ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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傷つけ合い支え合う人間たちを単純化せず描く
この作品には、生きづらさや喪失感を抱える登場人物しかいない。彼らの背景は物語が進むにつれ明らかになるが、理解し共感できる面と過ちに思える面とが背中合わせになっていることが多く、どうにも切なくなる。
主人公のチャーリーは、かつて男性の恋人アランのもとへ行くため妻子を捨てた。そのアランは、父やカルトの教会から理不尽な仕打ちを受けたことが原因で亡くなった。
彼の体を覆い尽くした脂肪は、積み重なった苦悩が具現化したものだ。大切な伴侶を失った失意と、妻子を置き去りにしたことへの自責の念。彼はその苦悩に今や命を奪われつつある。体調悪化に苦しみながらも病院に行かず、娘に残す資産を貯める姿は、償いのために命を差し出しているかのようだ。
因果応報と言って突き放した目で見るのは簡単だ。だが、知性と感受性を持ち合わせた彼が苦悩と後悔で凝り固まった巨体に命を蝕まれつつある姿を見ていると、彼の思いがこちらに否応なく流れ込んできて、とても苦しい気持ちになった。
チャーリーの肉体の表現がいかに大切かが分かる。アロノフスキー監督は当初実際に肥満体の俳優を使うことも考えたようだが、体力的に長時間の撮影に耐えられない恐れがある等の事情により、特殊メイクを選択した。OAC(肥満の人とその家族を支える団体)と密な話し合いをしながら撮影を進めたそうだ。
ブレンダン・フレイザーの少し困ったようなベビーフェイスが、チャーリーという人物にぴったりとはまって、ただ陰鬱なだけではない彼の魅力を作り出している。
チャーリーを献身的に介護するリズは、アランの妹だ。親友とはいえ何故彼女がここまで彼に深く関わるのか、だんだんとその理由が見えてくる。親もカルト宗派ニューライフの関係者だったリズにとってチャーリーは、兄を亡くした悲しみを共有出来る唯一の相手だった。リズはチャーリーといることで、アランが生きていた証を感じられたのだろう。ある意味チャーリーは、その存在によってリズを救っていたとも言える。
ニューライフの宣教師トーマスは、訪問による布教を禁じられ、誰かを救っている実感を求めてチャーリーの家にやってきた。その実感により、トーマス自身が救われるからだ。あなたを救いたいと宣言してはいるが、実態はエゴでしかない。結果的に彼はチャーリーやリズを救うどころか、彼らの心の傷をえぐることになった。
一方エリーは、終始周囲に怒りをぶつけ続けるが、結果としてトーマスが地元に戻るきっかけを作り、チャーリーの最期に立ち会って彼の望みを叶えた。彼女の言動は時に鋭利な刃物のようだが、本音のみでおためごかしがない。文章作法においても率直な表現を好むチャーリーの目に、それは彼女の美徳として映った。母のメアリーが悪魔だと吐き捨てた彼女を、傷つけられても受け止め続けることで、チャーリーもまたエリーを救った。
トーマスとエリーの姿を見ながら、人が何によって救われるかを第三者が理解することは時に難しく、救おうとする意思は少しひとりよがりになれば簡単に傲慢さに変わるものなのだと思った。カルトはその傲慢さの象徴で、その対極にあるのがチャーリーにとってのエリーなのだろう。
彼らに元妻のメアリーを加えた、不完全で不器用な人間たち5人の感情のアンサンブルが、ラストぎりぎりまで静かに加速してゆく。ブレンダン・フレイザーをはじめとした俳優陣の、真に迫る演技が素晴らしい。
人の在り方を単純化も美化もせず、複雑で多面的なまま描き出す脚本が秀逸。チャーリーが死の間際に娘と心を通じ合うラストなどは、凡百の映画なら平気でありきたりなお涙頂戴描写をして終わらせるところだが(お約束通りだからよい、という場合もあるにはあるが)、本作は決してその轍を踏まない。
あふれる光の中で、エリーの表情が初めて柔らかくなる。その一瞬のうちに、それまでの反抗的な態度の奥にあった父に捨てられた悲しみ、その悲しみの根元にずっとあった父への思慕までもがはっきりと見える。チャーリーにもそれは確かに伝わった。
本作のオリジナルは舞台劇だそうだが、映画ならではのこのラストが舞台ではどう表現されているのか興味が湧いた。
罪と罰と贖罪と救済‼️
ちょっと難解なイメージのあるダーレン・アロノフスキー監督作にしては、大変わかりやすい罪と罰と贖罪と救済の物語‼️妻子を捨て、ボーイフレンドのアランとの生活を選んだチャーリー。しかしアランは亡くなり、そのショックで過食と引きこもりで健康を損ない、体重は272キロへ。自身の死期が近いことを知ったチャーリーは、死ぬ前に娘エリーと和解しようとするが・・・‼️妻と娘を捨て、愛する人は亡くなり、健康を損ね、娘と和解、思い残す事なく昇天‼️自らの全てをさらけ出し、娘のもとへ一歩、また一歩と一生懸命歩くチャーリー‼️そして光に包まれて昇天していく姿はなかなか感動的‼️やはりブレンダン・フレイザーの狂気がかった演技は素晴らしいの一言‼️そして容赦なく父親をなじるエリーとチャーリーの関係を、「白鯨」のエイハブ船長とモビーディックに例えた着眼も素晴らしい‼️そして宣教師の若者の罪と罰と贖罪と救済の物語でもあります‼️人は誰でも罪を犯し、罰を受け、償い、許しを得る‼️ちょっと宗教的ではありますが、考えさせられるテーマですよね‼️
もう食べないで
まさに、体張ってオスカー受賞。
ブレンダン・フレイザーの演技すごい。
リズ役のホン・チャウもよかったな。
でもなんだか、つらい映画。。
誰かをものすごく愛することは素敵なことなんだけど
白鯨の感想文を書いたの恋人だと思ってたよ。
まさか娘だったとは。。
天才か。
ここはめっちゃ泣いた
過ちと救い
ちょっと難しい映画なのかもしれませんね、これ。私も拾いきれてないですが、凄く良かったです。
ブレンダン・フレイザー。誰?と思ったらハムナプトラの人だったんですね!(映画に疎くて本当にすみません…)本作でアカデミー主演男優賞を獲得した彼も他の役者さんも、全員が素晴らしかった!セリフ一つ一つの重みを感じながら、迫真の演技に目が離せませんでした。
それにしてもこの主人公、チャーリーを取り巻く憎しみや嫌悪感には、若干吐き気すら覚えるほどおぞましいものがあります。自身の行動が招いた結果だとしても、観てて辛くなります。かと言ってチャーリーに感情移入出来るかと言われると…うーん。どうやらこの映画、そういう見せ方はしていないのかも。あえて主人公を観客から突き放しているようにも思えます。
宣教師が現れ「救済」を訴えますが、これをチャーリーは拒みます。この「救済」を拒むチャーリーの姿勢は一貫しており、それは病院へ行かないことも同様で耳を貸しません。自身が救済に値しない人間であることを自覚しているかの様な振る舞い。娘に渡すお金を貯めるためでもあるのでしょうが、私はそれ以上の意味を感じました。
人生でたった一つだけ正しいことをしたと信じたい。しかし、その願いすら叶わないとしたらどれほどの絶望でしょうか。徐々に彼の精神は崩壊していきますが、最後の最後で救われるのです。
最後のシーンは本当に素晴らしいです!今まで暗く重苦しかった部屋に光が差し込み、エリーがエッセイを読み、歩けなかったチャーリーが歩き出し、エリーが一瞬だけ見せた笑顔を見て昇天するチャーリー…この一連の流れ。お見事としか言いようがありません。
さて、エリーのエッセイの題材は「白鯨」ですが、私は「鯨すげー船長すげー」くらいしか覚えてません(笑)なのでチャーリーに「白鯨」を投影しているのか?チャーリーとの共通点は?などはよくわかりませんでした。
暗い部屋での対話がメインの映画ですが、素晴らしい演技に引き込まれました。「白鯨」を読んで人生を考えることはありませんでしたが(笑)この作品には考えさせられました。
神とは?
偽宣教師としてやってきた彼、原作ではニューライフではなくモルモン教だとのことですが、宗教の果たす役割や必然性も考えさせられる作品でした。
世界で一般的に言うところの宗教は、日本人には馴染みのないものなので、ストンと理解はできないですが、もし正しい宗教があるとしても、それを信じ広める人の言動、捉え方、欲望や時代に依って、いくらでも変貌していくものなのでしょうね。
過ちや嘘だらけの人生。残酷で不確かなものだらけの世の中です。だからこそ「絶対だ」と確信できる神仏を信じ、すがるのでしょうか。
自分自身の人生を振り返ってみると、主人公と同じように「人生でたった一つだけ正しいことをした」と言えるものを心の何処かで欲している気がします。それによって安心したい、穏やかになりたい、安らかに死んでいきたいと……。
これが脚本家の体験を元にした作品だと知った時は、驚きとともに妙に納得した部分もあります。脚本家は、主人公と違って過食症を乗り越えたと知って安心しました。
宣教師が神に導かれてやってきたのと同様、ブレンダン・フレイザーが主役として抜擢されたのも、神に導かれたのかも知れません。主役を誰にするか悩みに悩んだそうですし、彼がこの役のおかげで役者として復活できたそうですしね。
色んな意味でこれがアカデミー賞を取ったのは良かったです。取れるだけの素晴らしい演技でもありました。4時間もかけての特殊メイクや重たい肥満スーツの着用だけでも大変ですが、あのまま歩き、シャワーを浴び、物を拾い、演技する。想像を絶します。ぎっくり腰になって観た作品なので余計にその辛さが伝わってきました。
同じ監督の作品「レスラー」も是非観たくなりました。
なんとも言えない終わり方
一言でいうと巨体のおとこの死ぬまでの1週間の映画だ。
まず,舞台は主人公の男の部屋のみ。
登場人物も,ごく少ない人数に絞られている。
正直,ここまで太る理由が,恋人の死だけだと言うのもあまり納得できない。彼が原因の一つならまだわかるが、そういう話ではなかったと思う。
恋人が死んでからは、捨てた娘のために貯金して医者に行くことも拒否したと言うけれど、娘や元妻が望んでいたことはなんだったのだろう。そういう相手の思いがあまり表現されてない。
娘が恨み事を言うためか,彼の元に通ってくる。
その噛み合わない会話も痛々しい。
結局落第しちゃったのかな。
最後に,タイトルのクジラの如く,苦しみに耐えながら立ち上がり,娘のところに歩いてくる。この役者の演技は,迫力と悲壮感に溢れていて圧倒されたが、ストーリー的にはあまり入り込めなかった。
絶対に誰からも愛されず突き放され味方もいない彼、だからそれを理解したいんだな!
これ程までにどうにも成んない 無限の馬鹿野郎はいないな。
兎に角 今すぐ病院へ行け!!!
オレがダチなら真っ先にそう進言するよ。
血圧上240、心不全の症状が悪化で今週にも死ぬだろうと言われ
続ける主人公の チャ-リ-。
この巨漢男の過去と、娘エリー、友人リズ、元妻メアリ-
そして偶然訪問の宣教師ト-マス。
彼等が織りなす 彼チャ-リ-との繋がりの中でみる
自分の人生の岐路と彼の生き様、情けなさ。
どうにか出来るのに どうにも成らない。
人は分かっていて何故しないのか・・・
そんな映画『ザ・ホエール』を観た。
彼の本当の心の思い信念を感じて観てやって
欲しいんだな。そう思う。
理解が難しいけど 死にたい訳では無いと感じる。
心の何処かでは 何とか成りたいと思っているんだよね。きっと。
それが人って言う者だと思う。
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素直に思った事。(病にて我ながら文脈構成が破綻ですわぃ)
・A24作品なんだが、今作もポリコレが主で 彼らはどうしても
アカデミ-賞が欲しかったんだと思われる。
主がアジア人で無いだけで、人種扱ってたら的を射抜いてたと思う。
これはどれも設定に仕掛けし過ぎ感あるね。
・ブレンダフレイザ-はマジで良かった。
良くやったと思うわ。流石の最優秀主演男優賞ですよ。
体形を元に戻せたらいいのだけども。
次はガリガリやって欲しい。ジョン・タトゥーロの様にね。
・この映画は男女で見方が大きく変わると思う。
女性には受けないでしょうね。男性は理解できると思うけど。
特に ネット授業の最後にカメラONで皆に姿を晒して
生徒皆の絶句な驚きの表情とか。
ピザ屋の配達若者とドア越しに会話してて
良い雰囲気だったのに、最後にピザ取りに姿現したのを
配達人に見られて 相手が驚きの表情をする所、そして彼の落胆。
ここの心理描写が 凄く上手い。メチャ分かるわ。
人の希望・期待に応えられてない時の受ける心理、思いが
なるほどね~と頷ける。
女性は第一に外見(見栄え)で人を見るので理解難かもしれない。
・大事にしたい一人娘が Z世代的でアフォ。
もうちょっと可愛かったら良いのだが 好かれないタイプ。
そこは主の娘らしいと思うね。
見ててイライラするかもだが、何度も家に来る辺り
父に対して気に掛けているのか。金の為なのか。
・妻と娘と、元の彼氏の妹(介護師)と、金盗んだ訳アリ宣教師
妙な取り合わせ。ピザ屋の配達人と、ネット受講者生徒達。
彼に対して 生きるという行動を示せたものは誰であったか。
何故 病院に絶対行かず死を待つのか。一人娘には心底愛されたいのに。
そこが本当に理解が出来づらい。
・彼はこんな自分に心の底から本気で向き合ってくれる人物を
ずっと探していたんだと思うね。死ぬまでに。
自殺はしないけど病院にも行かず・・・時間の制約を設けている。
やはり心は凄く病んでると思う。
・白いクジラは海の中では自由の象徴なのだろう。
誰からも一目あり どこかで人間に愛されている。
きっとそれと同じ夢を見ていたんだと・・・思うね。
外の世界に触れる(家から外へ出るとき)
彼は その時が自分の最後だと悟っていたんだね。
それを見届ける 娘のエリ-。
最後に彼を パパと呼ぶ・・・
これこそが、そして彼女へ自信をもって生きて行って
欲しい願いが 彼の最後の望み。
ラストは、
最後に娘が ドア越しに振り向き
白鯨の一説を話す~
その時 彼があの世へ飛び立つ
絶句と 見事なメロディが心の奥底に一緒に舞い上がり
何事にも変えようが無い無限の開放感に心が浸る。
それは感じたことの無い秀逸さに触れた瞬間だった。
これにより映画は 閉じられる~
感心のある方は
劇場へどうぞ!
常に登場人物の心理を想像させる脚本は、ノミネートされるべき!
A24作品で何度も目を潤ませられるとは。 久々に主人公に感情移入出来、心の針が振れた・・。
今作は冒頭、訪問者が道を歩くシーン以外は全て、主人公の家でのシーン。(ドア外の廊下を含む) 室内劇だが、それ感じさせない。
かといって主人公の "醜い体" 以外は特別変わった物も描写されていない。
なのに2時間をずっと引き込む。
それは、わずかな物語の進展以上に、登場人物の心の動きをずっと魅せているから。
主人公チャーリーは、過去を悔いているのか・・自身に絶望しているのか・・ 今の彼を支えている唯一の物は何なのか・・。
そして彼を度々訪問し支えるリズは、どうしてこれほど親身になって彼をケアするのか・・。
娘はどうしてあれほど傲慢な態度で相手を見下し、父にさえ「 You're disgusting! 」と言えるのか・・。
(字幕は ”おぞましい” と見た目にも含みを持たせているが、本来は、あんた最低! おまえはむかつく! という様な言葉)
等々、常に登場人物の心の動きを、見る物に想像させている。
さらには、PC画面の文字を追わせたり、一部屋だけ綺麗に整った部屋を描写したり、「白鯨」の一節はなにを意味するか、そしてTVではアメリカ共和党の支持率情報が流れている(共和党=トランプさん側は福音派信者も多く、聖書を重んじる方が多い)等、見る物の脳を適度に動かす機会を与え続けている。
私は今作が男優賞と共に、「脚本賞」も受賞すべきぐらいに感じた。
この年、脚本賞ノミネートは「イニシェリン島の精霊」
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」「フェイブルマンズ」「TAR/ター」「逆転のトライアングル」,で「逆転・・」以外は全て視聴したが、今作の脚本が一番秀逸に感じ、強く引き込まれた。
ノミネートさえされなかったのは、おかしいと感じる。
キャスティンも素晴らしく、少ない登場人物だが、全ての役がドンズバ人選で、抜群の表現力を発揮して、誰も役を演じている様には微塵も感じさせない。
特殊メイクの上からでも繊細に表現した、ブレンダンはもちろん、リズ役のホン・チャウも、まるで肉親と接するような親身な演技に何度も目に留まった。
「SHE SAID」で私が称賛した、母親役サマンサ・モートンも少ない出演時間で十分な存在感を発揮している。
↓ネタバレ含む
今作、一番目頭が熱くなったのは、チャーリーの、
「僕は人生でたった一つ、正しいことをしたと!」の台詞シーン。
もう、チャーリーは自分自身の存在とその命にも未練の欠片もない。
ただ、娘に一財産を残すことが、自身の命より優先事項で、唯一彼が出来ることで、唯一の望みなのだ・・。
その為には、自身の治療費でそれを僅かでも減少する事は許されない・・。
そしてラスト・・。
再びエッセイを読んでくれた娘に、以前出来なかった事を実行する・。
立って・・そして一歩二歩と踏み出す・・。
唯一部屋でないシーン、海辺の回想が脳裏をよぎる。
そして、言葉にならない声と共に、中に浮く足元。
それは "絶命" でななく、"天に召された"こと意味する。
端的だが、なんと深い余韻を残すエンディング・・。
倒れ込んでは、悲愁が増すだけだが、あの描写により、
チャーリーは一つの思いを成し遂げた事になる・・。
PS (アカデミー賞授賞式にて)
男優賞で名前を発表された瞬間、ブレンダンは本当に驚いたようで、興奮気味にステージに上がって行った。
そして、目を真っ赤に充血しながら涙を貯め、スランプだった事から本作の依頼が有り難かった事や、共演のホン・チャウの素晴らしさに助けられた事等を語っていた。
(彼の姿はハムナプトラ出演時の"華"はなかったが、その大きな目で飾らぬ言葉に、"正直な人"という印象で、だから ホエールを見事に演じられたのかと・・。)
ザ・ホエール
I want to be honest
『鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。』そして『少しだけ』と言って『この本は私の人生を考えさせ、良かったと思う』
後は、、、
失われぬ再起と救いの光
まずはブレンダン・フレイザー、おめでとう!
『ジャングル・ジョージ』『悪いことしましョ!』などのコメディ演技、代表作である『ハムナプトラ』シリーズや『センター・オブ・ジ・アース』などでタフなアクション・スターのイメージ強く、『ゴッド・アンド・モンスター』『愛の落日』『クラッシュ』などシリアス演技も見せていたものの、まさか彼がオスカー俳優になろうとは…!
売れっ子人気スターだったが、いつしか見なくなり、売れなくなったのかなと思っていたら、そんな事があったなんて…! まさしく今国内のワイドショーを騒がしている事件の加害者と同じではないか…!
その被害自体にも周囲の冷ややかな反応にもショックを受け、嫌になり、一時期ハリウッドを遠退いたというブレンダン。が、やがて#MeToo運動があって彼の受けた被害も見直され、ハリウッドで再スタートを。
ブレンダンのこれまでの苦難への謝罪と本人自身の勇気を示すかのような、華々しいカムバックとなった。
オスカー受賞はその事も加味されてもあるが、それを差し引いても大イメチェンとインパクトと心身共に難しかったであろう熱演は、圧巻の一言に尽きる。
体重272kgの超肥満体の男。ある理由から引きこもり、過食症となったチャーリー。
ブレンダンの主演男優賞と共にオスカーでヘア&メイク賞も受賞。ブレンダンを巨漢の別人に変貌させた特殊メイクとボディスーツも、肉感から体臭まで伝わってきそうなほどの素晴らしさ。
職業は教師で、オンラインで教えている。ハーマン・メルヴィル著『白鯨』をよく引き合いに。この『白鯨』もモチーフの一つ。
博識深いが、カメラはオフで自分の姿は映さず。性格も決して悪い人ではない。が、何処か憐れで、惨めで、弱く、卑屈で醜い部分もさらけ出す。初登場シーンはその見た目もさることながら、いきなりオ○ニー…!
全身全霊たっぷり体現したブレンダンの熱演は、衝撃と共に引き込まれる。
日常生活も自力では何も出来ない。歩く時は歩行器を使い、落としたリモコンさえ拾えない。
そんな体型故、身体の健康状態は深刻。さらに悪化。
なのに、病院に行く事を頑なに拒否。
自分でも悟っている。余命僅か。それも半年とか数ヶ月ではない。おそらく、後この一週間…。
自分の死期を受け入れ、迫り、それでも男が最期の最期に求めたものは…。
主人公がほとんど身動き出来ない為、彼の自宅ワン・シチュエーションで話が展開していく。
彼と、関わる人物が4人。(つまり、メインキャストもほぼ5人)
看護師のリズ。チャーリーの数少ない友人の一人。
ズケズケ物を言い、サバサバした性格ではあるが、チャーリーの身体を擽って笑わせたりと、チャーリーの体型への偏見は一切ナシ。身の回りの世話から心身共に、チャーリーを支えている。
ホン・チャウが名助演。
たまたまチャーリーの自宅を訪ねた宣教師の青年、トーマス。
以来、幾度か訪ねるようになる。
チャーリーに対し、布教を説くが…。
演じたタイ・シンプキンス、『アイアンマン3』に登場したあの少年だとか…!(『アベンジャーズ/エンドゲーム』のラストシーンで彼は誰!?…なんて言われてたっけ)
チャーリーの元に、思わぬ訪問者。
娘、エリー。
8年ぶりの再会。長らく疎遠。
死期が近い父に会いに来た…? 否。疎遠になった理由は父チャーリーにあり。
父を酷く嫌悪している。見た目を侮蔑したり、罵ったり、ここまで歩いてよと無理を強いる。
チャーリーはそんな娘に貯金を譲るという。エリーはただただそれが目的で父の元を訪ねるようになり…。
新星セイディー・シンクも非常に大きな役回りで、鮮烈さを見せる。
終盤のみの登場だが、チャーリーの元妻役で、サマンサ・モートン。
チャーリーと4人の関係が、物語の展開とチャーリーの行く末に大きく影響及ぼしていく…。
チャーリーに献身的なリズ。
チャーリーには最愛の人がいて、亡くしたばかり。引きこもりと過食症になったのもその悲しみから…。
リズは妹。姉…ではなく、兄はチャーリーと恋人同士だったのだ。
リズはトーマスの事をよく思っていない。その理由もここから。
リズの父は教会の人間。同性愛者の兄に、父や教会は酷い仕打ちをし、兄は自殺した。
リズは兄を慕っていた為、兄を死に追いやった宗教そのものを嫌っていた。奇しくもトーマスは、その教団信者…。
何もトーマスに罪はないが、それでもやはり許せない。今また、その宗教がチャーリーを翻弄しようとしている…。
亡き兄に一時でも幸せをくれたのが、チャーリーであった。それはチャーリーも同じ。
リズが同性愛者で肥満体のチャーリーに偏見がないのもこれが理由だろう。リズはチャーリーの悪い部分も良い部分も知っている。
リズの亡き兄へのチャーリーの想いは一途で美しいもの。
が、それを許せないのが、エリー。
父が男に走った為、母も私も捨てられた。
その後のエリーらの苦労はお察しする。世間皆が全員、決して同情的ではない。父親が娘より男を選んだ…そう嘲笑する者も少なくはないだろう。
エリーの性格が所謂“問題児”になったのもこれが理由だろう。
しかし、チャーリーは信じている。娘は本当は善良な子。
死期迫るチャーリーの望み。娘への贖罪…。
が、エリーの父への憎悪は冷めない。
母でさえをエリーを“邪悪な子”と。
父に睡眠薬を飲ませる。悪行はトーマスにも。大麻を吸い、トーマスにも吸わせる。
トーマスから真実を引き出す。実はトーマスは偽の宣教師。
その告白を録音し、写真と共にSNSにアップ。
人一人の人生をメチャクチャに…。
そうはならなかった。思わぬ“奇跡”が起きた。
SNSにアップされた事で、トーマスは疎遠だった家族と連絡が取れる。
赦し、また家族の元に受け入れられた。
自分を救ってくれたのだ。
娘は、人一人の人生を救った。
それは思わぬ事であっても、やはり娘は邪悪な子などではない。
ダーレン・アロノフスキー監督作故、ハートフルな感動作にはならない。
最後の最後まで、修羅場のような緊張感続く。
チャーリーとの出会いは神の導き。神の教えを説くトーマス。
チャーリーとの出会いで恋人の彼は救われた。が、それ故彼は死んだ。
同性愛は罪。その辛辣さにチャーリーは悲しみと憤りを隠せない。
常連のピザの配達人。気さくに話しかけてくれ、いつもドア越しのやり取りだったが、ある時姿を見られ、偏見の目…。暴食に走るチャーリー。
嘘や隠し事で、リズや元妻と口論。
チャーリーはオンラインのカメラをオンにし、自分の姿を見せる。その上で言う。思った事を正直に書け。
畳み掛けるように一気に身に降りかかった事態と共に、何もかもさらけ出す。
まるで、もう自分の命の灯火が尽きようとしている事が分かっているかのように…。
全てを、正直に。
エリーとの対峙。おそらく、これが最期となるだろう。
チャーリーは娘に赦しを乞う。無論、エリーは…。
その時、あるものがエリーを引き留める。かつてエリーが書いた『白鯨』のエッセイ。
名文学をただ誉めるのではなく、思った事を正直に。
その文才を評価するチャーリー。
人生の最期でチャーリーが望んだのは、娘からの赦しではなかったのかもしれない。
自分は娘に対して酷い事をした。恨まれるのも赦されないのも当然。
娘を信じ、気付かせたかったのだ。
善良な子。優れた子。正直な子。
そしてチャーリーもやっと救われた。
あの白い光はきっとそうなのだろうけど、救いと深い感動に包まれて…。
『レクイエム・フォー・ドリーム』『ブラック・スワン』のようなダークな人間ドラマ、『レスラー』のような一人の男の姿、『ノア』のような宗教観…。
いつも一筋縄ではいかないダーレン・アロノフスキー監督作だが、印象に残る。本作も例外に漏れず。
でもやはり、ブレンダンのカムバックが素直に嬉しい。
インディも最後の冒険に出たように、リック・オコーネルの久しぶりの新たな冒険も見たい。
誰かさっさと主人公を病院に連れてけ
終始思った感想は、この太ってるのはもちろん特殊メイクだよな?という事と、グダグダ言ってないでさっさと誰か病院に連れてけ!でした。
本人が病院に行くのを頑なに拒んでたが命を失ってからでは遅いだろ。お金など後からどうとでもなるのに。
これが身近な家族や愛する人が同じ状況ならとっくの昔に救急車を呼んでいる。
周りがそうしないということは何だかんだでそこまで人に愛されてない寂しい人間だったという事なのかもしれない。
元愛人の妹もやってることが中途半端である。
てか渦中にいる時は家族と子供を捨てて自分一人楽しんでたくせに、恋人を失ってからやたら娘に罪の意識を向けて償ってもらおうとしてもみっともない。人を救うのではなく償いをする事で救われたいのは己の方だったのだろう。
過食に走るのも人として見てて情けない。よくあそこまで太れたものだ。普通は途中でヤバいと気づき引き返しそうだが。
主人公の顔がすごい見覚えがあって最後まで分からなかったが調べたらハムナプトラの人でした。
咳の演技がめちゃくちゃ上手かった。あんな風に出そうと思っても普通の人はなかなか出来ないと思う。
全体的になんかもうちょいひねりと、なんで妻と娘がいたのに(また?なのか急になのか)男に走ったのか?とかゲイの愛人との過去のくだりも欲しかった。
そして宣教師の少年の正体が娘によって暴かれた時に、
(おっ、面白い展開きたか?!)と思ったが、たいして何か事件を起こすわけでもなくそのままの流れで終わってガックリ。
ピザ屋の人も初めて顔を見た瞬間に慌てて逃げてたからてっきりここで救急車が呼ばれる展開かと思ったら、単に気持ち悪がってただけかーい。
最後の最後で、あんだけ邪悪な反抗期の娘がやっぱり根はいい子で、そのシーンはとてもよかった。救われた。
アンネフランクの日記のシーンでもある
“In spite of everything... I still believe that people are really good at heart.”
というセリフをここで思い出しました。
人間は本来悪でもあり、善でもあり、、奥が深いですね。
冒頭の伏線がラストに輝く
・エッセイのオンライン講師っていうのが、まず珍しくて興味深かった。その状態で添削の一つと思ってた白鯨のエッセイがラストで娘のエッセイで最高のエッセイだから読んでくれと死にそうな冒頭で宗教の勧誘の青年に読んでもらい、ラストで死ぬ間際で娘本人に読んでもらうシーンがぐっと来た。そこで歩けないはずの彼が歩き出して希望?の明るい世界に昇華していくのが、なんとも言えなかった。
・色々と驚かされる経歴で面白かった。8歳の娘がいる状態で恋人の男性と同居?し始めて離婚していて、それから動けないほどの肥満になっていたり、部屋が二階にあったり。
・死ぬ事がわかって死ぬ前にやり残したことをしなければならないという気持ちになってようやく娘に連絡をしたり、
・ピザ屋の人が姿をみてうわ…何あれみたいなリアクションからやけになって講師を辞めた際に思った事を正直に語るんだ!みたいなことを打っていた。登場時、誰も思っていた事を語っていなかった。徐々にぽつりぽつり、と相手の反応を探りながらしゃべっていたように感じた。正直に思った事を語るという事は恐ろしいと改めて思った。それが受け入れられると信じていても、どう転ぶかはわからない。たいていが冷淡な反応だったという経験が、語るのを諦めるんじゃないか。
・死ぬ事がわかってようやく、後悔と向き合うのが、何かリアルだった。
・ポジティブな性格だからか、皆彼の事が好きなようで羨ましかった。
白鯨のいた部屋
45kgの特殊スーツを着て,体重272kgの男性を演じたブレイダン・フレイザーの姿が頭から離れない。妻と娘を捨て,同性のパートナーを選んだチャーリー(ブレイダン・フレイザー)は,彼を失ったことで塞ぎこみ,歩くこともできないほど過食症になってしまう。高カロリーの食物が散らかる部屋は脂っぽく,画面越しに見ていても胃もたれしそうだ。自重を支えられず歩けない彼は部屋から一歩も外に出ないため,カメラはほとんど「外」を映さない。サム・D・ハンターの舞台劇が原作であるゆえんである。亡くなってしまったボーイフレンドの妹であり看護師でもあるリズ(ホン・チャウ)が,頻繁に部屋を訪れ,チャーリーの看護を行っている。やがて,娘であるエリー(セイディー・シンク)がチャーリーの部屋を訪れるようになり,大学非常勤講師という顔を持つ彼が,彼女の「エッセイ」を指導するようになるという筋書きだ。タイトルが示唆しているようにハーマン・メルヴィルの『白鯨』(1851)がレファレンスになっていて,作品内には登場人物や文章表現が数多く引用される。確認しておくと,『白鯨』はモビー・ディックという白いマッコウクジラに足を喰われたエイハブ船長の復讐の物語である。エイハブ船長の「義足」は,本作においてチャーリーの体重を支える介護用具,車椅子として登場する。ではチャーリーがエイハブ船長かというとそうも言い切れない。彼はチャーリーはエイハブ船長であるのと同時に「クジラ」としても描かれているからだ(それは光に満ち溢れるラストシーンを見てもらえればわかる)。彼は足を失った「エイハブ」であるのと同時に,(家族から)復讐される宿命を背負った「モビー・ディック」なのである。その両義性と葛藤が彼の人間らしさに命を吹き込み,物語に奥行きを与えている。キリスト教的世界観に限らず,人は誰もが罪を背負い,救済を求める。そして人生において「正しいこと」をしたいと願う。映画館とはいえ,スタンダードサイズの画面は狭い。その中に閉じ込められた観客は呼吸すら苦しく感じるだろう。しかし,その窮屈な部屋の中で人生の最後に「正しいこと」をしようとした男が救われたと信じたい。
赦しを乞う男
ブレンダン・フレイザーの演技は、怪演とか名演技・・・
という表現の先。
別次元の凄みがありました。
アカデミー賞主演男優賞にこれほど納得したことはありません。
自室から離れることも、階下の一階へ下りることも、
自由に歩くこともままならない鯨のように肥満した男。
ぶよぶよ肥満した見た目とは真逆の頭脳明晰にして知的な男チャーリー。
そもそも彼が肥大化した原因は、同性の恋人の死にある。
その男性アランの死因が宗教にあった。
チャーリーの友達で看護師でアランの妹でもあるリズ。
この辺り宗教に無知な私には理解できないのですが、
その「ニューライト」という宗派は、この世の終末論と
その結果にキリストが再臨する・・・
と説く新興のカルト的キリスト教の宗派。
同性のチャーリーを愛したアランの心はそのカルトに癌ように
蝕まれて遂には身体中に癌が回って死んでしまった・・・とリズは言う。
そしてチャーリーはアランの喪失を埋めるために過食に走って、
今は殆ど身動きが取れないのだ。
私はチャーリーの死生観にある意味で共感した。
彼は肥満による鬱血性心不全で余命は4〜5日と思われるのだが、
頑なに治療を拒否している。
救急車を呼んで治療・手術などしたら何万ドルもかかる。
チャーリーは15万ドル位を元妻に預けている。
その金は娘のエリーに残したいのだ。
そのお金を自分の死期を延ばすために消費したくないのだ。
この考えには私も賛成する。
どうせ死ぬなら治療費はドブに捨てるようなもの。
家族に残すかはともかく、もっと有意義に使ってほしい。
この映画は元々は舞台劇を映画化したものだそうです。
成る程、場面はチャーリーの部屋が殆どです。
スタンダードサイズの窮屈な画面。
とても暗い。
多分チャーリーは醜悪な自分を見たくないのだ。
共演者はチャーリーの部屋のドアを開けて登場する。
「ギルバート・グレープ」にも過食で200キロ以上に太った母親がいて、
ギルバートの母親も夫の自殺のショックから過食を始めたのだ。
ラストでギルバートは死んだ母親を家と遺体と丸ごと焼き払ってしまう。
ダーレン・アロノフスキー監督の名作「レスラー」でも、主人公は、
レスラーでステロイド剤の多飲で心臓発作に見舞われる。
彼も昔、家族を捨てた過去を持つ男。
この映画でも捨てた娘との繋がりが男を支える。
(ミッキー・ロークはこの演技でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞を受賞)
(忘れられていた老スターの再生になった)
ダーレン・アロノフスキー監督の宗教観は特殊で、過去作で物議を醸した。
「ノア約束の方舟」や、特に「マザー!」
「マザー!」は観た人にしかその特殊さは分からないが、
ユダヤ人でユダヤ教で育てられた監督は独特の宗教観を持っている。
この「ホエール」ではカルト教の架空の宗派「ニューライト」が、
大きな役割を振り当てられている。
突然チャーリーの部屋をノックして、「白鯨」について書かれたエッセイを
朗読させられる羽目になる宣教師のトーマス。
そしてやはり「ニューライト」の宣教師だった恋人のアラン。
アランは看護師のリズの兄でもある。
アランは父親に背き男性の恋人チャーリーとの肉欲に溺れたことを恥じて、
家出して何年か後に湿地で死体で発見される。
その事がチャーリーを苦しめ過食に至ったのだ。
(しかし、チャーリーは肉欲の次は、食欲・・・7つの大罪のうちの
(2つも当てはまる)
白鯨の感想エッセイにチャーリーは深く拘るには理由が2つある。
《語り手は自らの暗い物語を先送りする》
鯨に共感するのがひとつ。
もう一つはラストで分かる。
愛する娘エリーの書いたエッセイなのだ。
この一節も興味深い。
「語り手は悲しみや苦しみを《先送り》している」
出来る事なら「死」もずうっと「先送り」したいものだが・・・
チャーリーは、キチンと死と向き合い、
決着をつけて逝ったと、
私は思う。
魂の救済
終映後、久しぶりに拍手がおきました。
最後、力を振り絞り、立ち上がり、娘のもとに向かおうとする姿は、銛でつかれようとも生きようとする白鯨に重なり、それは生きながら死に向かっていること、生きている苦しみそのものを体現しているようでした。
最初は映画サイトのあらすじと若干違うことと(娘に会いには行かないこと)、入れ替わり立ち替わり様々な人物が突然登場することで入り込みづらかった部分もありました。
しかし、あ、そういえばこれはアロノフスキー監督作だったと気がついてからは、その“型”にすっと入り込むことができました。
要するに「ノア」しかり、「ブラック・スワン」しかり密室劇なんだな、と。
家族という血縁関係の複雑なパワーバランス、それを描かせたらピカイチの監督。
しかし今回は「目的」や「使命」ではなく、「救済」をテーマにしています。
登場人物は、だれも悪くない。
ただ自分の心に忠実であるがゆえに、か家族を傷つけてしまう。
それは、よくあることなのこもしれませんが、この作品は更に、愛し愛される関係の者でさえも救うことのできない絶望に一歩踏み込んでいます。
人の心は自分自身でしか救えないのかもしれませんが、最終的に赦しをえることで、救われることも事実。赦しは、与える側をも救うのかもしれません。そんなラストを、私も祈る気持ちで見つめていました。しばらくは、涙が止まりませんでした。
魂の贖罪の過程と、赦免に至るまでを丹念に描いたあまりにも美しい作品。
観てから、ああ…しまったと思ったのだが、小説の「白鯨」を読んでおくか、調べてから観ないと、中々この作品を理解する事が出来ない。死を前にした親が、一度は捨てた子にひたすら愛を伝える様は、もどかしく詮無い。それでもこの親子の一縷の光明となるのが只ひとつ、小説「白鯨」のエッセイ。観ている側はそれが何を意味するかラストまで悟らせない辺りが絶妙。小説は後調べにはなったのだが、その父娘の魂の贖罪と浄化が見事に結実するラスト。「白鯨」の中のモビーディックとエイハブ船長の関係をこの親子にオーバラップさせて、小説とは異なる崇高な結末を描き出す。
話題になったブレンダン・フレイザーのリアルな特殊メイクによる異様な肥満姿には宗教的意味合いも多分に含まれていると思われ、キリスト教で云うところの7つの大罪の成れの果てがその姿となっているのだろう。フレイザーはその特異なキャラクターを哀れになる事なく丁寧に、慈しみを持って奥行深く演じていて一等素晴らしい。オスカーも納得の名演技だ。
また、娘を演じたセイディー・シンクも、邪心と良心とが交差する、観る側をも翻弄するような複雑なキャラクターを奇をてらわずに演じていて好感。
原作が舞台劇ならではの会話劇というのも、閑静なタッチながらも映画にひり憑くようなテンションを寄与していて、時間を感じさせない。作家サミュエル・D・ハンターと演出ダーレン・アロノフスキーの丹念な仕事が見事な逸品だ。
エリーが書いたエッセイが親子を結びつけた。
ストーリーはそれほど、稀でもない。妻と娘とクリスチャンの信仰を捨て同性の恋人に走り、ガンの人生をおくって亡くなった人を知っている。それに、アイダホ州は共和党の州でこの映画でも、共和党でテッドクルズやマルコ・ルビオよりトランプ(30%)が優勢だと2016年の大統領選のための共和党予備選中だ。それにこの州には腐るほど、モルモン、アッセンブリー・オブ・ゴッドなど教会がある。友達がいるなどの理由で何度か訪れている
が、公立学校の隣に教会、特にモルモン教会があるというように政教分離がちょっと?この映画ではNewLife教会の伝道師(アイオワ州ウォーターローからのトーマス)とやらが登場している。チャーリー(ブレンダン・フレイザー)のパートナーであるアレンもNew Lifeで、私的にかなりよく状況を把握できて、なにも新鮮さを感じないがないが、チャーリーの生き方、それに、家族愛、宗教の矛盾には衝撃を受けた。それに、チャーリーの娘、エリー(セイディー・シンク)の書いた詩(脚本)で気に入ったところがいくつかある。
まず、父親チャーリーは8歳で別れた娘、エリーが8年生の時書いた作文を自分の心を落ち着けるための糧にしていたことだ。この作文を持ち続けていたということだ。中学2年生の時のこの作文の出来はいいがこれを何度も復唱するシーンが多い。心を落ち着けるだけでなく、死に瀕しているときも暗唱する。それに、父親が『好きなことをかけ、何でもいいんだよ』といわれ、書き出したエリーの詩(川柳):
This apartment smells
This notebooks retarded
I hate everyone.
父親がこの詩を詠み、8年生の時に書いた作文の中に取り入れるところがまたいいね。エリーは心の中を吐き出して言葉に表すことができる。父親がその指導を文学初級のクラスで教えている。エリーは「文学101」のクラスは(文学初級)を卒業できるねえ。エリーに対して『amazing』を連発するけど、私もそう感じたよ。
母親が、エリーは父親のことを『There'll be a grease fire in hell when he starts to burn』 というと。そして、悪魔ねと。これを聞いて父親は
『This is not evil. This is honesty!!!』と答える。
私も本当のことをうまく文学的な言葉に表せるエリーに感心したよ。
エリーは8歳まで父親といたから彼の才能や思想の影響を受けているように思える。それに、いやみたらしい現実的な母親の影響も。この元夫婦は陰陽のバランスが良かったようで、父はポシティブ、母はシニカルで、エリーはシニカルであり、正直で賢い、annoyingであり、amazing である。
正直なところ、ここに脚本家の意図が含まれていると思う。脚本家の言いたいことは『真実を正直に自分で表すことの大切さ、それが時には自分を助けたり(父親、家族と繋がり始める)関わってくる人を助けたり(トーマスを両親の元に戻らせる。アレンを助ける。リズの蟠りも消える)、または人や自分を傷つけたり(エリー自身の生き方)する。でも真実を伝えようと。綺麗事やまやかし、ここでは宗教家、宣教師であるトーマスとの対比(矛盾:ゲイを受け入れられないなら初めから綺麗事を言うな!Be honest 正直であることが大事。ゲイは受け入れられないって言え)で現れていると思う。レッド州(共和党)のこのような片田舎ではでは宗教が全てにオブラートをかけて、正直さを隠しているような気がする。(私はクリスチャンなのでこういう言い方はしたくないが、)『現実に目を逸らすな』が信条なのでこう書き留める。ステレオタイプだが、日本社会のような裏表の社会、本音建前の社会、内外の社会、では、正直者で、人助けができるエリーのような存在はどうなんだろう?
次に、最後のシーンでは「文学101」のクラスで、本人自らも学習者に正直になり、自分の心と体を見せる。彼は初めから病院に行くことなんて考えていないと思う。天国でボーイフレンドのアレンと一緒に暮らせることができるし、娘のために何か一つでもいいことをしてあげたいから。才能のある娘を彼が貯めたお金で好きな道に生かしてあげられるから。親子の結びつきがなく、父親に捨てられたと思っていた娘が、父親に書かせた作文は娘自身が8年生の時に書いたものである。それを知らなく読み始めた娘は父親の今までの気持ちを理解する。『私を愛していてくれたんだ』と。それに、自分で書けるんだということも実感する。父親自身も人には寛大でよくできるが自分には満足できなかった。でも、死ぬ一歩手前で娘が読んでくれて、最高の幸せを味わったようだ。娘のために何か一つでもいいことをしてあげたいことがお金だけじゃなく、娘への愛情も知ってもらったし、自分自身も満足できたと思う。『Daddy 』と娘は初めて父親に言った。初めて!泣けた!
蛇足:
エリーは才能がある。正直いうと脚本が優れているんだよね。脚本家が気になって調べたら、有名な人、サム・ハンターだった。2022TIFF (ティフ:トロント映画祭2022 Toronto International Film Festival on September)を聞いたら、監督はサムの誕生日にティフにこの映画を上映して欲しく頼んだと。
サムは北アイダホで生まれ育ち宗教的な環境の中でゲイで肥満であったことも自分とのコネクションがあると言っていた。
この戯曲は120席という小さな劇場で上映されていたが、そこにこの映画の監督が来ていて是非映画にさせてくれと言い出したと。初めは断ったが、何度かの監督の訪問で10年かけてこれが映画にできたと。主役だが、以前に監督の映画に出たことがある、フレイザーに声をかけたと。
フレイザーに対する観客の拍手はものすごくて圧倒された。私は監督もフレイザーも全く知らなかったけどこの映画祭の観客の喝采に驚愕。
「推敲」への幻想
◉書き直したかった男
人が存在することや、生きていくことへの大きな問いかけをチャーリー(ブレンダン・フレイザー)が発していた訳ではなかった……と思う。チャーリーの瞳があまりに深い悲しみを湛えていたから、そんな風に思ったのだが、チャーリーが見つめていたものは、妻子を見捨てた自らの罪悪の浄化。そして娘への償い。嘆き悲しむ巨体の男の魂は、次第に娘と言う小さな点に集約されていく。
同性の恋人ができて妻と娘を捨て、その恋人が死んだショックで引き込もりになって肥満からの多臓器不全になるが、娘に金を残すために治療を拒否。この迷いのない自己犠牲。息を切らせて暗い部屋を這い回るのは、とにかく死期を早めたいがための行為にしか見えない。
しかし、文章や言葉への意欲は遂に最後まで尽きることはなかった。文筆の専門家として教鞭を取っているチャーリーは、教え子たちに「推敲を重ねればエッセイは良質になっていく」と説く。それは一つの妄想がチャーリーを捉えていたからだではなかったか。既に過ぎてしまった人生であっても、自らの悔恨やあからさまな想いを素直に書き綴れば、別の人生に成り変われるかも知れないと言う幻想。
◉白い鯨と部屋の中の鯨
チャーリーが「娘のエリー(セイディー・シンク)にはエッセイを書く力がある」と称賛した、課題エッセイの文意が映画の中ではよく聞き取れず、パンフを買いました。このただのメモ書きにしか思えないようなエッセイに、チャーリーは娘とのよすがを求めていた。
エッセイは「白い鯨を殺すことがエイハブの人生のすべて。しかしその生き甲斐は悲しい。鯨には感情などないのだから。ただ大きく哀れな生き物。殺してもエイハブの人生はよくはならない。私は登場人物たちに複雑な思いを抱いた。鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。」と言った内容。
これは『白鯨』への感想を綴ったエッセイであるが、同時にこの作品が訴える暗喩が詰まっているとして……
「ただ大きく哀れな生き物」とは、娘が憎悪と侮蔑の対象にしている現在の鯨(父親)。娘にとっては、チャーリーが鯨の想いについてどれほど説明しようとしても、それは「退屈」で「うんざりした」行為だ。
チャーリーは悔恨の情いっぱいで、過去の鯨を追って仕留めようとしている。だが、殺したところで、何にもならない。「暗い物語を先送り」するように、もう考えるのは止めようと娘が呟く。
娘の思いは厳しくて、救いがなかった。突き放されるチャーリー。けれど、いじましいぐらい控え目に、繰り返し繰り返し娘への愛を差し出そうとする父の姿。
やがて推敲できなかった過去から光が射して来る。そこには妻と娘が居て、チャーリーの魂は光の中に紛れて消えていく。
ひたすらに信ずるだけの者ではなくて、悩み苦しんだ者が救われると言う、やるせ無いけれど納得のいく結末。
見ているのも辛くなるような巨漢であるのに、身体いっぱいに優しい笑みが溢れているようだったチャーリー!
◉リズも大きな安寧の海に沈む
看護師のリズ(ホン・チャウ)がしばしの眠りに就いたチャーリーを、まるでベッド代わりにして寄り添うシーン。見ていて、私もそこに倒れ込めるならそうしたいほどの、安らぎを感じてしまった。何故だったろう。辿り着く先は判っていると言う、諦念込みの安堵感だったのか。
それにしても看護師対病人の関わりを差し引いても、余りあるリズの安らぎ。リズにとってチャーリーの胸に沈むことは、つまり兄のアランとチャーリー二人が居る海に、しばし沈み込むことだったのかも知れないと思いました。
インセプション、トータル・リコール、そしてレスラー…
この映画はオープンエンドタイプの終わり方をしている(と初見時に思った)。
上記に上げた映画と同じタイプの終わり方をしている、と。
映像上から読み取れるのは、あれだけ神の存在を作中否定したにも関わらず、ただ彼の中にあるキリスト教的な記憶からなのか、宗教的サルベーション(救済)ぽい救われ方をする、というエンディングの描き方をしている。
しかし、わたしが考えるエンドは、娘がドアを開けたその瞬間にショックで彼は死んだ。その後の展開は走馬灯みたいな、自分が見たかった世界。そのため娘の態度も彼にとっては大変好ましく、そして不可能だった歩くという行為も可能に、そのうえ天国へサルベーションなど、彼に不可能なことも全てやってのける。
じゃあバッドエンドかというと違い、この物語は彼の「終活の話」で、心残りである娘への愛は伝え終わってる。あとはどう死ぬかの考え方の話になっている。
監督アロノフスキーとしては、「もしかしたら娘は立ち去ったかも、もしかしたら白鯨のエッセイを朗読してくれたかも、現実に何が起こったかはそこまで重要じゃない。自分の中でどう物語が終わったか、それが大事」という考え方を伝えたかったのだと思う(π、レスラー、ブラックスワン、マザー!から考えるに)。
そしてそれがヒューマンドラマを求めている観客にはそのままサルベーションの感動物語として受け取られ、穿った観客にはその救われ方の提示の仕方に、心を引っ張られ続ける。
そんな映画だと思った。
・補足
作中、宣教師が「肉欲に溺れたから死んだ。神を信じれば救われる(的なニュアンスの発言)」という、彼にとってこの世で最も聞かされたくなった発言をして、その上でわざわざあの天国へ向かうような描写=キリスト教的救済描写を入れた。
なんであんな描写になったのか、ってことも、彼がもっとも見たかった景色を死ぬ間際にすべて見られたからだと思う。
娘に救われる、パートナーが救いをもった場所=天国へ連れて行ってもらえる、過去にもっとも思い出深い波打ち際の景色を見ることができた、という。
これで、パートナーが天国から手を差し出す、みたいな幻を入れたら、よりフィクションとしてのこの解釈が分かりやすくなったけれど、その解釈も認めつつ、痛烈な信仰による盲目さ、みたいなものを観客の視線でも感じさせようとしたんじゃないかとも思った。
しかし実際のところ、その種明かしはオープンエンディングとしてあやふやに提示された。つまりこれらの考察も全部あやふやになった。この映画においては、それはそれで正しい解釈だと思う。
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