「ナチスに追われたユダヤ人少女を守り抜いた、気高き少年騎士とその家族の戦いの記録。」ホワイトバード はじまりのワンダー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ナチスに追われたユダヤ人少女を守り抜いた、気高き少年騎士とその家族の戦いの記録。
『ワンダー 君は太陽』は未見。
とにかく、ポスターのヒロインが可愛いという「だけ」の理由で鑑賞。
総じてとても面白かったけど、若干、細部にはひっかかりもあったかな。
『ワンダー』のほうは、たぶん観ていなくても、ほとんどのパートが前作とは関連のない話なので、あんまり問題はなかったような。
ナチス傀儡のヴィシー政権下のフランスで、ユダヤ人の少女が納屋に匿われる『アンネの日記』のような話なのだが、基本的に匿う側がすがすがしいまでの「善意」に満ちた家族で、そこは最後まで一貫していて、サスペンスが「ない」というのが、逆に珍しいタイプの物語だった。
今年、やはりフランスが舞台のホロコーストもので、ヴィシー政権下の農村部でユダヤ人を匿う話を観たけど、あれはなんだったっけと記憶をたどったら、クロード・ルルーシュ版の『レ・ミゼラブル』(95)だった。あれは匿ってくれていた家族に「裏切られる」話だったが、神父様の経営する学校によってヒロインがユダヤ人狩りから守られる展開はまったく一緒で、もしかすると「同じフランスの学校」がモデルになっているのかもしれない。
前半のあたりはちょっと眠たくなる部分もあったが、学校にナチスが抜き打ちユダヤ人狩りに押しかけてきてからは、手に汗握る展開が待っていた。
そのあと、好きな女子を守って戦う少年の話に入ってからは、初期宮崎アニメ(『コナン』『カリオストロ』『ラピュタ』)の好きな僕のようなオッサンには、まさにこたえられない展開だった。結論からいえば、ラストまでどきどきわくわくしながら観ることができた。
映画のなかで動いているヒロインの少女は、ポスターよりは垢抜けない感じで、田舎娘ぽくはあったが、やはり可愛くて思わず守ってあげたくなるタイプ。
むしろ、ユダヤ人だからって急にバカにできる感覚が僕にはわからない(僕はルッキズムの奴隷なので、顔さえよければ人種も出身も性格もほぼ関係なくなんでも応援しますw)
対する過去篇のジュリアンも、歩くのこそ難儀しているが、秀才で、美形で、性格がよく、決して自分からは女に手を出したりしない究極のナイスガイで、これでくっつかなかったらウソみたいなくらいのグッドルッキング・カップル。
ただ、なんとなく違和感を感じた部分として、果たして『ワンダー』のスピンオフとして、このノリで問題なかったのかな? という疑念はうっすらあった。
『ワンダー』は(よく知らないけど)それこそルッキズムに一石を投じる話だったっぽいのに、スピンオフの本作で明らかな「美少女」「美少年」の物語にしてしまってよかったのかな、と。
もちろんその代わりに、今回は「ユダヤ人」と「障碍者」という、ナチスによって迫害される二大要素を持ったヒロイン/ヒーローだったわけだが、明らかにこの役者さん二人を主役に抜擢した場合、両名の見た目が「可愛らしい」から観客が自然と応援してしまう部分は否めない。それで本当によかったのかな?
それから、「いじめっ子」だったジュリアンのその後を描くことで、『ワンダー』の物語を完結させる意図があったと原作者自身が主張しているわりに、じゃああの少年兵ヴィンセントのおぞましい最期は、あんな終わらせ方で良かったんかい? ってのはすごく思った。
人まで死なせちゃったら、もう救いがないよって話なんだろうか。
主人公がただただひどい目に遭うだけのよくあるホロコースト話だったら、なんの引っかかりもなく観られる勧善懲悪の展開なんだけど、人の善意の大切さを問う物語――「現代のほうのジュリアンのその後を描いて、改心までさせて救済する」のが目的の話で、新しく出てきたいじめっ子が、闇落ちして、ろくでなしぶりを悪化させて、なんの反省もないまま最後まで悪行を積み重ねて、罰のように狼に食われておしまいって、なんかえらくイヤな対比だなあ、と。
それと最近、マーチン・スコセッシの『ハウス・オブ・グッチ』やマイケル・マンの『フェラーリ』など、古参監督が「ヨーロッパを舞台に英語で映画を撮る」ケースはあるが、若手監督の映画で、現地の言葉を使わずに英語で撮るケースは減っているので、まあまあ珍しいと思った。出演者ももっぱら英米豪の英語圏からキャスティングしているし、必ずしもユダヤ人ではない人間にもユダヤ人を演じさせている。
僕自身はそこまで気にしないが、リベラル寄りの作品のスタンスを考えると、エクスキューズなしで英語の映画として撮っていることに、とやかく言う人もいそうな気がする。
あと細かい不満ばかり言い募って、感じが悪いのは承知のうえなのだが……
●サラが学校から命からがら逃げ出したあと、どうやってジュリアンがサラを見つけ出せたのかは、ちょっとわからなかった。あと、軍が犬を使っているのにサラが逃げ切れた理由とか、ジュリアンはあの足でサラの隠れている階まで音を立てずに上がれたのかとか、雪の中でジュリアンの足跡はかなり目立つのではとか、前に親と潜ったからって下水施設を通って迷わずに家まで帰れるものなのかとか、いろいろ考えたけど、あまり深く考えないほうがいいのかもしれない。
●近くに密告者がいるといって警戒しているわりには、毎日毎日納屋に通って、そこそこ大きな声で談笑し、ライトを点けて壁にできる影の動きにも無頓着で、あげくに歌ったり踊ったりしていて、まあまあ恐れ知らずな連中だなと思ったが、途中からもう気にしないことにした。
●そうしたら比較的さらっとナレーションで「1年が経った」とか言ってたけど、幽閉状態に対する拘禁反応とか、ずっと閉じ込められていることで生じる身体的影響とかをまるで感じさせない、単なる穏やかな避難所生活のように描かれていて、さすがに若干描写が軽いかなあと。「女の子が1年間、風呂も入れず、トイレもないような納屋で、一度たりとも外に出ることを許されないまま暮らす」のって、結構なストレスだと思うんだけどね。
●あと、これだけ献身的かつ全身全霊の庇護を一方的に受けておきながら、サラのほうにあんまり申し訳なさそうな描写がないことも、ちょっと気になった。心の底からの感謝を三人に示すシーンとか、あまりの幸運に感極まって泣き暮れるシーンとか、いろいろしてもらえていることへの返礼として、何かしらの労働や内職で報いようとする姿勢とか、将来的な恩返しについての言及とか、そういうのがほとんど出てこないのって、どうなんだろう。
ボーミエ家の人たちはもちろん、別段何の見返りも求めてなんかいないのだろうが、サラのほうに「御恩」に対するリアクションが薄いのがどうにもひっかかる。
●で、サラの誕生日にボーミエ一家が総出で祝ってくれるのだが、「隣の夫婦には牛乳に入れて睡眠薬を盛ったから心配しなくても大丈夫」みたいなことを言っている。おいおい、そんなことしてええんかいな(笑)。しかも後からわかる事実から考えると、隣家の夫婦が寝こけているあいだ、匿われていたラビはどうなっていたのだろう? 結果的に彼らをかなり危険な目に遭わせていたことになるのでは?
●ナチスの少年隊に入ってレジスタンスと銃の撃ち合いをしている青年たちが、コウモリが怖くて逃げだす展開には、若干無理があるような気がする。ノリがそこだけ書き飛ばしのチープな少年向け小説みたいなんだよね。あのあと、ナチス少年隊の連中が報復に来ない理由もよくわからないし、学校でジュリアンが復讐されない理由もわからない。
●サラをヴィンセントがついに見つけ出して、森に追いつめるシーンも、途中からのモンタージュで結末がどうなるかはたいてい推測できるんだけど、さすがにそんな御伽噺みたいな展開でいいのかな、と、個人的にはちょっと引いてしまった。
●終盤のあの流れで「ジュリアンの死体が見つからない」理由もよくわからない。
軍が収容してどこかに持って行ったってこと? お母さんの目の前で撃たれていて、倒れた場所はかなり明確だった気がするけど……。
総じて、重たいテーマを扱っているわりに、若干リアリティを欠くというか、映画というよりは「テレビドラマでも見ているような」軽さと安易さが目立つ気がするんだよね。
好きなジャンルで、好きなタイプの物語だっただけに、どこか子供だましっぽいテイストがあちこちでひっかかるというか。
それと、前作の『ワンダー』を観ていないからそう思うんだろうけど、前後に挿入されている「今のジュリアン」と「今のサラおばあちゃん」の話は、あんまりピンとこない。
これがあることで、映画として面白くなっているかといわれると、たんに邪魔をしているようにしか思えない。
だいたい、転校先で煮詰まっている孫に、この話を一晩語って聞かせただけで、劇的に改心して生まれ変わったりするものだろうか。おばあちゃんが受けた善意の話を自分なりに消化して、自分が過去に成した凄絶ないじめを悔いて、真の反省を経たうえで新たな価値観のもとに新しい一歩を踏み出すまでには、けっこうな段階を踏まないといけない気がするんだけど。
そもそも、なんでこの話をおばあちゃんは一度もしたことがなかったの? 後ろめたかったり、知られると困るような話だったら別だが、ぜんぜん孫に語り聞かせて問題のない「良い話」だよね? どうやら古いほうのジュリアンが孫の名前の由来になっていることを考えると、むしろ「もっと昔にちゃんと伝えておかないといけない」話なのでは?
で、改心したジュリアンがやることというのが、「ワシントンDCまで行進する」と宣言して、校内でビラを配っている政治的な学生活動サークルに入ることってのも、ええええ? なんだかなあ、といった感じ。
それなの? やること? マジで??
もっと身近なところ――人に親切にすることや、なにかのボランティアをやることから始めるのが筋じゃないのか? あるいは、まずは前作で行った自分の悪行を自分なりに総括するところから入るべきじゃないのか?
最後のおばあちゃんのやたら政治的な演説も含めて、せっかく「個の物語」として説得力をもって提供してきた重みのある話を、最後はリベラリズムの宣伝ビラみたいな内容につなげちゃってる印象。なんだかお里が知れる感じで、個人的にはとてももったいない気がした。
ラスト、街の上を飛んでいくCGの白い鳥が、なんだか「張り子」のような作品の象徴みたいに思えてねえ……。
最初に書いたとおり、自分にとって、少年が全力で少女を助けるボーイ・ミーツ・ガールものはそもそも大好物だし、主演の二人は文句なしに応援できるキャラクターだし、満天の星空のもとブルーベルの咲き誇る森でジュリアンが告白するシーンの美しさと言葉の真摯さには心底感動したし、二人を助けようとする善意の家族や隣人に対しても全幅の共感を持って観られるような映画なだけに、もっと「本格的に」そういう映画としてちゃんと仕上げてくれていれば、もっとこっちだってハマれたのにと、残念に思う。
あと、往年のハリウッド女優のような風格でヴィヴィアンを演じている女性が、『Xファイル』のスカリー捜査官だったことを、観てからパンフで知ってびっくり。
ヘレン・ミレンも、僕が『第一容疑者』にはまって観ていたころから考えると、ずいぶんと歳を寄せた。
最後に悪口を書きすぎた反省に、ひとつ、心から感動したシーンを書いておく。
ジュリアンが尾行されたせいで危機が訪れたとき、ボコボコにされたジュリアンを心配してロフトから降りてきたサラに対して、ジュリアンが怒鳴り散らすシーン。
あそこには、間違いなく「真実」があった。
サラを心から心配する、胸を締め付けるような不安。
自分のやらかしを許せない、強烈な自罰感情。
いざというときに自分の身体ではサラを守れないという虚無的な無力感。
自分たちの家族の犯している危険の大きさを、サラに理解してほしいという切実な想い。
それでも絶対にサラを守り抜くという「騎士」としての誇りと決意。
あれは、複雑なジュリアンの想いがあふれた名シーンだったと思う。
なんにせよ、若き二人の俳優の未来に道が開けることを心から祈りたい。