「悲しき夫婦の運命」チャイコフスキーの妻 黒井ミサさんの映画レビュー(感想・評価)
悲しき夫婦の運命
結論から言いますと非常に興味深く鑑賞できました。
まず、知って頂きたいのは、この作品の登場人物に善悪はないという事です。特に日本人は誰かが善人、誰かが悪人と決めつけないと理解しない風潮があります。今作の予告編でも「旋律から戦慄へ」と、まるでチャイコフスキーの妻アントニーナが悪のように作為的に製作されています。
そもそも今作が製作された主旨は、パンフレットにも監督のインタビュー記載がありますが、「アントニーナが本当に世間で言われているような愚か者なのか疑問に思い、掘り下げてみたくなった」という事です。
確かに、彼女は夫との離婚を拒み続け、彼を悩ませ続けたのは事実かもしれませんが、彼女に対する証言や流言の類も、現在では偉大な作曲家のタブーを隠したいと考えたソ連のプロパガンダではとも言われているそうです。
彼女の回顧録を調べた研究家は、「あまり知的でないようだが、首尾一貫しており、精神に異常をきたしていた痕跡は認められない。夫の想い出を強く愛した女性像、彼の偉大さを認める心、2人の間に生じた数限りない誤解に対する曖昧な感情が分かる」と述べています。
つまり、今作はアントニーナ=悪人という先入観を除いて観るべき作品なのです。
彼女の家庭は貴族とはいえ裕福ではなく、家庭環境も良くありませんでした。まして19世紀後半は、現代のように同性愛への理解も浸透していません。またロシア正教に対する信仰心も、現代人のように薄くはないと思いますので、「愛を貫く事が夫に対する操を立てる事」と極論な思考に走る可能性は十分にあったと推測できます。
視点を変えて2人の気持ちを別々に言葉に置き換えて考えてみます。
(チャイコフスキー)
私は同性愛者なのに妻が理解しようとしない。
(アントニーナ)
夫が同性愛者なのは理解したが、私が愛情をより注げば彼も気が変わるかもしれない。
上記には2人の考えに善悪はありません。
人というのは主観で物事を論じてしまいますが、実際にはそれぞれで異なる考え方をしているに過ぎません。だからこそ、それぞれの考え方の違いから衝突や悲劇が生まれていくのです。
チャイコフスキーも当時のロシアでは同性愛がまだ違法であったために、世間体を考えて結婚という選択肢を取り、女性を愛して、普通の家庭を持つ可能性に賭けたのかもしれません。
夫妻の想いのすれ違いは正に悲劇でしかありません。繰り返しますが、そこには善悪という陳腐な二元論が介入する余地はないのです。
映画は客観的に夫妻の姿を描いており、これは、多様性を認める現代だからこそ可能になった物語とも言えるのではないでしょうか。