燃えあがる女性記者たちのレビュー・感想・評価
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制約下で伝えることの価値
書きかけで時機を逸してしまったが、まだ上映館があるようなので。
インド社会で現在も残る差別に対して、カーストの外に置かれた被差別民ダリット出身のジャーナリストたち自らが報道を行うことでエンパワーメントを図る姿を描くドキュメンタリー。
ダリットの女性のみで立ち上げられた新聞『カバル・ラハリヤ』は、発信強化のため、スマホ自撮りスタイルの動画での報道を拡充する。英字が読めずスマホが操作できない、家に電気がきておらず充電できないといった思いもよらない支障を乗り越えながら、記者たちはヒンドゥー教社会の中でのダリットへの差別や女性への差別に対し、悲しみに寄り添い、怒りを共有しながらカメラを向ける。はじめは取材相手から別世界の人間と思われ、1面に記事を載せるのにいくら金をとるのか、と信用されなかったのが、(きちんと話を聞いてもらえたからか)相手が記者の足に跪いて敬意を払うシーンがとても印象的だった。
記者たちはレイプや殺人を警察が受理しない・適切に捜査が行われないことを告発し、またトイレや電気や道路といったインフラの未整備を報じると即座に地元政府が対応するといった成果も上げる。チャンネル視聴数はうなぎ登りになる。
それでも、記者が家に帰れば、家庭内での固定化された役割を求められる。リーダーは夫には帰りが遅いと疑われ、家事をしないと文句を言われ続ける。主力記者は周囲の圧力に負けて結婚退職を選択する(のちに復帰するが)。
このように、映画は基本的には困難がありながらも前進する、ポジティブなトーンで描かれている。ただし、フォーカスしているのは記者たちの姿であって、問題とその解決そのものではないことを意識する必要はあると思う。もちろん、報道によって事態が改善、進展する効果があることは盛り込まれているが、差別がなくならない要因や構造的な問題、それを記者たちがどう認識しているのかに対しても、もう少し触れてほしいと感じた。
差別の文脈でもうひとつ気になったのだが、作中、国政与党のBJPが選挙で州政権を獲ったことにより、ヒンドゥー至上主義の高まりが警戒される。よりムスリムへの圧力や差別が高まるであろうことには記者のコメントがあったが、同紙が「ムスリムへの差別」そのものを報道対象としてどう扱っているのかは作中からは読み取れなかった。ヒンドゥー対ムスリム(あるいは他の宗教マイノリティ)の軸では彼女たちも「持てる者」の立場にいるかもしれない、という視点は、視聴する側では持っておく方がよいと思った。(現実の同紙の報道ぶりもインド社会の分断の実態も知らないので的外れかもしれないが)
もちろん全ての問題にアドレスできなければやる意味がないということではない。ドキュメンタリーの描きたい意図と、描かれていない・描けないことをどう捉えるかということである。「コレクティブ 国家の嘘」「ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇」のレビューにも書いたが、本作の製作者も登場する記者たちも、政治・社会的に、特に権力との関係において、直接的に批判できない、ともすれば生命の危険にかかわるような部分はあるのだろう(作中でも、政治ネタは慎重に、ベテラン記者のみが扱うことにすると述べるシーンがある)。その中で秀逸だったのは、ヒンドゥー至上主義者の青年団体(BJPが大衆動員に利用するが、ボランティア)のリーダーに密着取材して本人に語らせることで、大衆の「支持」の実態を垣間見せたこと。これぞジャーナリズムだと感じた。
報道の自由に制約があっても、伝えることの価値のために努力する人々に敬意を表したい。そして、そんな人々を知る機会を与えてくれた本作にも感謝。
インド人女性の頑張りを描いた作品
インド半島のパキスタンやバングラデシュで女性の権利向上のために頑張っている女性を描いた作品としては、『わたしはマララ』『メイド・イン・バングラデシュ』『世界のはしっこ、ちいさな教室』があり、アメリカに出かけて自己主張に目覚める主婦を描いた作品では、『マダム・イン・ニューヨーク』があり、白人ジャーナリストがインドに留学してインド人女性に取材していた『グロリアス』というのもあったが、インド人女性が国内で自己主張する作品はなかったようである。途中からの鑑賞であったが、バングラデシュ同様、女性が未婚で働くことへの社会的圧力は強いようである。また、フェミニズムへのバッシングも強い。しかし、彼女たちは怯まず取材活動を続け、会社を発展させていた。宗教活動に便乗しようとする与党の選挙活動にも忖度せず、民主主義の精神を担おうとする使命感に溢れているところが凄い。
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