「白鯨のいた部屋」ザ・ホエール Fractalさんの映画レビュー(感想・評価)
白鯨のいた部屋
45kgの特殊スーツを着て,体重272kgの男性を演じたブレイダン・フレイザーの姿が頭から離れない。妻と娘を捨て,同性のパートナーを選んだチャーリー(ブレイダン・フレイザー)は,彼を失ったことで塞ぎこみ,歩くこともできないほど過食症になってしまう。高カロリーの食物が散らかる部屋は脂っぽく,画面越しに見ていても胃もたれしそうだ。自重を支えられず歩けない彼は部屋から一歩も外に出ないため,カメラはほとんど「外」を映さない。サム・D・ハンターの舞台劇が原作であるゆえんである。亡くなってしまったボーイフレンドの妹であり看護師でもあるリズ(ホン・チャウ)が,頻繁に部屋を訪れ,チャーリーの看護を行っている。やがて,娘であるエリー(セイディー・シンク)がチャーリーの部屋を訪れるようになり,大学非常勤講師という顔を持つ彼が,彼女の「エッセイ」を指導するようになるという筋書きだ。タイトルが示唆しているようにハーマン・メルヴィルの『白鯨』(1851)がレファレンスになっていて,作品内には登場人物や文章表現が数多く引用される。確認しておくと,『白鯨』はモビー・ディックという白いマッコウクジラに足を喰われたエイハブ船長の復讐の物語である。エイハブ船長の「義足」は,本作においてチャーリーの体重を支える介護用具,車椅子として登場する。ではチャーリーがエイハブ船長かというとそうも言い切れない。彼はチャーリーはエイハブ船長であるのと同時に「クジラ」としても描かれているからだ(それは光に満ち溢れるラストシーンを見てもらえればわかる)。彼は足を失った「エイハブ」であるのと同時に,(家族から)復讐される宿命を背負った「モビー・ディック」なのである。その両義性と葛藤が彼の人間らしさに命を吹き込み,物語に奥行きを与えている。キリスト教的世界観に限らず,人は誰もが罪を背負い,救済を求める。そして人生において「正しいこと」をしたいと願う。映画館とはいえ,スタンダードサイズの画面は狭い。その中に閉じ込められた観客は呼吸すら苦しく感じるだろう。しかし,その窮屈な部屋の中で人生の最後に「正しいこと」をしようとした男が救われたと信じたい。