「【商業映画としてはハイスペック◎洗練された106分】」線は、僕を描く 山のトンネルさんの映画レビュー(感想・評価)
【商業映画としてはハイスペック◎洗練された106分】
面白さ☆3.5/映画は映画、原作は原作。みんな違ってみんないい。原作を読んでから映画を見に行った人と、映画だけを見た人で評価が分かれるだろう。
この映画は、絵を描くのが上手いと評される画家に、市井の中で話題になっている絵を模写させて、その絵に似合う額縁をなんとなくのニュアンスで選び、大衆に向けて販売した絵画のようだ。
◎本屋大賞原作の映画化について思うこと
本屋大賞原作の映画はまさに現代の消費コンテンツのお手本である。映画の作り手は話題性のある原作の映画化で放映収入を得ることができ、出版社は映画というメディアミックスによる原作の売り上げを向上させることができるという両者がwin-winの関係であるため、映画化はなかなかやめられないのだろう。
出版社側にとって、映画が原作の売り上げを向上させるための話題作り(マーケティング)でしかないならば、映画ほどの予算をかけずとも他に手段があるのではないかと思ってしまうけれど、現実はそこまで熱意のある人がいなければ、予算も知恵もアイデアも潤沢にはないのだろう。
話題性があるからメディアミックスが検討され、さらに話題性が高まることで多くの人に見られる。だからこそ、話題を作っていくことが商業的には大事になる。話題作りにおいて映画化はやり方も既にパターン化されており、尚且つ効果が絶大である。そのため、ある程度原作が話題になれば映画にしない理由がない。
しかし、売り上げが上がれば内容の大幅な脚色、改変をすることを厭わず、それを編集としてまとめてしまうのはいかがなものだろうとも思う。脚色や改変と編集の違いを議論すると長くなってしまうので割愛するが…【そして、バトンは渡された】のレビューにこのように思う理由を記載した。ちなみに本作も原作に忠実とは言えない。薄めるとか、広げるとかではなく、設定そのものをいじっているからだ。
◎映画【線は、僕を描く】について
映画としては悪くない。しかし、個人的にモヤモヤする部分がある。それはこの作品の色だ。本映画は制作スタッフ、キャストともにかなり青春色が強いのだ。そもそも、ちはやふるのスタッフが再集結というのは、小説『線は、僕を描く』の世界とは本質的には関係がない。誰が監督で映画を制作しようと映画【線は、僕を描く】は上映されたことだろう。作品は作品なのだから。それにもかかわらず、誰が作っているかという部分に関してPVを含め、宣伝で押し売りしすぎだと思う。
映画を見た方ならわかるかと思うが、映画【ちはやふる】のスタッフが再集結したということだが、本作は【ちはやふる】のような空色、若葉色、茜色のような鮮やか色はしていない。この映画の青春はむしろ穏やかなセピア色に近く、むしろ【ちはやふる】と比較すれば地味といえるだろう。原作を読み込み、製作陣なりに解釈した結果だろう。その製作人のたちの読み込みに反し、PVや宣伝などは映画以上に青春アピールがなされている。少し露骨だ。これはいただけない。PVを作った人の売れれば良いのだという熱意のようなものは感じる。つまり、チケットを購入する段階までしか見据えていないのだ。映画【線は、僕を描く】の作品を見た鑑賞者が鑑賞後の体験を最大化する意味では、青春色を謳ったPVはバイアスにしかならないのではないだろうか。これでは製作陣が「青春」という記号として宣伝のために映画に起用されたにすぎないようにも感じる。その結果というべきか、ほんのりと青春色のようなものを残した映画【線は、僕を描く】が完成した。原作未読であれば、映画は映画で面白い部類に入ると思う。しかし、原作既読者は何を思うのだろうか。
ただ批判がしたいというわけではないのも事実だ。というのも、総じてこの映画はこの映画【線は、僕を描く】のためのキャストであり、制作スタッフであり、内容であったのは確かだからだ。相変わらず、横浜流星は演技が上手いし、製作陣による映画館ならではの音響の使いこなしはさすがだ。少し音を多用しすぎている気はするが、現代の知識を総動員して制作された技巧的な映画だといえる。ベテラン俳優陣を含め、製作陣の方々は大健闘であった。たぶん、映画だけ見る人はこの映画はこの映画で完成されてると感じることだろう。
自分が求めている映画【線は、僕を描く】ではなかったけれど、素晴らしき小泉監督版映画【線は、僕を描く】の世界がここにはあると思う。
◎原作既読者でも評価が落ちにくいわけとは?
何よりもこの映画【線を、僕は描く】は、小説では掴みきれなかった水墨画を視覚や聴覚への刺激をもってして巧みに表現したことにあると考える。原作でも本作は主人公がひたすら水墨画について考えるシーンかある。筆を何度も、何度も動かしながら。しかし、小説の中だけでは視覚も聴覚も直接的には刺激されない。頭のいい製作陣の方々は原作既読者としてはどしがたい設定改変を一部行いつつも、視覚や聴覚への刺激を多彩に表現することで評価の著しい低下を防いだのではなかろうか。
◎ひとこと
登場人物の背景設定をいじる時点で、少なくとも原作そのままの映像化ではなかったと私は考えてしまう。原作の普及、水墨画の普及、収益の最大化、さまざまな思惑が巡り巡って、芸術性を高めた映画ではなかった。だが、大スクリーンのために作られた映画の完成形のようなものを見た気がする。色々述べたが、商業映画として映画単体で完成度は他に類を見ないレベルで高いとも思ったのは事実だ。ある意味、この映画は原作小説の映画化を商業的に広めるベンチマークのような作品になるだろう。
◎編集後記
この文章だと自分が見たい映画じゃなかった人のただの愚痴、感想になってしまってるんだよな。主張がはっきりしていないのも悪いな。映画単体としては悪くはない。むしろ大衆ウケする作りだと思いました。しかし、これもまた僕の感性ですが、原作を殺してしまったと感じたのも事実です。感覚の違いを指摘しているにすぎないのが良くないが、もはや感性の問題になってしまう。
わたしは原作の文章から本作品には、もっと灰色がかった墨汁の黒や、半紙のように空っぽで透け感のある白色、そして空虚さを内包した無色のような色を想像していた。そして、映画にもそれを求めてしまった。モノクロ映像の挿入などがあっても良かったのではないだろうか。しかし、実際に感じた色はセピア色だった。これは解釈の違いなのかもしれない。しかし、自分が見たい【線は、僕を描く】の世界ではなかった。また、残念ながら、映画は小説『線は、僕を描く』ほど線については哲学していない。くわえて、映画は内面のドロドロした感情や心理描写への言及も少ない。
> 映画は映画、原作は原作。みんな違ってみんないい。
同感です。映画は必ずしも、原作の主題をトレースしなければいけない訳ではない。もちろん、トレースしていれば二重の喜びを感じるが、それは義務ではない。
今回は、原作を好きすぎて、ちょっと真っ白に映画として観られなかったキライがあるので、もう一度観てみようと思います。
> 【そして、バトンは渡された】
うんうん。
コメントありがとうございます。
私は原作を知りませんが、仰るとおり今作は明るい色味のある作品でしたね。
そしてべた褒めするつもりはないけれど悪くはなかったです。