「暗い部屋の限りない光」ザ・ホエール 曽我部恵一さんの映画レビュー(感想・評価)
暗い部屋の限りない光
死期の近い主人公と、彼を取り巻く(と言うよりも、そこに集まってしまったと言った方が良いだろうか)何人かの人たちによる物語り。
舞台は主人公の暮らすアパートの一室。
そこを出ようとせず、命に危険があるほど肥満しても病院にも行こうとしない(「病院には行きたくない」という台詞が何度出てきたことか!)彼のもとを訪れるのは、介護を担う女性看護師、生き別れていた高校生の娘、若い宣教師、ピザの配達人ら。
皆どこかで彼の役に立ちたいとは思っている。だけど、それぞれの事情を抱え、人生が行き止まるのをなんとか食い止めようとしている彼らには、他人を救う余裕などあるわけはない。だれもが人生の「へり」にいるのだ。
そんな登場人物たちの切羽詰まった、だけど真正直なコミュニケーションが胸にきた。
戯曲がベースになっているようだ。芝居だけですべてを表現していく俳優の緊張感とそれをきちんと映像化したスキルはとんでもない。他の要素に頼らず、脚本と芝居、そこに寄り添う舞台装置を信じ切った演出だった。
登場人物のだれもが、失敗と後悔と懺悔の気持ちを持ち、あわよくばそれを他人のせいにして楽になろうと機会を伺っている。ぼくらの人生は少なからず、そんなものかもしれない。
決して聖人にはなれない人たち。弱くて小さな人たち。そんな人たちだからこそ持つことのできる、精いっぱいの優しさが、薄暗い部屋に溢れる。光を拒んだこの部屋は、実は人間の持ちうる最大限のあたたかさに満ちていた。
涙を誘う映画ではない。だけど、泣けて泣けて仕方なかった。胸に手を当てなくても、思い当たるフシがある。これは紛れもなく「ぼくの映画」だ。
思い出したのは、カサヴェテス映画がぼくたちに教えてくれた、人間の矜持。愛するという不毛で美しいこと。そしてポール・トーマス・アンダーソンが『マグノリア』で描こうとした人それぞれの愛の役割りについて。
そしてあの『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とも遠くないところに、その主題はあると感じた。我々はなんとか歩み寄らざるを得ないほど、断絶されているということ。
引用されるメルヴィルやホイットマンの向こうみずな前進性がダークな色調にビビッドな涼を運ぶ。
今年観るべき最重要の一本だ。