求めはじめるのだ。
ピンチを打開するために、「ネットの集合知を頼る」というのは、むかし懐かしい『電車男』のころからあった概念だ。
でも、今はそれが2ちゃんではなくて、Twitterになってるんだな。
(映画内では「ペッカー」(「さえずる」ではなく「つつく」)というSNSが登場する。)
現在おかれている状況を把握するために、周辺の画像を共有し、「特定班」の捜査にゆだねる。
自分の代わりに行動してくれる「正義の人」に期待して、情報を提供する。
彼を探し出して助けてくれる「動画サイト配信者」を待ち焦がれる。
彼は『電車男』同様、『マンホール女』として、ネット民の助けを借りて戦いつづけるわけだ。
画面上では、スプリットスクリーンが多用され、「ペッカー」上でやりとりされる文面が、文字情報として流れ続ける。その演出は、狂気の動画配信者兼殺人ライドシェアドライバーを描いた映画『スプリー』を彷彿させる。あちらは21年公開だから、もしかしたら編集段階で影響を受けている可能性はあるかもしれない。
探索のきっかけとして、「踏切音」とか「マンホールの柄」といった、マニアがいることのわかっているジャンルがいくつか登場するのも、じつに楽しい。
とくに、マンホールの蓋は、「マンホーラー」とか「蓋女」と呼ばれるオタのついている、近年静かなブームが進行中の注目ジャンルだったりする。
僕がマンホールについて熱く語っている人間をTVで観たのは、元仮面ライダー555の変人俳優・半田健人が最初だったが(あんなに面白い趣味人は芸能界に他になかなかいないw)、いまでは「マンホールカード」なるものが400万枚の大ヒットを記録し、「マンホール声優」古賀葵が「マンホール漫画」の原案までこなすという夢のような時代が来ているのだ。
その意味で、映画製作者が「マンホール」に目をつけたのは、なかなかの慧眼だったと僕は思う。
それから何より、中島裕翔の体当たりの演技が、すばらしい。
実際、この映画の本質って、きれいな「中島裕翔」を徹底的に「汚す」こと、それ自体にあるようにさえ思う。
監督や製作会社の意図はさておき、結果として起きている現象は、
中島裕翔を鼠の死骸や陰性昆虫のうごめく穴倉に突き落とし、
中島裕翔に血がどくどく噴き出る傷をつくって責めさいなみ、
中島裕翔を泥まみれ、汚物まみれ、蜘蛛の巣まみれ、泡まみれにして、
中島裕翔にお高くとまったエリートからの大「転落」を経験させる。
そういうことだ。
たぶん、話の筋より、「こっちのほうがメイン」まである。
とにかく、大好きな中島裕翔を「めちゃくちゃにしたい」。「汚したい」。
そのサディスティックな衝動と性欲求に、当の中島裕翔が乗っかって、100%ノリノリで付き合ってくれている。
もうすく三十路を迎えるにあたって、スーツを着た好青年イメージからの脱却をはかっている中島裕翔が、合意のうえで「めちゃくちゃにされている」。
それをファンも一緒になって「ひぃぃぃ、あたしのゆうとりんがあんな目にいいいぃぃぃ!」
と、のけぞり、ビビりながらも、鼻息荒く堪能する。
その意味では、女優がアイドルから脱皮したいという名目で出演する類の「体当たりヌード」映画と、事の本質はそう変わらない。
あるいは「アイドルを汚す快感」という意味では、ジェニファー・コネリーが蛆プールに叩き込まれてた『フェノミナ』とか。
まあなんていうか、男の僕から見ても、ボッロボロにされてるイケメンってのは、なかなかいいもんだ(笑)。
僕はちなみにフジテレビの『純愛ディソナンス』をちゃんと全話完走した人間なので、よけいにあのスカした中島裕翔がこんな目にあってる、こんな役をやらされてる、それを嬉々としてこなしている、ということに、ぞくぞくくるような興奮を禁じ得なかった。
考えてみると、世界で一番読まれている本である『新約聖書』の主人公イエス・キリストだって、人生終盤は、汚され、裏切られ、磔にされて、ふんだりけったりだったわけで。
その意味で本作は、まさに中島裕翔という「聖人」が(外面的にも内面的にも)手ひどい試練を与えられ、それに耐え続けるという、究極の「受難劇」でもあるわけだ。
最初の話に戻るなら、この話の骨格自体は「結婚しようとしたジャニーズが、直前で足止めされた挙句、因果応報の罰を与えられる物語」とあえて曲解できなくもない。映画にあらゆる願いをかなえる「願望機」(@Fate)の側面があるとすれば、まさにこれは、本当なら「足止めしようもない」ジャニタレの結婚を食い止めて、裏切りに対してとことん罰するファンのほの暗い妄念が実体化した、恐るべき「願望充足映画」なのかもしれない。
すいません……、妄想ばかりがはかどって。
ー ー ー ー
というわけで、そこそこ楽しめたのは楽しめたのだが。
諸手を挙げて「傑作だ」と主張したいかと言われると、どうもそんな気もしない。
出だしから、なるほどと感心する部分もそこそこあるのだけど、
同じくらい、観ていて得心のいかないところも山ほどあって。
なんか細部の詰めの甘さとか、語り口の一貫しない感じとか、
気になるんだよなあ。
あんまり言うと、すべてがネタバレにつながるので触れられないが、いろいろと全体を通じて無理があるというか、「設定を成立させるため」としか思えない強引な展開があちこちで目に付いたのは確かだ。
まず、あのふつうなら死ぬ高さから落ちて、途中でついた「切り傷」以外に、骨折や打撲をしてる気配がまるでない時点で、リアリティレベルがかなり低いってのが第一印象(逆にもし●●だからそうなのだとすれば、「あの足の傷はどうやってついたのか?」という疑念がわいてくる)。
さっきまで呑んでてそのあと二次会に行った同僚とか、明日結婚するはずの彼女とかの携帯がそろいもそろって全員留守電で、お前ホントにどうとも思わないの?とか(あの年代の子たちって、出られなくてもふつうにコールバックしてくんだろ)、たとえ携帯のGPSが壊れてたとしても、警察からの逆探知は、電波の発信源を辿るんだからふつうに可能なんじゃないのか?とか。
まして、ラストまで観てから改めて振り返って考えると、
●●がちがうのに何故気づかない?とか、
どういじったら○○はこういう状態にできるんだ?とか、
そもそも●●はいったい何をどうしたかったんだ?とか、
「自分が穴に落ちた」と認識した瞬間、絶対○○のことを考えないわけがない、とか、
いろいろと設定上の疑念はつきない。
あと、あんな汚いところでそんな怪我の処理してちゃまずいだろう(ふつうに死ぬよ)とか、
「波の花」対策であんなことしちゃ、さすがにヤバいだろう(ふつうに死ぬよ)とか。
主人公がキレ始める流れや、会社の友人(永山絢斗)絡みの挿話など、いくらどう考えても不自然だったり適当だったりするようにしか思えない部分も多い。
終盤の一連の展開も、僕にとっては「意想外」というよりは、ただ「トンデモ」に「トンデモ」を重ねて行っている感じしかしなかった。
一番ひっかかるのは、主人公が「スマホだけを武器に」現状打破を試みるというメインのネタと、「外部の知己とは連絡がとれない」という状況の「齟齬」が上手く解決できていないことだ。
要するに、主人公は、情報を発信できて、SNSも読めて、バリバリにネットとつながってるのに、
友人とは連絡がとれない。電話がつながらない。返信もこない。
さすがに無理があると思うんだよなあ、それ。
これを全部「スマホ」(もしくは●●)のせいにするのも、厳しいのでは?
「辻褄を合わせる」ことを、なかば放棄しているようにしか思えない。
マンホール落下の「真相」がもろもろ明らかになったあと、「本当に何が起きたか」を再構成しようとしても、なんでそうなったのか、実際にはどうやったのか、どこまでが想定内でどこまでが想定外だったのか、そこまで想定することはそもそも可能なのか、とか、今一つよくわからない、というのもある。観ているあいだは、「ああそうだったのか!」って思うんだけど、終わってみるとなんか釈然としないというか。
あと、ラストねえ。
中盤は、意外に僕には思いつかなかった展開、破調が何回もあったんだけど、
大筋の部分だけは、「きっとそういうオチだろうな」と思っていた通りのオチに収まってしまった。
もう少しうまいやりようがあったかもしれないな、と。
まあこれ以上いっても、こっちの感じが悪いだけなので、もうやめておくけど。
オリジナル脚本の面白さという意味では、たしかによく頑張っていたと思う。
中島裕翔をキャスティングできただけでも、たいしたものだ。
ただ完成度や整合性の面では、『ミセス・ノイズィ』や『さがす』、『カメラを止めるな』あたりのネタ映画系の快作と比べると、かなり低いレベルにとどまっているとしかいいようがない。
とはいえ、こういうワンシチュエーションスリラーを日本でもどんどん撮って行こうというのは、とてもよい風潮だし、ぜひ応援したいところ。
引き続き、他の監督にも、どしどしこういう企画にチャレンジしてほしいと切に願う。