ドント・ウォーリー・ダーリンのレビュー・感想・評価
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この手の映画で女性の自立につなげる勇気
住んでいる家やコミュニティが少し変って映画はたまに出てくる。広い意味では「マトリックス」もその1つ。だから、この手の映画が出てくるとどんな話なんだろう?ということが1番気になってしまう。
本作も気になっていたのはそこ。この作りものっぽいコミュニティがなんなのか?ってところが1番気になっていた。いろいろとミスリードも仕掛けてきていたし。これはなんなの?と思っていたら、後半なるほどそれね!って感じ。
後半の怒涛の展開は悪くない。カーアクションもショボいし、全然ドキドキしないけど。何より終わり方がよかった。あの音だけで表現するかー!って感じだった。
何より音楽がよかった。「古き良き時代」って意味の50年代〜60年代を表現するのに最適だし、BGMとしてかかる不穏な雰囲気の不協和音のサウンドもかなり印象に残った。
で、テーマは女性の自立ってのもなかなか興味深い。こんな描き方もアリだ。男は未だに「妻を守る夫」と「夫を支える妻」って構図を追い求めてしまうのだろうか。男どもは本当の意味で妻を守れやしないのに。でも、こんなエンタメ作品でそんなことを考えさせただけでもオリビア・ワイルド監督の目的は果たしたのかもしれない。たしかに、「ブックマート」も全然違う種類の映画なのにそんなテーマだったかも。侮れないな、オリビア・ワイルド!
大作に隠れた秀作
オリビアワイルドにこれだけの力量があったとは、と思わされる一作。今回女優としても重要な役割を担う彼女だが、映画監督としての才能も素晴らしい。
1950年代のアメリカ。ユートピアを築くビクトリー社のビクトリータウンに住む幸せな若夫婦。飛行機の墜落事故を目撃した若妻が、立ち入り禁止の会社本部に行ったことから歯車が狂い始める。
フローレンス・ピューはアニャテイラーと双璧をなす若手実力女優だが、今回は彼女の真価が十二分に発揮されている。ロマンティック、サイコホラー、スリラー、アクション様々なシーンを見事演じきった。
SEの多用はやや耳障りだが、声のサウンドは気味悪く世界観をよく表している。全体的に没入感のある作品に仕上がっている。見せ場も数多く、印象的なカットも多いため、見応えがある。
贔屓目
170本目。
オリヴィア・ワイルド監督、出演と大分贔屓目。
えっ、こんな役と戸惑いはしたけど、自身が監督だからなと。
てっきり、ラブストーリーと思い観てたけど、ちょっと違うぞ、そっち系か?
てか、そっち系がどれなのかは、曖昧だけど終わりまで観ると、まあ広い意味でラブストーリーかな。
どう展開するのか、謎が分かっていくうちに、程良い緊張感。
最後も、あれで終わるのもスッキリかな。
でも予想外の作品撮ったのに、ちょっと驚きではあった。
違和感と妖艶さが首筋をなぞるユートピア
フローレンスピュー、ハリースタイルズの2人が誘うどこか様子のおかしいアメリカンユートピアをひたすら不穏に描いた本作。
雰囲気、キャラクター大好物なのにあまりハマらなかった。
日常を描くことがテーマであるのは理解できたが、少し冗長だと感じた。
オリビアワイルド監督が描く女性の逞しさは凄まじく現代のジェンダー観のトップを直走っていると思う。
前作のブックスマートとも大分毛色が違う作品でオリビア監督の懐の深さを垣間見た気がした。
主演のフローレンスピューの得体の知れない恐怖に対しての演技はいつも通り圧巻で、ハリースタイルズのセクシーで正統派の紳士かと思えばかつ狂気じみた湿った気持ち悪さも出せることに驚いて見入った。
中毒感のある不気味さ
“何ひとつ不自由のない暮らし”に
少しずつ違和感を覚えた主人公アリスが
この世界の謎に踏み入れる物語。
ミッドサマーやゲットアスに次ぐ、
ずっと中毒感のある不気味さが良い。
オリビアワイルド監督は
「ブックスマート」から
センスをずっと研ぎ澄ました印象。
新時代の映像体験が楽しめた。
この世界は・・・
その異世界感の居心地の悪さの度合いが、「何か変だぞ❗」作品って言うのは。
観る人にとってどの程度受け入れられるかが、ポイントだと思うのですが。
同種の期待をもって鑑賞に向かった「NOPE」と比べ、私には此方が⭕️でした。
作品のテーマも私達の回りの世界においてキャッチーな事で他者との「思い」の関わり、考え方をどう考えるか?っと言う事を投げつけられた‼️
「トップガン・マーベリック」とは真逆のテーマ作品に思えた私です。
白いウサギではなく墜落する飛行機を追いかけて覚醒する専業主婦版『マトリックス』もとい『不思議の国のアリス』
舞台は1950年代のカリフォルニアにある砂漠の中に造られた小さいながらも美しい街ヴィクトリー。夫ジャックと何不自由ない暮らしを送っていたアリスだったが、突然起こったある事件をきっかけにその理想的な街を覆う巨大な謎の存在に気づき始める。
プロット的にはM・ナイト・シャマランが好きそうな感じ、すなわち星新一のショートショートの一編にありそうな物語。ここで痛烈に槍玉に上がっているのは旧態依然とした男性優位社会。それが揺るがないシステムとして機能する世界へのノスタルジーに縋る男性達に対する強烈なアッパーカットになっています。そんな“不思議の国”で覚醒するアリスを演じるのはフローレンス・ピュー。日常が少しずつ崩れていく焦燥を見事に体現しています。クリス・パイン、ジェンマ・チェン、ハリー・スタイルズ等の怪演もキラキラと怪しく輝いていますが、やはりアリスの親友メアリーを演じるオリヴィア・ワイルドが頭一つ抜きん出ています。常に優雅な笑顔を絶やさない彼女に『マトリックス』のサイファーを思い出した人も少なくないでしょう。
ネタバレに留意するとこの程度のことしか書けず歯痒いですが、2作目にして確固たる作家性を確立したオリヴィア・ワイルドの快挙に惜しみない拍手を捧げたことは付け加えておきます。
アメリカの荒地の新興住宅地、時は60年代あたりか。絵に描いたような...
アメリカの荒地の新興住宅地、時は60年代あたりか。絵に描いたような幸福なアメリカンファミリーのイメージはそのあたりなのか。日本では昭和の高度成長期。
時おり挟まれるサブリミナル的ショットが何の意味を持つのか、夫たちは毎朝、道無き荒野をクルマを駆ってどこに出勤するのか。何をしているのかなど、謎が引き延ばされて緊張感が途切れない。
幸福とは何か?を深く考えさせられるし、今の世の行き着く先に警鐘を鳴らすものである。
結末が分かりません
「ユートピア・スリラー」という触れ込みに関心を持ち、都合の良い時刻に上映時間が合ったので、観ることにしました。
何か怪奇的な現象が起きるのだろうか?と思っていたのですが、物語の流れは「夫婦のきわどいラブ・シーン」→「ややSFがかった展開」→「ややスリラーがかった展開」→「ややアクションがかった展開」という風に自分には思え、結末がどうなったのか分からず仕舞い(制作費が尽きたのでしょうか?)でした。
この作品の見所は、私には、合間に登場するダンサーたちの脚線美を生かした、華麗なダンスのように思えました。
ユートピアと信じられていた街が、実は虚構であったというストーリーは、21世紀の映画作品としては、ずいぶんと古めかしいように思いましたが、観る人によって、感想が大きく分かれると思いました。
●男中心の古い社会像がはびこる「理想郷」に迷い込んだかのような女性...
●男中心の古い社会像がはびこる「理想郷」に迷い込んだかのような女性たち。「女性進出を求める女性の励みにしたい」という現代風の触れ込みには共感する。
▲とにかく結末がさっぱりわからない。何がなにやら不明であるうちに、唐突に幕が降りて混乱のまま終わる。鑑賞後のトイレでも「あれ結局何だったの?」と声が聞こえたほど。とにかく首を傾げるしかなく、時間を無駄にしたような感想。
▲サスペンスとしても失格。
▲「スペンサー」同様に、ヒロインの幻覚・幻聴のオンパレード。女性の精神錯乱はこのワンパターンでしか表現できないのか。誤解ないように言っておくと、主演のフローレンス・ピューの演技自体は幻覚幻聴も含めて秀逸。
▲女性視点から観れば、また変わった観賞価値があったのだろうか。独身男には何も感じられなかった。
※制作費…3500万ドル
「慰撫」自体に異議を唱える清く正しきフェミニズム映画。身につまされる部分もないではなし(笑)。
これは「観る前」に考えていたことで、「観た後」に思ったことではないので、いちおう書いても許されると信じたいが、予告編が流れた瞬間の第一印象は、「ああ、これって『ステップフォードの妻たち』のほぼリメイク、もしくはバリエーションなんだろうね」というものだった。
『ステップフォードの妻たち』は、アイラ・レヴィン原作、ブライアン・フォーブス監督の75年の映画で日本ではDVDが『ステップフォード・ワイフ』のタイトルで出ている(僕は、小説を読んでからDVDを観た)。
より一般的には、ニコール・キッドマンが主演した2004年のリメイク版のほうが知られているかもしれない(こちらは未見)。
あらすじにはあえて触れないが、中身を知っている人なら誰しも、きっと僕と同じことを思ったはずだ。
で、実際にどうだったかって?
これについては、それこそネタバレになるので、書かないほうがいいんだろうな(笑)。
ー ー ー ー
少なくとも、本作が筋金入りのフェミニズム映画、アンチミソジニー映画であることは、観終わった人なら誰しも同意してくれるはず。
ただ、出来が良かったかどうかについては、意見が分かれるかもしれない。
この手の「ネタのある映画」「世界観に違和感を覚える映画」としては、いろいろと物足りない部分が多かったのも事実だ。
冒頭のパーティー・シーンはちっとも引き込まれないし、
「何かがおかしい」と気づくイベントが間遠で、緊張感が持続できない。
最初に「からっぽの卵」という興味深い謎をせっかく設定できたのに、
そのあとにつづく「現象」が、物理的には不可能な「幻視」に近いものばかりで、
「オチ」に続く道筋の可能性が、何パターンかに限定されてしまう。
ヒロインが追い詰められていく過程も、比較的唐突かつ急激に悪化するので、
いきなりメンヘラった感じがどうしてもしてしまう。
僕がバカなだけかもしれないが、最後まで観てもよくわからなかった部分も、結構あった。
なぜ「本部」にはあんな「機能」があるのか?(ある根拠がまったくわからない)
毎日、男たちは結局どこに出かけて何をしていたのか?
ヒロインが目撃した飛行機事故は、なぜ起こったのか?
なぜ先生はあんな不都合なものを持ち歩いていたのか?(必要がない)
ラスト近く、なぜ例の人物の奥さんは、彼にあんなことをしたのか?
あとからわかる「ルール」に照らしてなお、得心のいかない部分が多すぎる。
とはいえ、ここまで言っておいてなんだが、個人的に、この映画には結構感心した部分もある。
かなりクセのつよいフェミニズム映画でありながらも、それなりに先方の主張したかったことは、すっと腑に落ちたからだ。
自分はふだん、SNSなどで強硬な主張を連投しているツイフェミやミサンドリストの投稿を、鼻白む思いでそっ閉じするタイプの人間なので、あまりその手の主張の強い映画だと「ドン引き」してしまうことが多いのだが、今回は不思議に語り口についていけた感じがする。
要するに、「ネタ系映画」としてはいろいろ素人くさい部分が気になったが、「われわれを説得しようとする映画」としては、相応にきちんと機能していたように思えたのだ。
たぶん、物語が「ポリコレに侵食されて汚染されている」と感じる映画は、吐き気と嫌悪感で観るのがつらくなるが(『サスペリア』リメイク版、『SW8』、『アラジン』実写版などなど)、物語が「とある主張を伝えるためにわざわざ組み立ててある」映画なら、意外に違和感なく、すっと胸に入って来るということなのかもしれない。
この映画で断罪されているのは、じつは男性による支配だとか、女性への役割の押し付けだとか、そういった「通り一遍」の「アメリカの古風な家族の理想」に対するジェンダー批判だけでは、必ずしもない。
むしろ、そういう不平等に対して「声をあげようとする女性」に対して、
「何をそんなに怒ってるんだ?」
「考えすぎじゃないのか?」
「そこまで世の中ひどくないぞ?」
「おいおい、不安定なのは君のほうなんじゃないかい?」
と、「なだめ」「慰撫し」「説得してくる」男たちの「上からの態度」そのものに、敢然とNOを突きつけるのが、この映画の本願だからだ。
要するに、『ドント・ウォーリー・ダーリン』だって? なめないでよ、って話だ。
そして、その「慰め」や「説得」という営為は、日々、僕が妻に対して行っていることでもある(笑)。
社会に対しても周辺環境に対しても、これまでの人生で大して不満を抱いたことのない僕にとって、常日ごろから社会の不正義に怒り、職場の不道徳に怒り、定期的に不可解な激情を募らせている妻は、エニグマそのものだ。
で、こちらも相応に理屈ばった人間ではあるので、妻からつっかかられると、ついつい反論というか、説得を試みてしまう。「タイムラインだけ見てないで、検索で両派の意見を俯瞰的に見たほうがいいよ」とか、「多数派が問題視していないことが気になるのは、自身の社会不適応が原因って可能性もあるよね」とか。……感じ悪いかな? まあ感じ悪いよね。
妻からは、「あんたが腹を立てないのは、世間様を心底見下してるからよ」って言われてます(笑)。
基本的にうちの夫婦はかなり仲のいいほうだと思うが、それでも妻とのあいだで、社会事象に対する感覚の違いや、感情の起伏の相違がある点は、日々実感せざるを得ない。
個人差、個体差を超えて、やはり「性差」というものは存在するんだろうな、というのが、もともとは赤の他人の女性と、20年以上ひとつ屋根の下で暮らしてきての、僕の体感的な結論である。
そんななかこういう映画を観ると、「妻」サイドが普段感じている感覚を強制的に追体験させられているようで、いささか居心地の悪い思いにとらわれるわけだ。
とにかく、妻は日によって、機嫌がよかったり、悪かったりする。
僕は365日、ほぼ上機嫌なので(妻には多幸症よばわりされている)、そんな妻のいらだちがよくわからない。だからつい声をかける。「あんまりいらいらしなさんな」。
でも、『ドント・ウォーリー・ダーリン』で、旦那が奥さんにおんなじようなことを言ってるのを観ると、切羽詰まった気分のときにああやって上から可哀想な子みたいに扱われると、猛烈に腹がたつんだろうなあ、と素直に思う(笑)。
言い訳がましいが、男サイドからすると、日によって相手の機嫌が違うというのは、それ自体が結構な脅威なのだ。日によって、ゴール地点や、認容の範囲が異なっているということだから。
それを「気配で察しろ」というのは、ほぼ気分に変動のない人間にとっては、なかなかに気を遣う、とまどいの多い作業だ。
急に機嫌の悪くなる妻に当惑する旦那。
旦那にとりなされるほどにいらだちを募らせる妻。
この映画は、そういう男女間の微妙な機微というか、感覚の差異を、結構生々しく描いている。そのことが、僕としても体感的に納得できるので、語っていることも抵抗なく受け入れられる。そんな感じだ。
ヒロインがなりふり構わず突き進める「真実の探求」に関しても、映画を観ているあいだは僕もヒロインの味方のような気分になっているが、考えてみればふだんは思い切り「旦那側」の人間だったりするわけだ。
僕からすれば、「世界の真実の探求」など「陰謀論」と紙一重だし、
「正義」は「暴力の正当化と暴走」を促す最大のリスクにしか思えない。
みんなが騙されたまま幸せなのに、その「真実」を暴くことになんの意味がある?
エセ宗教を信じている人を無理やり脱会させることに、本当に正義はあるのか?
バレないままならみんなが幸せだった不倫をすっぱ抜くことに、正義はあるのか?
僕は基本的に、調和した噓のセカイで穏やかに生きられるなら、それはそれでいいんじゃないか、と思ってしまう人間だ。
そういう人間にとって、この手の「隠された真実の暴露」を主眼とする映画は、なんとなく普段の自分を「責められている」ようなこそばゆさがある。
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この映画が、「フェミニズム映画」として意外に良く出来ていると思う理由は、ほかにもある。
たとえば、このヒロインは終始ブチ切れ、ボロボロに追い詰められていながらも、思いのほか冷静さを保っているように見える。
最後まで声を荒らげたりせずに、必死で自分を抑え、アンガーコントロールを遂行して、夫や上司に「何かがおかしい」と訴えつづけ、理解してもらおうと試みている。
これは、「分断」を生まない最低限のルールであり、礼儀である。
彼女は、独りよがりに興奮しているように見えても、常に夫や社会に対する姿勢がぎりぎりのところで「フェア」なのだ(本来的に「インテリ」だからだろうね)。
だから、観ているこちらも、抵抗なく彼女の闘いを応援できるわけだ。
それから、物語の最後まで、主人公夫婦は、「愛し合う」ことを諦めない。
これも僕が感心したことのひとつだ。
すべては愛から始まっているし、「不正」や「嫉妬」はあっても、そこに「憎しみ」はない。
ヒロインは、すべてを知ってなお、愛を手放さない。
味方と敵の切り替えが、よくある映画のように短絡的ではない。
裏切りへの怒りと恐怖が、「情」によって曖昧模糊なものに複雑怪奇に歪められる。
これは、結構生々しい、男女のありようなのではないかと思うのだ。
観終わってみて、街の住人たちのバックボーンを考えてみるのも楽しい作業だ。
なぜこうなったのか。なぜこの街に来ることになったのか。
もしかすると、大半が本作の「ヒロインとヒーロー」のような関係性だったとしたら?
(ひと組だけ、はっきりとその理由が明らかになる夫婦がいて、その理由は大変に納得のいくものだ)
アメリカという国は、ある意味、日本以上にマッチョで古風な国でもある。
古くからウーマンリブが勃興し、日本より女性の社会進出や女権の尊重が進んでいる一面もあるいっぽうで、国民の半分が共和党を支持する、キリスト教的な「理想の家庭像」が尊重される土地柄でもある。
そんななかで、本作で描かれるような「ユートピア」には、ジョークでも揶揄でもなく、明快に一定の支持があって、多くの国民が「本当はこうあってほしい」と真面目に考えていることを忘れてはならない。
この「理想世界」の不条理を暴き、脱出への渇望を募らせるヒロイン(およびオリビア・ワイルド監督)の闘いは、われわれが考えている以上に切実で、命懸けの営為なのだろう、と思わざるを得ない。
僕個人にとっては、男として十分に考えさせられる映画でした。
ネタバレ無しで感想を言うと…
「米国の理想郷」が「50年代」というのは面白いな。
確かに、トランプ元大統領に言われるまでもなく、「偉大」だったのは50年代だろう。
大戦に勝利した高揚感、絶好調な経済、華やかな文化…
そして本作のテーマである「女性の人権」も。
トランプの大統領選のスローガン
「MAGA(アメリカを再び偉大に)」
に対するアンチテーゼでもあるのだろう。
まあ氏の男尊女卑的言動を見れば、映画で批判したくなるのも分かる。
オリビア監督期待します。
おもしろかった。オリビア監督の役どころがいいですね(これも捻ってると思う)。画はとてもきれいです。対比できたない画もきちんと描かれていて、言外にうつつと夢を伝える。
しかしそれをそのまま素直に受け取れない。「うつつはゆめ。夜のゆめこそまこと」を描いてるよう。本当の真は果たしてどちらなのだろうと考えてしまう。
1D感のないハリー
キャスティング見てないとあのハリー・スタイルズとは分からんかった。踊りもヘタだし(わざとかな)
男は仕事女は家庭の今では異常な世界観だが結婚して専業主婦したい女性にはいい世界かも。亭主元気で留守がいい。
フローレンス・ピューの困り顔と
本作は監督の前作とうって変わって、完全にコントロールされた人工的な美しさの画作り。もちろんそれには理由がある訳だけど。
オリビア・ワイルドの確かな演出手腕を感じさせるが、本人の出演シーン(けっこう多い) では俳優としてもやっぱりたいしたもんよね、とも思わせられる。
フローレンス・ピューの困り顔と闘志はやっぱり良い。
今、トランプ時代を経てなお抜け切れていない状況で描かれるべき物語だった。ただ、オチはちょっとありきたりかな。もっとカタルシスが欲しかった…
本質を捉える大切さ
ユートピアに思えた世界が、実はある思惑によってコントロールされていた世界だったと徐々に気づいてく主人公のアリス。
男達のエゴとそれに被害を受けてしまう女性達の関係はまさに現代でも続いてしまっている男女格差の社会を描いているのかなと思いました。
本質を見る大切さを痛感しました
誰にとっての幸せなのか
期待値高く待っていました。とても、とても観てよかったと心から思います。ステップフォードワイフの現代版。
社会で働いて稼いでいると、親族や周囲が「女なら〇〇だったのに」という過去形の理想を押し付けられることが多々あり、辟易する日々。
ただそれを全否定するほど、ずっと自分が働いて稼がなければならないことは楽ではない。
男が稼いで女が家庭を守る、男にとってはそれこそが理想で自らやりたいと言っているのだから、働いて稼ぐのは男にやらせておけばいい、家庭を守るというのもそれはそれで幸せだ、そういう感覚もわからなくはない。
ただ、ただひたすらに、私は後悔はない人生を歩み続けているとしか言いようがなく。
自分のお金がないこと、独りでは生きられないこと、自分には家庭の母親という生き方しかないこと、それらを悔いて、娘に独り立ちできる力を与えようとしてくれた自らの母を思うたび、なぜ自分が今こうして生きているのかを思い出せるのだから。
理想や「昔は良かった」というノスタルジー、男女がそれぞれ囚われがちな価値観は、国や時代が違えど、大きな差はなく。
そしてアメリカに根強く残る黄金時代へのノスタルジーを「この形を選びたい者もいる」という優しい視点を合わせ持ちながら真っ向から否定する。
素晴らしい映画だと思います。結局、"古い"と言われるその構造を支持して積極的に支えたい人もいる。ただ全員に押し付けることは難しい。"普通は"で他人をコントロールできる時代は終わってしまった。
目の前の人を大切にしたいなら、まず自分が相手にとって何ができるのか、相手にとっての幸せとは何なのか考えられないことには、「幸せ」の押し付けは独りよがりな支配欲と成り果てる。
自分もまた、気をつけて生きていきたいと思います。
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