ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
全228件中、41~60件目を表示
日々を知らないくせにお前は美しい賢いめちゃくちゃ最高、果てにはおれ...
日々を知らないくせにお前は美しい賢いめちゃくちゃ最高、果てにはおれの最高傑作とか言われてもね…
300キロ弱を維持しようとしたら毎日ピザをホール2枚は痩せてしまうのでは?🥺
I want to be honest
『鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。』そして『少しだけ』と言って『この本は私の人生を考えさせ、良かったと思う』
後は、、、
失われぬ再起と救いの光
まずはブレンダン・フレイザー、おめでとう!
『ジャングル・ジョージ』『悪いことしましョ!』などのコメディ演技、代表作である『ハムナプトラ』シリーズや『センター・オブ・ジ・アース』などでタフなアクション・スターのイメージ強く、『ゴッド・アンド・モンスター』『愛の落日』『クラッシュ』などシリアス演技も見せていたものの、まさか彼がオスカー俳優になろうとは…!
売れっ子人気スターだったが、いつしか見なくなり、売れなくなったのかなと思っていたら、そんな事があったなんて…! まさしく今国内のワイドショーを騒がしている事件の加害者と同じではないか…!
その被害自体にも周囲の冷ややかな反応にもショックを受け、嫌になり、一時期ハリウッドを遠退いたというブレンダン。が、やがて#MeToo運動があって彼の受けた被害も見直され、ハリウッドで再スタートを。
ブレンダンのこれまでの苦難への謝罪と本人自身の勇気を示すかのような、華々しいカムバックとなった。
オスカー受賞はその事も加味されてもあるが、それを差し引いても大イメチェンとインパクトと心身共に難しかったであろう熱演は、圧巻の一言に尽きる。
体重272kgの超肥満体の男。ある理由から引きこもり、過食症となったチャーリー。
ブレンダンの主演男優賞と共にオスカーでヘア&メイク賞も受賞。ブレンダンを巨漢の別人に変貌させた特殊メイクとボディスーツも、肉感から体臭まで伝わってきそうなほどの素晴らしさ。
職業は教師で、オンラインで教えている。ハーマン・メルヴィル著『白鯨』をよく引き合いに。この『白鯨』もモチーフの一つ。
博識深いが、カメラはオフで自分の姿は映さず。性格も決して悪い人ではない。が、何処か憐れで、惨めで、弱く、卑屈で醜い部分もさらけ出す。初登場シーンはその見た目もさることながら、いきなりオ○ニー…!
全身全霊たっぷり体現したブレンダンの熱演は、衝撃と共に引き込まれる。
日常生活も自力では何も出来ない。歩く時は歩行器を使い、落としたリモコンさえ拾えない。
そんな体型故、身体の健康状態は深刻。さらに悪化。
なのに、病院に行く事を頑なに拒否。
自分でも悟っている。余命僅か。それも半年とか数ヶ月ではない。おそらく、後この一週間…。
自分の死期を受け入れ、迫り、それでも男が最期の最期に求めたものは…。
主人公がほとんど身動き出来ない為、彼の自宅ワン・シチュエーションで話が展開していく。
彼と、関わる人物が4人。(つまり、メインキャストもほぼ5人)
看護師のリズ。チャーリーの数少ない友人の一人。
ズケズケ物を言い、サバサバした性格ではあるが、チャーリーの身体を擽って笑わせたりと、チャーリーの体型への偏見は一切ナシ。身の回りの世話から心身共に、チャーリーを支えている。
ホン・チャウが名助演。
たまたまチャーリーの自宅を訪ねた宣教師の青年、トーマス。
以来、幾度か訪ねるようになる。
チャーリーに対し、布教を説くが…。
演じたタイ・シンプキンス、『アイアンマン3』に登場したあの少年だとか…!(『アベンジャーズ/エンドゲーム』のラストシーンで彼は誰!?…なんて言われてたっけ)
チャーリーの元に、思わぬ訪問者。
娘、エリー。
8年ぶりの再会。長らく疎遠。
死期が近い父に会いに来た…? 否。疎遠になった理由は父チャーリーにあり。
父を酷く嫌悪している。見た目を侮蔑したり、罵ったり、ここまで歩いてよと無理を強いる。
チャーリーはそんな娘に貯金を譲るという。エリーはただただそれが目的で父の元を訪ねるようになり…。
新星セイディー・シンクも非常に大きな役回りで、鮮烈さを見せる。
終盤のみの登場だが、チャーリーの元妻役で、サマンサ・モートン。
チャーリーと4人の関係が、物語の展開とチャーリーの行く末に大きく影響及ぼしていく…。
チャーリーに献身的なリズ。
チャーリーには最愛の人がいて、亡くしたばかり。引きこもりと過食症になったのもその悲しみから…。
リズは妹。姉…ではなく、兄はチャーリーと恋人同士だったのだ。
リズはトーマスの事をよく思っていない。その理由もここから。
リズの父は教会の人間。同性愛者の兄に、父や教会は酷い仕打ちをし、兄は自殺した。
リズは兄を慕っていた為、兄を死に追いやった宗教そのものを嫌っていた。奇しくもトーマスは、その教団信者…。
何もトーマスに罪はないが、それでもやはり許せない。今また、その宗教がチャーリーを翻弄しようとしている…。
亡き兄に一時でも幸せをくれたのが、チャーリーであった。それはチャーリーも同じ。
リズが同性愛者で肥満体のチャーリーに偏見がないのもこれが理由だろう。リズはチャーリーの悪い部分も良い部分も知っている。
リズの亡き兄へのチャーリーの想いは一途で美しいもの。
が、それを許せないのが、エリー。
父が男に走った為、母も私も捨てられた。
その後のエリーらの苦労はお察しする。世間皆が全員、決して同情的ではない。父親が娘より男を選んだ…そう嘲笑する者も少なくはないだろう。
エリーの性格が所謂“問題児”になったのもこれが理由だろう。
しかし、チャーリーは信じている。娘は本当は善良な子。
死期迫るチャーリーの望み。娘への贖罪…。
が、エリーの父への憎悪は冷めない。
母でさえをエリーを“邪悪な子”と。
父に睡眠薬を飲ませる。悪行はトーマスにも。大麻を吸い、トーマスにも吸わせる。
トーマスから真実を引き出す。実はトーマスは偽の宣教師。
その告白を録音し、写真と共にSNSにアップ。
人一人の人生をメチャクチャに…。
そうはならなかった。思わぬ“奇跡”が起きた。
SNSにアップされた事で、トーマスは疎遠だった家族と連絡が取れる。
赦し、また家族の元に受け入れられた。
自分を救ってくれたのだ。
娘は、人一人の人生を救った。
それは思わぬ事であっても、やはり娘は邪悪な子などではない。
ダーレン・アロノフスキー監督作故、ハートフルな感動作にはならない。
最後の最後まで、修羅場のような緊張感続く。
チャーリーとの出会いは神の導き。神の教えを説くトーマス。
チャーリーとの出会いで恋人の彼は救われた。が、それ故彼は死んだ。
同性愛は罪。その辛辣さにチャーリーは悲しみと憤りを隠せない。
常連のピザの配達人。気さくに話しかけてくれ、いつもドア越しのやり取りだったが、ある時姿を見られ、偏見の目…。暴食に走るチャーリー。
嘘や隠し事で、リズや元妻と口論。
チャーリーはオンラインのカメラをオンにし、自分の姿を見せる。その上で言う。思った事を正直に書け。
畳み掛けるように一気に身に降りかかった事態と共に、何もかもさらけ出す。
まるで、もう自分の命の灯火が尽きようとしている事が分かっているかのように…。
全てを、正直に。
エリーとの対峙。おそらく、これが最期となるだろう。
チャーリーは娘に赦しを乞う。無論、エリーは…。
その時、あるものがエリーを引き留める。かつてエリーが書いた『白鯨』のエッセイ。
名文学をただ誉めるのではなく、思った事を正直に。
その文才を評価するチャーリー。
人生の最期でチャーリーが望んだのは、娘からの赦しではなかったのかもしれない。
自分は娘に対して酷い事をした。恨まれるのも赦されないのも当然。
娘を信じ、気付かせたかったのだ。
善良な子。優れた子。正直な子。
そしてチャーリーもやっと救われた。
あの白い光はきっとそうなのだろうけど、救いと深い感動に包まれて…。
『レクイエム・フォー・ドリーム』『ブラック・スワン』のようなダークな人間ドラマ、『レスラー』のような一人の男の姿、『ノア』のような宗教観…。
いつも一筋縄ではいかないダーレン・アロノフスキー監督作だが、印象に残る。本作も例外に漏れず。
でもやはり、ブレンダンのカムバックが素直に嬉しい。
インディも最後の冒険に出たように、リック・オコーネルの久しぶりの新たな冒険も見たい。
誰かさっさと主人公を病院に連れてけ
終始思った感想は、この太ってるのはもちろん特殊メイクだよな?という事と、グダグダ言ってないでさっさと誰か病院に連れてけ!でした。
本人が病院に行くのを頑なに拒んでたが命を失ってからでは遅いだろ。お金など後からどうとでもなるのに。
これが身近な家族や愛する人が同じ状況ならとっくの昔に救急車を呼んでいる。
周りがそうしないということは何だかんだでそこまで人に愛されてない寂しい人間だったという事なのかもしれない。
元愛人の妹もやってることが中途半端である。
てか渦中にいる時は家族と子供を捨てて自分一人楽しんでたくせに、恋人を失ってからやたら娘に罪の意識を向けて償ってもらおうとしてもみっともない。人を救うのではなく償いをする事で救われたいのは己の方だったのだろう。
過食に走るのも人として見てて情けない。よくあそこまで太れたものだ。普通は途中でヤバいと気づき引き返しそうだが。
主人公の顔がすごい見覚えがあって最後まで分からなかったが調べたらハムナプトラの人でした。
咳の演技がめちゃくちゃ上手かった。あんな風に出そうと思っても普通の人はなかなか出来ないと思う。
全体的になんかもうちょいひねりと、なんで妻と娘がいたのに(また?なのか急になのか)男に走ったのか?とかゲイの愛人との過去のくだりも欲しかった。
そして宣教師の少年の正体が娘によって暴かれた時に、
(おっ、面白い展開きたか?!)と思ったが、たいして何か事件を起こすわけでもなくそのままの流れで終わってガックリ。
ピザ屋の人も初めて顔を見た瞬間に慌てて逃げてたからてっきりここで救急車が呼ばれる展開かと思ったら、単に気持ち悪がってただけかーい。
最後の最後で、あんだけ邪悪な反抗期の娘がやっぱり根はいい子で、そのシーンはとてもよかった。救われた。
アンネフランクの日記のシーンでもある
“In spite of everything... I still believe that people are really good at heart.”
というセリフをここで思い出しました。
人間は本来悪でもあり、善でもあり、、奥が深いですね。
冒頭の伏線がラストに輝く
・エッセイのオンライン講師っていうのが、まず珍しくて興味深かった。その状態で添削の一つと思ってた白鯨のエッセイがラストで娘のエッセイで最高のエッセイだから読んでくれと死にそうな冒頭で宗教の勧誘の青年に読んでもらい、ラストで死ぬ間際で娘本人に読んでもらうシーンがぐっと来た。そこで歩けないはずの彼が歩き出して希望?の明るい世界に昇華していくのが、なんとも言えなかった。
・色々と驚かされる経歴で面白かった。8歳の娘がいる状態で恋人の男性と同居?し始めて離婚していて、それから動けないほどの肥満になっていたり、部屋が二階にあったり。
・死ぬ事がわかって死ぬ前にやり残したことをしなければならないという気持ちになってようやく娘に連絡をしたり、
・ピザ屋の人が姿をみてうわ…何あれみたいなリアクションからやけになって講師を辞めた際に思った事を正直に語るんだ!みたいなことを打っていた。登場時、誰も思っていた事を語っていなかった。徐々にぽつりぽつり、と相手の反応を探りながらしゃべっていたように感じた。正直に思った事を語るという事は恐ろしいと改めて思った。それが受け入れられると信じていても、どう転ぶかはわからない。たいていが冷淡な反応だったという経験が、語るのを諦めるんじゃないか。
・死ぬ事がわかってようやく、後悔と向き合うのが、何かリアルだった。
・ポジティブな性格だからか、皆彼の事が好きなようで羨ましかった。
涙が止まらない感動作😭💗
池袋・新文芸坐にて鑑賞。
(リニューアル後初めての新文芸坐)
予告編は見ていたが、序盤は、やはりブレンダン・フレイザーの極度の肥満に圧倒されつつ、彼の娘への愛情あふれる姿に、感動の涙が止まらなかった😭💗
チャーリー(ブレンダン・フレイザー)は恋人アランを亡くしたショックで極度の過食症となったことから、身体的にも超肥満となり、食事がつかえたり喘鳴も聞こえたり…と先が長くなさそうな状況。
そんな彼を看護師として支えようとする女性、8年前に「恋人のために家を捨てた父親」と再会する娘エリー(セイディー・シンク)などがチャーリーの家に来る。
娘エリーは、大好きだった父親に見捨てられた「愛情の裏返し」のような態度で、父親チャーリーに辛辣な言葉を投げかけ、キツイ態度を取り続ける。
そんな娘を見るチャーリーの表情が柔らかく、「あぁ、本当に娘を愛しているんだな」と思う。
本作は今年(2023年4月)に日本公開され、当時Twitterでも贔屓のフォロワーさんが「この映画を観て、朝から涙しました」というコメントを見て、行こう行こうとしていたのに春先に見逃していた映画。ようやく名画座で鑑賞。ホントに涙が止まらない感動作でした。
今年を代表するヒューマン・ドラマの傑作!💗✨✨
<映倫No.49569>
こんなに心が震える作品なかなか出会わない
ボーイフレンドを自殺で失い、過食症になった男性とその娘の絆の再生のお話。
主人公には心惹かれたボーイフレンドと一緒になるために捨てた妻と娘がいた。
主人公はずっとそのことを悔いており、特に娘のことが気掛かりであった。
演じる俳優はブレンダン・フレイザー。
ハムナプトラを当時擦り切れるくらい再生していた私個人としては思い入れのある俳優の1人だ。
彼が演じた主人公チャーリーがメルヴィルの小説の白鯨に例えられていたのが印象的。
劇中、空中に投げられたノートパソコンの衝撃そのまま心に喰らったものがあった。
正直さを何より重んじた彼の主張に習って言いたい。
こんなに心が震える作品なかなか出会わない。
文句なく今年出会った洋画のベスト。
感情移入のしようがない主人公の末路
ダーレンさんが得意な主人公が酷い目に合うシリーズの最新作!
レクイエムフォードリームやブラックスワンやレスラーなどほぼ全く一緒のテーマとオチでやり続けてますが
自分は肌に合っていて、ホモだちと一緒になる為に離婚して嫁と娘をブン投げてホモだちが自殺したからって過食症になり今更娘と和解したいとか普通にお前が一方的に悪いし同情出来ないしなんなのよってなるとは思いますがブレンダンの顔演技と看護師(実は自殺したホモダチの兄弟!)もナイス演技だしツンデレ娘もですが演技はめちゃくちゃ良かったです!
ラストは想定内の展開なんだけどあのラスト5分は映像と演技と演出が上手く噛み合っていて見終わって2日くらいフラッシュバックするくらい強烈な体験しました。
この作品て共感出来る訳の無い身勝手な人間のブーメランで自業自得な主人公の話なのでその観点で見てる人の評価は大抵が低評価だとは思います!
ブレンダン・フレイザーの悲しみに溺れる
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
醜く太った体で、自分の脚で体を支えることはおろか、
笑うことも泣くことも食べることさえ満足にできず、発作を起こして死にかけている。
こうなってしまうまでの過去が、チャーリーの部屋に訪れる人々との会話劇から明かされていく。
各々が問題を抱えながら、全く完璧ではない人生を生きてきたことがわかる。
エリー(娘)のぶつけどころのない苛立ちが、その口から放つ言葉の辛辣さや、過ぎた行動から伝わってきて、
見ている側まで切り付けられているようだ。
愛する人を失った心の隙間を暴飲暴食で埋め続け、人生のバランスを崩したチャーリーが自責と贖罪の念に苦しみ、それでも死ぬ前に何かを成し得ようとする姿は、あまりにも人間臭くて、不器用だ。
その深い悲しみと優しさを湛えた眼差しに、これ以上傷つくブレンダン・フレイザーを見ているのが辛くて、
なんと私はラスト15分を残して映画館を出てしまった。
あのチャーリーの悲しみの表情に、胸を打たれまくってしまったのだ。
明日もう一度、終わりを見届けに行こう。。
一部屋内での会話劇
試写会にて鑑賞🎞
2023年のA24作品は熱い。
アカデミー賞も受賞しており、非常に期待値が高かったが、見事にその期待を超えてきた。
男が過去に逃げ出したものたちと、真正面から対峙するまでを描いた作品。
終始アパートの一部屋内での会話劇。
なのにも関わらず、全く飽きを感じることはなく、物語が進むほどその世界にのめり込むことができた。
主人公を演じたフレイザーがインタビューで、「自分の限界を越えて深く掘り下げ、私のすべてを見せたつもりだ。それがこの映画に焼き付いているよ。」と述べていたが、まさにその通りであった。
身も心も削り、全身全霊でこの作品を創り上げてくれたのだと感じられた。
登場人物について
初めはそれぞれかなりの癖者のように感じるかもしれないが、話が進んでいくうちに、誰しも共感できる部分が多く見つかるのではないかと思う。
とびきり善人がいるわけではないし、とびきり悪人が登場するわけでもない。
"グレーなゾーンで生きる大多数の人々"をとてもリアルに描いた、共感性の高い作品であったことも驚きの一つであった。
ストレンジャーシングスファンでもある私の超個人的感想としては、口の悪いセイディー最高に可愛かった。ブラックジョークが止まらないセイディー最高に可愛かった。
何はともあれ、私の乏しい語彙力でこの作品の魅力を語るには、あまりにも限界がある。
「とにかく観て。」もうこの一言に尽きるかもしれない。最高の作品。
『白鯨』を読み返したのち、もう一度映画館で鑑賞したいと思う。
白鯨のいた部屋
45kgの特殊スーツを着て,体重272kgの男性を演じたブレイダン・フレイザーの姿が頭から離れない。妻と娘を捨て,同性のパートナーを選んだチャーリー(ブレイダン・フレイザー)は,彼を失ったことで塞ぎこみ,歩くこともできないほど過食症になってしまう。高カロリーの食物が散らかる部屋は脂っぽく,画面越しに見ていても胃もたれしそうだ。自重を支えられず歩けない彼は部屋から一歩も外に出ないため,カメラはほとんど「外」を映さない。サム・D・ハンターの舞台劇が原作であるゆえんである。亡くなってしまったボーイフレンドの妹であり看護師でもあるリズ(ホン・チャウ)が,頻繁に部屋を訪れ,チャーリーの看護を行っている。やがて,娘であるエリー(セイディー・シンク)がチャーリーの部屋を訪れるようになり,大学非常勤講師という顔を持つ彼が,彼女の「エッセイ」を指導するようになるという筋書きだ。タイトルが示唆しているようにハーマン・メルヴィルの『白鯨』(1851)がレファレンスになっていて,作品内には登場人物や文章表現が数多く引用される。確認しておくと,『白鯨』はモビー・ディックという白いマッコウクジラに足を喰われたエイハブ船長の復讐の物語である。エイハブ船長の「義足」は,本作においてチャーリーの体重を支える介護用具,車椅子として登場する。ではチャーリーがエイハブ船長かというとそうも言い切れない。彼はチャーリーはエイハブ船長であるのと同時に「クジラ」としても描かれているからだ(それは光に満ち溢れるラストシーンを見てもらえればわかる)。彼は足を失った「エイハブ」であるのと同時に,(家族から)復讐される宿命を背負った「モビー・ディック」なのである。その両義性と葛藤が彼の人間らしさに命を吹き込み,物語に奥行きを与えている。キリスト教的世界観に限らず,人は誰もが罪を背負い,救済を求める。そして人生において「正しいこと」をしたいと願う。映画館とはいえ,スタンダードサイズの画面は狭い。その中に閉じ込められた観客は呼吸すら苦しく感じるだろう。しかし,その窮屈な部屋の中で人生の最後に「正しいこと」をしようとした男が救われたと信じたい。
肉体の変容は死に向かう、しかし。
人が人を救うとはどういうことなのだろうか? 誰かを苦境から救いたいと思う時に生じる憐憫の情、正義感。
そして同時に生まれるのは、救い手と救われる人間との間に生まれてしまう上下関係、支配関係、優劣関係。
救おうと思ってる人間は、対象者が自分が置かれてる状況より酷い環境や不健康であることを理由に、そこから脱するために手を貸そうとする。
本作の主人公チャーリーは、自らの足で歩行できないほどの巨体の持ち主で同性愛者である。アメリカでは、肥満であることが自己管理できない人、無能な人、という評価をくだされ、侮蔑され社会の落伍者として見られることが強い国と聞く。ゆえに大学のオンライン講師としてエッセイライティングの授業を受け持つチャーリーは、オンライン授業中、常にカメラをオフにしている。配達ピザももちろん置き配だ。
介護者のリズの手を借りなければ生きていけない不自由な体を持ち、突然の訪問者である宣教師にゲイムービーで自慰を目撃されるという羞恥の塊のようなチャーリー。
では彼は、誰かに救われるべき人間なのだろうか。
彼は、自分の心に正直だ。
かつて、女性と結婚をし子を持っていた。しかし、同性の教え子と恋に落ち、家庭を捨てた。深く愛したパートナーのアランが不幸な出来事によりこの世を去ったあと、チャーリーはその悲しみに耐えきれずに、その心の空洞を埋めるかのように食べ続け、彼は鯨のような姿になった。
動植物が、生存のために環境に適応すべく体を変容させるように、彼も自分を保つために体を変容させたのだ。
しかし、自然界を生きる動植物のその変容は種の保存なのに対し、彼のその変容は明らかに死に向かっている。
本作は、その彼がこの世から旅立つまでの五日間の物語。
私たち観客は、その五日間の彼の生活に寄り添うことで、彼が決して誰かに救われなければいけない落伍者でもなく、自身の生を、彼なりの自然な形で真摯に全うしようとしてることに気づくだろう。
ゆるやかな自死
この監督さんの「ブラック・スワン」が好きな映画の一つなので、観に行きました。
自殺するほどではないけど、
もう死にたいな、もういいなって気持ち、あるある。
なのになんでそんな病院行けって言うの。
ピザとトランプ
室内劇ならではの息詰まる緊迫感はありましたが、画面が暗かったので何度か船を漕ぎました。だからアランの死因を聞き逃したかもしれません。それにしても毎日ピザを2枚食べるのは自殺未遂ですね。上映中、ずっと「ギルバート・グレイプ」のお母さんのことを考えてました。今作の主人公はファットスーツを着用していたことを後で知りましたが、彼女のはリアルだったんですよね。アメリカでは肥満が社会問題であることが叫ばれて久しいですが、肥満は主題ではなく、何かのメタファーなのでしょうね。ちょうどトランプが当選した大統領選の時期である点にヒントがあるような・・・わかる人、教えてください(笑)。
祝復帰
フレイザーの復帰と多数の賞で厚遇のThe Whaleだが批評家たちの評価は二分されている。
RottenTomatoes批評家の否定派の意見には──
チャーリーの悲しみに実体がない、食ってシのうとしている超肥満体が同情を懇請しているムードが低俗、チャーリーの価値観に共鳴できない、メロドラマ。・・・。
──などがあった。
一般の否定派には軋轢が激しすぎるという意見が多かった。
愛憎と価値観の懸隔にいがみ合って、すんなり共感させてくれない。
批評家も一般もその通りだがThe Whaleがなぜこういう映画になったのかと言えば出演者が真意を誤解しそれをアロノフスキーが訂正しなかったからだ。
これは単純な話でアロノフスキーを見たことがある人なら誰でも彼がペシミストなのを知っている。レクイエム~だってレスラーだってブラックスワンだってマザーだって。
サミュエル・D・ハンターの舞台「The Whale」を知らないがアロノフスキーは再び暗澹たる辞世の哀歌を描こうとしたのだろう。
だってモンティパイソンのミーニングオブライフ(1983)で大食いのすえに爆発する男みたいな体型のチャーリーがピザやチキンやチョコバーを食いまくって食うことでシのうとしているんだから。どこに希望があんのかよ──という話である。
だけどフレイザーは誤解した。
『ハンターは、エンディングシーンでチャーリーが実際に歩いたかどうかは視聴者の解釈次第だと述べ、フレイザーはチャーリーがようやく「解放」されたと主張した。』
(The Whale英語版Wikipediaより)
フレイザーは放送映画批評家協会賞の受賞スピーチでも、
『もし皆さんが、僕の演じたチャーリーのように、肥満であるとか、暗い海の底にいると感じるとか、何かに苦しんでいるのなら、知ってほしいのです。自分の足で立ち、光の指す方へ向かえば、あなたにもきっと良いことが起こります』
──と述べて、The Whaleが希望へ昇華されるドラマであることを強調した。
だがそんなんじゃなくTheWhaleは現実を修整できなかった男の話だ。
この映画でもっとも劇的なセリフはメアリーの去り際に吐かれるチャーリーの『I need to know that I have done one thing right with my life.』(人生で何か一つでも正しいことをしたと知る必要がある)だが、父親の思いを知るにはエリーは若すぎるし、彼ら家族には色々ありすぎた。
結局、一つでも正しいことをしたとは知らずに逝ってしまうか、一つだけ正しいことをしたんだと自分自身に言い聞かせて逝くか、どっちにせよエリーには伝わらない。
よって『I need to know that I have done one thing right with my life.』はチャーリーの感傷に過ぎない。
人生の宿意が砕けて終わるアロノフスキーらしいペーソスだが、フレイザーの復帰と重なり、ホン・チャウの称讃にも重なり、数多の賞が降ってきてアロノフスキーは作品の真意であるペシミズムなんか言えなくなった。──というより、言う必要がなくなった。
希望に満ちた作品であるというフレイザーの解釈でなんの問題もないし、だいたい復帰を歓迎されているフレイザーにTheWhaleは破滅する男の話だ──なんて言えるかよ。
で、The Whaleのどっちつかずなムードができあがった。映画はいい。本気でぐっとくる。だが、あまり納得はいかないw。
アロノフスキーはレスラーの破滅的なミッキーロークをやらせたのに、フレイザーはショーシャンクの希望的なティムロビンスを演じてしまっている。──という感じ。
あと視覚的にチャーリーの見た目はかわいかったけれど、現実の世界であんなすごく幅広い人に会ったらどう反応してしまうだろう。ピザ配達人に見られるシーンは、なんか辛かった。お互いに姿を見ていない段階では良好なコミュニケーションがとれていたわけだからね。きょうびよく使われる“多様性”とは人がどんな姿であろうと反応を一定にすること──つまり「驚かなさ」を鍛えることだ。
赦しを乞う男
ブレンダン・フレイザーの演技は、怪演とか名演技・・・
という表現の先。
別次元の凄みがありました。
アカデミー賞主演男優賞にこれほど納得したことはありません。
自室から離れることも、階下の一階へ下りることも、
自由に歩くこともままならない鯨のように肥満した男。
ぶよぶよ肥満した見た目とは真逆の頭脳明晰にして知的な男チャーリー。
そもそも彼が肥大化した原因は、同性の恋人の死にある。
その男性アランの死因が宗教にあった。
チャーリーの友達で看護師でアランの妹でもあるリズ。
この辺り宗教に無知な私には理解できないのですが、
その「ニューライト」という宗派は、この世の終末論と
その結果にキリストが再臨する・・・
と説く新興のカルト的キリスト教の宗派。
同性のチャーリーを愛したアランの心はそのカルトに癌ように
蝕まれて遂には身体中に癌が回って死んでしまった・・・とリズは言う。
そしてチャーリーはアランの喪失を埋めるために過食に走って、
今は殆ど身動きが取れないのだ。
私はチャーリーの死生観にある意味で共感した。
彼は肥満による鬱血性心不全で余命は4〜5日と思われるのだが、
頑なに治療を拒否している。
救急車を呼んで治療・手術などしたら何万ドルもかかる。
チャーリーは15万ドル位を元妻に預けている。
その金は娘のエリーに残したいのだ。
そのお金を自分の死期を延ばすために消費したくないのだ。
この考えには私も賛成する。
どうせ死ぬなら治療費はドブに捨てるようなもの。
家族に残すかはともかく、もっと有意義に使ってほしい。
この映画は元々は舞台劇を映画化したものだそうです。
成る程、場面はチャーリーの部屋が殆どです。
スタンダードサイズの窮屈な画面。
とても暗い。
多分チャーリーは醜悪な自分を見たくないのだ。
共演者はチャーリーの部屋のドアを開けて登場する。
「ギルバート・グレープ」にも過食で200キロ以上に太った母親がいて、
ギルバートの母親も夫の自殺のショックから過食を始めたのだ。
ラストでギルバートは死んだ母親を家と遺体と丸ごと焼き払ってしまう。
ダーレン・アロノフスキー監督の名作「レスラー」でも、主人公は、
レスラーでステロイド剤の多飲で心臓発作に見舞われる。
彼も昔、家族を捨てた過去を持つ男。
この映画でも捨てた娘との繋がりが男を支える。
(ミッキー・ロークはこの演技でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞を受賞)
(忘れられていた老スターの再生になった)
ダーレン・アロノフスキー監督の宗教観は特殊で、過去作で物議を醸した。
「ノア約束の方舟」や、特に「マザー!」
「マザー!」は観た人にしかその特殊さは分からないが、
ユダヤ人でユダヤ教で育てられた監督は独特の宗教観を持っている。
この「ホエール」ではカルト教の架空の宗派「ニューライト」が、
大きな役割を振り当てられている。
突然チャーリーの部屋をノックして、「白鯨」について書かれたエッセイを
朗読させられる羽目になる宣教師のトーマス。
そしてやはり「ニューライト」の宣教師だった恋人のアラン。
アランは看護師のリズの兄でもある。
アランは父親に背き男性の恋人チャーリーとの肉欲に溺れたことを恥じて、
家出して何年か後に湿地で死体で発見される。
その事がチャーリーを苦しめ過食に至ったのだ。
(しかし、チャーリーは肉欲の次は、食欲・・・7つの大罪のうちの
(2つも当てはまる)
白鯨の感想エッセイにチャーリーは深く拘るには理由が2つある。
《語り手は自らの暗い物語を先送りする》
鯨に共感するのがひとつ。
もう一つはラストで分かる。
愛する娘エリーの書いたエッセイなのだ。
この一節も興味深い。
「語り手は悲しみや苦しみを《先送り》している」
出来る事なら「死」もずうっと「先送り」したいものだが・・・
チャーリーは、キチンと死と向き合い、
決着をつけて逝ったと、
私は思う。
魂の救済
終映後、久しぶりに拍手がおきました。
最後、力を振り絞り、立ち上がり、娘のもとに向かおうとする姿は、銛でつかれようとも生きようとする白鯨に重なり、それは生きながら死に向かっていること、生きている苦しみそのものを体現しているようでした。
最初は映画サイトのあらすじと若干違うことと(娘に会いには行かないこと)、入れ替わり立ち替わり様々な人物が突然登場することで入り込みづらかった部分もありました。
しかし、あ、そういえばこれはアロノフスキー監督作だったと気がついてからは、その“型”にすっと入り込むことができました。
要するに「ノア」しかり、「ブラック・スワン」しかり密室劇なんだな、と。
家族という血縁関係の複雑なパワーバランス、それを描かせたらピカイチの監督。
しかし今回は「目的」や「使命」ではなく、「救済」をテーマにしています。
登場人物は、だれも悪くない。
ただ自分の心に忠実であるがゆえに、か家族を傷つけてしまう。
それは、よくあることなのこもしれませんが、この作品は更に、愛し愛される関係の者でさえも救うことのできない絶望に一歩踏み込んでいます。
人の心は自分自身でしか救えないのかもしれませんが、最終的に赦しをえることで、救われることも事実。赦しは、与える側をも救うのかもしれません。そんなラストを、私も祈る気持ちで見つめていました。しばらくは、涙が止まりませんでした。
魂の贖罪の過程と、赦免に至るまでを丹念に描いたあまりにも美しい作品。
観てから、ああ…しまったと思ったのだが、小説の「白鯨」を読んでおくか、調べてから観ないと、中々この作品を理解する事が出来ない。死を前にした親が、一度は捨てた子にひたすら愛を伝える様は、もどかしく詮無い。それでもこの親子の一縷の光明となるのが只ひとつ、小説「白鯨」のエッセイ。観ている側はそれが何を意味するかラストまで悟らせない辺りが絶妙。小説は後調べにはなったのだが、その父娘の魂の贖罪と浄化が見事に結実するラスト。「白鯨」の中のモビーディックとエイハブ船長の関係をこの親子にオーバラップさせて、小説とは異なる崇高な結末を描き出す。
話題になったブレンダン・フレイザーのリアルな特殊メイクによる異様な肥満姿には宗教的意味合いも多分に含まれていると思われ、キリスト教で云うところの7つの大罪の成れの果てがその姿となっているのだろう。フレイザーはその特異なキャラクターを哀れになる事なく丁寧に、慈しみを持って奥行深く演じていて一等素晴らしい。オスカーも納得の名演技だ。
また、娘を演じたセイディー・シンクも、邪心と良心とが交差する、観る側をも翻弄するような複雑なキャラクターを奇をてらわずに演じていて好感。
原作が舞台劇ならではの会話劇というのも、閑静なタッチながらも映画にひり憑くようなテンションを寄与していて、時間を感じさせない。作家サミュエル・D・ハンターと演出ダーレン・アロノフスキーの丹念な仕事が見事な逸品だ。
全228件中、41~60件目を表示