燃えあがる女性記者たちのレビュー・感想・評価
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報道するのに学歴はいらない
ジャーナリストのあるべき姿を描いた素晴らしい作品。カーストの最下層民である女性たちだけで運営される新聞社のデジタル転身を描いたドキュメンタリー映画なのだが、報道のために必要な志が何かをまざまざと見せてくれる。スマホを触ったこともなければ、中には読み書きが得意じゃない人もいる。それでも今はスマホがあれば世界に情報を届けることができる。彼女たちは、地域の人々と同じように生活し、同じ目線で社会を見ているがゆえに、問題の本質をきちんとわかっている。取材スキルも高くて度胸もある。ジャーナリストに必要なのは高学歴でも高い機材でもないのだ。
インドの中でも家父長制的価値観の強い地域に暮らす彼女たちは、家のこともやらねばならない。若い記者は結婚のプレッシャーにさらされ自身のキャリアを危惧する。そもそも女性が一人で外を出歩くことが珍しい地域で、世間からの差別的眼差しとも彼女たちは戦わねばならない。後半、ヒンドゥーナショナリズムの台頭するインド社会での選挙戦の取材が描かれ、現在のモディ政権下でインド社会がどういう問題を抱えているのかも浮き彫りにする。インドのメジャー映画ではこうした批判的眼差しを観ることはなかなか難しい。その意味でも貴重な作品だった。
もっと上映される必要がある作品
前から観たい作品だったが、なかなか上映館、上映日数も少なく、機会を逃していたがようやく観れた。
さすが評価の高い映画というのが頷けた。
インド映画は好きなのだが、民度としてインドという国は何故にこんなに女性に危険と息苦しさを背負わせるのか。
警察もまともに動かず「母なるインド万歳」「女神崇拝」これらの言葉とは全く辻褄が合わない。
地域の権力者や男性への取材時、アレコレ投げつけられる言葉に対して、女性記者達の切り返しがとても理知的で動じないやり取りに逞しさを感じた。
大国インドは100年後も大して変わってなさそうな気がするが、それでも彼女達の活動が負けずにいつまでも受け継がれていく事を願う。
制約下で伝えることの価値
書きかけで時機を逸してしまったが、まだ上映館があるようなので。
インド社会で現在も残る差別に対して、カーストの外に置かれた被差別民ダリット出身のジャーナリストたち自らが報道を行うことでエンパワーメントを図る姿を描くドキュメンタリー。
ダリットの女性のみで立ち上げられた新聞『カバル・ラハリヤ』は、発信強化のため、スマホ自撮りスタイルの動画での報道を拡充する。英字が読めずスマホが操作できない、家に電気がきておらず充電できないといった思いもよらない支障を乗り越えながら、記者たちはヒンドゥー教社会の中でのダリットへの差別や女性への差別に対し、悲しみに寄り添い、怒りを共有しながらカメラを向ける。はじめは取材相手から別世界の人間と思われ、1面に記事を載せるのにいくら金をとるのか、と信用されなかったのが、(きちんと話を聞いてもらえたからか)相手が記者の足に跪いて敬意を払うシーンがとても印象的だった。
記者たちはレイプや殺人を警察が受理しない・適切に捜査が行われないことを告発し、またトイレや電気や道路といったインフラの未整備を報じると即座に地元政府が対応するといった成果も上げる。チャンネル視聴数はうなぎ登りになる。
それでも、記者が家に帰れば、家庭内での固定化された役割を求められる。リーダーは夫には帰りが遅いと疑われ、家事をしないと文句を言われ続ける。主力記者は周囲の圧力に負けて結婚退職を選択する(のちに復帰するが)。
このように、映画は基本的には困難がありながらも前進する、ポジティブなトーンで描かれている。ただし、フォーカスしているのは記者たちの姿であって、問題とその解決そのものではないことを意識する必要はあると思う。もちろん、報道によって事態が改善、進展する効果があることは盛り込まれているが、差別がなくならない要因や構造的な問題、それを記者たちがどう認識しているのかに対しても、もう少し触れてほしいと感じた。
差別の文脈でもうひとつ気になったのだが、作中、国政与党のBJPが選挙で州政権を獲ったことにより、ヒンドゥー至上主義の高まりが警戒される。よりムスリムへの圧力や差別が高まるであろうことには記者のコメントがあったが、同紙が「ムスリムへの差別」そのものを報道対象としてどう扱っているのかは作中からは読み取れなかった。ヒンドゥー対ムスリム(あるいは他の宗教マイノリティ)の軸では彼女たちも「持てる者」の立場にいるかもしれない、という視点は、視聴する側では持っておく方がよいと思った。(現実の同紙の報道ぶりもインド社会の分断の実態も知らないので的外れかもしれないが)
もちろん全ての問題にアドレスできなければやる意味がないということではない。ドキュメンタリーの描きたい意図と、描かれていない・描けないことをどう捉えるかということである。「コレクティブ 国家の嘘」「ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇」のレビューにも書いたが、本作の製作者も登場する記者たちも、政治・社会的に、特に権力との関係において、直接的に批判できない、ともすれば生命の危険にかかわるような部分はあるのだろう(作中でも、政治ネタは慎重に、ベテラン記者のみが扱うことにすると述べるシーンがある)。その中で秀逸だったのは、ヒンドゥー至上主義者の青年団体(BJPが大衆動員に利用するが、ボランティア)のリーダーに密着取材して本人に語らせることで、大衆の「支持」の実態を垣間見せたこと。これぞジャーナリズムだと感じた。
報道の自由に制約があっても、伝えることの価値のために努力する人々に敬意を表したい。そして、そんな人々を知る機会を与えてくれた本作にも感謝。
インド人女性の頑張りを描いた作品
インド半島のパキスタンやバングラデシュで女性の権利向上のために頑張っている女性を描いた作品としては、『わたしはマララ』『メイド・イン・バングラデシュ』『世界のはしっこ、ちいさな教室』があり、アメリカに出かけて自己主張に目覚める主婦を描いた作品では、『マダム・イン・ニューヨーク』があり、白人ジャーナリストがインドに留学してインド人女性に取材していた『グロリアス』というのもあったが、インド人女性が国内で自己主張する作品はなかったようである。途中からの鑑賞であったが、バングラデシュ同様、女性が未婚で働くことへの社会的圧力は強いようである。また、フェミニズムへのバッシングも強い。しかし、彼女たちは怯まず取材活動を続け、会社を発展させていた。宗教活動に便乗しようとする与党の選挙活動にも忖度せず、民主主義の精神を担おうとする使命感に溢れているところが凄い。
インドの北部、カースト低層の女性たちが、独自で新聞社を立ち上げ、デ...
インドの北部、カースト低層の女性たちが、独自で新聞社を立ち上げ、デジタル化したドキュメンタリー。
賄賂慣れした市民や警察等、
事件に声を上げてもつぶされる、泣き寝入り続きだったものが、
彼女ら取材チームにより、各自のスマホ一台で瞬時に記事や動画を配信、次々に赤裸々になり。
全員が女性記者で、家族の理解が無いこともありつつ。
本質をぶらさない取材方針、かつてよくきいた "ペンは剣よりも強し" を行動で示す方々。
インドでは、超優秀な方々と、その真逆との、ギャップが顕著なこと、改めて確認できました。
"言葉が読めないと…" "英語ができないと…" は、他の映画でも話題にあがるところですね。
インドの方々と会話していると、主張を言う際のグイグイがっつりなところを痛感してばかりですが、この登場人物にも圧倒されてばかりでした。
日本では考えられない世界
日本では考えられない世界です。
未だにこんな事を行っているのか。
日本はまだ恵まれている。
インドの神様は、ヒンズー教ですが男尊女卑
差別が凄い大変ですね。
日本には天照大御神この神様女かもしれない。女の神様を信仰してるの日本だけです。
観てよかった。
報道の大切さと、低いカースト身分で女性であるとゆう不利を抱えながらも勇敢に戦っていく彼女達に胸が熱くなる。
彼女達がこれからもずっと頑張ってほしいと思うと同時に
どうか無事でいてくれと願う。
そして現状、命の危険がない日本で
私達は何ができるのかと考させれる。
インドの国内情勢がどうなっているかもみることができて、知ることができて
観てよかった。
映画館で鑑賞
頻繁にレイプが起こり
中には殺人も珍しくないようだ。インドでは、今でもカーストによる差別も性別による差別も根深いように感じられる。
なのに、この映画はなぜかどこだか明るい。
女性記者たちが「民主主義」や「報道の力」を信じているからだろう。
映画を見ることによって、それまで興味も関心もなかったことを知ることができる。さて、知った。その後は?
踊らないインド映画。
ペンは剣よりも強し。たとえそれがネット配信になってもその信念は揺るがない。14億人が暮らすインド。カースト制度に根強く残る男尊女卑の思考。政治も警察も国民の為に機能しているとは言い難く、あちこちでマフィアが幅を利かせている。女性の人権や尊厳は尊重されず、まだ幼さの残る女児が結婚させられることも珍しくない。
そんな男性優位の社会に14年かけて培ってきた取材力を武器に果敢に立ち向かってゆく女性だけで運営される新聞社のドキュメンタリー。見応えがあるのは言うまでもなく、スマホ片手にこの国で生きる弱い立場の人達の為に、そして全ての女性の為に闘う姿に胸が熱くなりました。
そんな女性記者達の日常風景。このインドという国で女性が記者として働くということの覚悟。妻であり、母であるということ。ジャーナリズムの本質とは何かを改めて考えるきっかけとなりました。
メディアのありようを考える
時の政権への忖度、スポンサーへの遠慮、娯楽化による視聴率への配慮。そんな日本のマスコミの劣化をあざ笑うような、痛快な内容。そして何より、そういう状況を許してしまっているかも知れない自分を突き刺してくる。
今の時代に見るべき映画。おすすめ枠。
今年357本目(合計1,007本目/今月(2023年10月度)22本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))
大阪市では妙に放映が遅れていたのですが、やっと見ることができました。
予告編ほかからは、日本基準でいって「報道・取材の自由」という憲法論的な論点、さらにフェミニズム思想、さらにはインドのカースト制度ほかの論点があるという理解で見に行きました。
そのどれもが含まれていて、しかも放映時間が適正だったので良かったです。
それにしても発展途上国の中でも比較的、表現の自由(報道の自由)(日本基準)について緩やかであるのではなかろうかと思えるインドですらこのありさまなので、他の国はもっと改善を要するのだろうと思うし、またその姿勢が、国民の「知る権利」(日本基準)にもつながる(取材・報道の自由と、知る権利は表裏一体の関係になる)からです。そして国民の「知る権利」はさらに「学習権」といった語にも発展し、識字率の低い発展途上国ではとても大切なことなのです。
なお、インド映画ですが、ドキュメンタリー映画なのでインド映画お約束の左下の謎の警告表示やら、冒頭に大量に出てくる「何が書いてあるかすら読めない謎の大量文字列」はありません。インド映画ですが実質的にドキュメンタリー映画と見てよいと思います。
採点に関しては以下を気にしましたが、大きなものではありません。
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(減点0.1/一部の人が混乱する/「報道の自由を掲げるなど(女性に向かって)フェミニズム思想なのだろう」
男性でもフェミニズム思想を持つ方はいますので(男女同権思想は女性がメインで語られることもありますが、それに理解を示す男性も少なくはありません)、ややこのセリフは混乱を招きます。ただ、現地インドの話であり、日本と同列に語るのはちょっと難しいので、採点幅は考慮しています。
(減点0.1/インドにおいて「行政」が指す語の意味)
「行政」という語は実は「国家のすることから、裁判と立法を除いたすべてのもの」という控除方式が取られ、それが日本や韓国、台湾、また行政法の発祥地であるドイツの考え方ですが、インドではどのような定義なのかわからず、一種の「無定義語」になりやすいです(ただこれも、行政について論じるドキュメンタリーでもないので減点幅は調整)。
(減点なし/参考/「出産した」の表現)
「…は1年後に出産し…」のエンディングロール直前の表現(本編、説明が入るべき部分はすべて英語。日本語訳あり)は、映画の通り「正しく」 welcomed です(welcame になりません)。
インド映画3本目:観光ではわからないインドの現実。
ちょうど4年前、インドのデリー、コルカタを旅した。
マザーハウスのボランティア体験が旅の目的で、コルカタでは日本語ガイドのおうちにステイさせてもらった。
体感したインドの暮らし、街の様子は、私が子ども時代を過ごした1970年代の日本のようだった。
ガイドの話によると、都会ではカーストの縛りは随分ゆるくなり、英語ができればカーストに関係なく高給の仕事につける時代と聞いた。
この映画の舞台は、デリーやコルカタに比べると、随分田舎のようだ。
それゆえに、カーストの縛りがきつそうだった。
男性も、母親のおなかから産まれてくるのに、なぜ、女性に対してこうもひどい仕打ちができるのか。
正直、理解に苦しむ。
100年前の欧米や日本では、女性の身分、立場は弱かった。
多くの女性たちが闘い、権利を勝ち取ってきてくれたから、今の私たちがある。
インドは、これから、このいばらの道を歩むのだろうけれど、おそらく闘う期間は短縮されるだろう。
今度、インドを訪れる時は、タージマハルとバラナシ、そして田舎の方も周りたい。
ロケットを飛ばしてもインドはインド
名簿に出自が書かれているとは驚き。そうゆうところから直さないと!
2014年以降、記者が40人も殺されているって…政治絡みかな?政治と宗教は切り離そうよ。
政治にも斬り込む
低いカーストの女性たちのメディアということで、身近な町ネタ中心かと思っていた自分の偏見を思い知らされた。熱を帯びるヒンドゥー至上主義と政治の問題にも斬り込んでいて骨太なジャーナリストだった。
警察に詰め寄る口調も鋭いし、狂信的な自警団にも食い込む。
未来に、あのときあなたはどうしてたのと言われても私たちは胸を張れると言っていたのが印象に残る。
報道することで、状況が良くなるのはやりがいがあるだろな。スマホを触るのも怖い段階から、動画での発信に力を入れていく。識字率も日本ほど高くない状況では動画の方が有効だろう。編集もなかなか凝っていた。家に電気もなく充電できないのにスマホで取材なんて頭が下がる。
エリートでなくても、ここまでできるというのは励まされた。マネージャーになりたい、もっと記事をうまく書きたい、編集もできるようになりたいと意欲的。
命懸けのジャーナリズム
インドの被差別カースト、ダリトの女性記者たちの物語。おそらく想像以上に女性に対する差別が大きい世の中で、たくましく生きている人々の姿に涙、応援したくなりました。この映画の中にも政治家やそれを目指す人々が出て来ますが、抽象的な、言葉しか発しない人と、現実に即した具体的な話をする人の、違いを感じられました。
インドでは、ジャーナリストが殺されているという、現実。事実を伝える言葉を真摯に受け止めてたいと思う映画でした。
ジャーナリズムは民主主義を支える柱
インド北部のウッタル・プラデーシュ州で生まれた新聞社「カバル・ラハリヤ(ニュースの波)」で活躍する女性記者たちに密着したドキュメンタリー映画でした。このウッタル・プラデーシュ州には、有名なタージ・マハール廟がありますが、本作ではそうした観光要素は一切なく、昨今国際社会において飛躍的に存在感を増しているインド社会の現実を真正面から取り上げたド直球の作品でした。
「カバル・ラハリヤ」の記者たちは、カースト外の不可触民出身の女性たちであり、ただでさえ差別の対象となる階級の出である上に、女性が外で働くことに対してすら批判的なインド社会において、取材対象とだけでなく、無理解な家族とすらも闘いながら懸命に取材する姿が、観る者の共感を呼ぶ作品となっていました。日本も他人のことをとやかく言えたものではありませんが、インドにおけるミソジニーはかなり酷いようで、日本でもたびたびインドで発生したレイプ事件が報道されます。ところがこうした被害者が警察に届けても、中々取り上げて貰えなかったり、警察に訴えたらさらに酷い目に遭わせると脅されるなどといったことが結構な頻度で発生しているようで、そうした声を上げられない被害者や、警察への取材を通じた同紙の記事が話題になり、犯人逮捕に結びついた例もあったようです。
また同紙は元々紙媒体で発行していたようですが、2013年からスマートフォンで撮影した動画ニュースをウェブサイトに合わせて掲載するようになり、この戦略が一定の成功を収めているようでした。この辺りは時代に即応した挑戦であり、かつ見事な経営センスだと感じたところです。
さらに弱い立場の女性にスポットを当てた記事だけでなく、政治にも鋭く切り込んでいるところも素晴らしいところ。インド人民党を率いる現首相のモディが、ヒンズー教ナショナリズムを利用した統治を行っていることにも言及。ヒンズー教のお祭りでインド人民党マークが使われていることにも切り込むなど、観ているこちらが冷や冷やするような果敢な取材を続ける記者たちに、ただただ頭が下がるばかりでした。
ちょっと脱線しますが、昨年大ヒットしたインド映画「RRR」は、確かに大変面白い映画でしたが、インド独立の話でありながらガンジーは登場しませんでした。これはヒンズー教以外のイスラム教などにも融和的だったガンジーを敢えて排除することで、ヒンズーナショナリズムを高揚させる意味合いもあるという解説もありました。それを考えると、「カバル・ラハリヤ」のスタンスと言うのは、まさに真のジャーナリズムと言えるのではと思います。
そして本作が最も強調していたのは、「ジャーナリズムは民主主義を支える柱である」ということ。先ごろインドは中国を抜いて人口世界一の大国となりました。必然的に民主制を採用する国としても世界最大。しかしながら、出自に関わらず教育が全国民に行き届き、正しい情報が周知されない状態では、選挙をやっているからと言って民主主義は正常に機能しません。最近の日本も他人のことを言えませんが、インドの民主主義の現状はそうした観点からまだまだ極めて脆弱であり、それをジャーナリズムの側面からより良い状態に持って行こうと奮闘する「カバル・ラハリヤ」の記者たちに、最大限の賛辞を贈るとともに、こうしたジャーナリストが日本にも多数生まれて欲しいと願ったところです。
人種差別に屈しない人としての尊厳が胸に響く
ロケットを飛ばせるほどの科学技術を持ちながら21世紀のいまも人種差別(カースト制度)が払拭されないインド。
カーストピラミッドの最下層の女性たちがこうした差別社会に風穴を空けようと、女性だけの新聞を作った。初めは小さな声だったが、やがて、報道によって自治体や国を動かすまでも影響力を持つに至った。
レイプ被害に遭い殺される女性が後をたたず、警察もまともに対処しない絶望感に屈せず、報道というペンの力で女性や個人の尊厳を主張し、権力を動かす姿に、ただただ感動と尊敬の念を抱いた。
政府に批判的な記者が何十人も殺される民主主義には程遠い独裁国家インドだけど、声を上げ続けることで小さな波が大きなうねりとなる希望が見えました。
ひるがえって日本は、海外からメディアの沈黙と指摘されても、大きな社会問題までには至らず、他人事のような空気さえ漂っている。
人としての尊厳をかけて民主主義社会を目指すインドの最下層の人々と、民主主義崩壊の瀬戸際にいるのに危機感のない多くの日本人。
失ってからでは手遅れだと、胸に刻みました。
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