「難しさは残ってしまった」忌怪島 きかいじま R41さんの映画レビュー(感想・評価)
難しさは残ってしまった
呪いと幻想の境界──映画『忌怪島』をめぐる記憶と問い
2023年に公開された映画『忌怪島』は、ホラーというジャンルにバーチャルリアリティの概念を持ち込んだ、ある種の実験的作品である。だがその実験は、最新技術によって霊的な呪いを解明する方向ではなく、むしろ「かつてのホラー」へと回帰するようなベクトルを描いていた。
現実に起きた出来事──二人の死。
別々の場所で、同じ日、同じ時間、同じ死に方。
この謎は、もっと多層的に掘り下げられるはずだった。だが物語は、古典的なホラーの型に収束していく。
その型は、まるで『八ツ墓村』のようだ。
事件は解決したかのように見えても、呪いは消えない。
そして、呪いに関する事実が二つ提示される。
一つは、南トキというシャーマンが語った過去の出来事。
それは、現実に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と同じ構造を持つ。
直接的な呪いはすぐに発動し、数年後、島の女が狂い始める。
それが、シゲおじの母だった。
村人たちは「イマジョの呪い」と呼び、この親子を村八分にした。
シゲおじは、母を殺したのかもしれない。
呪いという言葉に押し潰され、それを事実だと思い込んだのだろう。
彼が三線を弾いていた鳥居は、母のために立てたものだったのではないか。
つまり、「シンセカイ」のメンバーたちが向き合っていた「イマジョの呪い」は、実はシゲおじの母の鳥居に宿っていたのかもしれない。
だが、実際に呪いを解いたのは「イマジョ」だった。
シゲおじは、シンセカイのメンバーに礼を言う。
トキが語った「二つの世界」──それを実際に作ってしまった彼ら。
「導かれたから」という言葉が、忌怪島とバーチャルリアリティの接続を正当化する。
シゲおじは、彼らの訪問によって、呪いを解く方法を思いついた。
それは可能性に過ぎなかったが、実際に人が死に始め、イマジョがこの世界に戻ってきたようだった。
りんが作った折り鶴を空に撒くように、魂を解き放ち、彼女自身も空へと飛んだ。
イマジョの鳥居は、別の場所にあった。
シゲおじの言いつけを守らず外に出たりんは、「呪われた」のだろうか。
彼女は最期、シゲおじの三線を弾きながら歌い、入水する。
もし呪いというものがあるならば、これで一旦は落ち着いたのかもしれない。
『八ツ墓村』のように。
だが、りんとは何者だったのだろうか。
冒頭から、脳科学者カタオカのVRヘッドセットを外し、村八分のシゲおじと心を通わせていた。
もしかすると、りんはシゲおじの母の生まれ変わりだったのではないか。
生前を悔い改め、りんとして彼に寄り添っていたのかもしれない。
シゲおじが「おかん、待たせたなあ」と言って飛び降りたとき、りんはその後を追うように入水する。
母の魂を持つりんにとって、それは再び訪れた無力感だった。
シゲおじの母が狂った理由は、呪いではなく、もっと別の何かだったのかもしれない。
だが、彼ら母子の悲劇こそが、「イマジョの呪い」を再び呼び寄せた可能性はある。
老人になっても続く村八分。
かつてその呪いによって、彼女に悪いことをした人々を根こそぎ殺害したイマジョ。
過去を清算したはずの彼女は、島民の悪癖に対して、シンセカイのメンバーを島へと導いた。
だが、実際に死んだのはシンセカイのメンバーだった。
この理屈は通らない。
それとも、イマジョは今でも島民を呪いたいと思っているのだろうか。
園田哲夫──タマキの父。
母との離婚。
タマキは昔の父には愛着があったが、今の父には何も感じない。
忌怪島で父が住んでいた場所。
カタオカが感じた「女」の存在。
それは「イマジョ」だった。
呪い足りないイマジョは、シンセカイを使い、再び島で呪いを発動したのかもしれない。
だから、島民にも犠牲者が出た。
そして、あのヤドカリ。
何の象徴だったのだろうか。
島民がヤドカリを飼育していること自体が奇妙だ。
あれは、シゲおじ自身の象徴だったのではないか。
本当の自分になれない自分。
そのヤドカリが外へと出た瞬間、シゲおじは飛び降りた。
フェリーで島を離れるタマキ。
彼女は鳥居がもう一つあることに気づく。
真っ暗な客室。
そこから出てきたカタオカ。
二人は手を繋ぐが、その腕にはアバターのナンバーが表示されている。
何が現実なのか、わからない。
ここに感じるのは、余韻というより「やっちゃった感」だ。
心霊世界という幻想。
現実世界という幻想。
バーチャル世界の幻想。
すべてが幻想世界だという概念。
面白くもあるが、どっちつかず。
少しだけ考える面白さだけが、印象に残った作品だった。
