去年マリエンバートでのレビュー・感想・評価
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事実と観念の不可分さ
アラン・レネ監督、アラン・ロブ=グリエ脚本作品。 映画史において決定的に重要な作品であることを岩崎昶の『現代映画芸術』で知る。もう45年ぐらい前の本だから、現代でもないがみるべき作品ではある。しかしドライヤー同様、あんまり感覚に合わないな… 映像イメージと音声イメージで語られることは当たり前のように同期するわけではないし、ナレーションや回想が真実であるわけでも決してない。そして去年のことが事実としてのイメージか、登場人物の観念としてのイメージかも、監督と脚本家で意見が違うし、観客の解釈ももちろん分かれる。 映画において人物がどんなバックグラウンドをもった誰なのかも、劇的な展開もドラマもなく、石像化するブルジョワジーの社交を撮っただけで、またそのイメージの時制の整合性や因果を排し、イメージを繋げただけで映画として成立することを示したのだから重要な作品ではある。もちろん私が模倣できるわけではなく、そこにはある種の作劇があって全く雑ではなく、舞台装置の宮殿のきらびやかさや衣装の凄みはある。ショットの配置もモンタージュも周到に計算されている。しかしその奇天烈さだけをやったのではとも思ってしまう。ブルジョワジーの秘かな愉しみ。私には残念ながら、ブルジョワジーの享楽に耽る暇はない。
禅問答
昔からずっと見よう見ようと思ってて見れなかった作品。ついに見ましたが、やはりわけわかりません。芸術映画だということで分かろうとしない方がいいのかも。 主人公の二人がとても美男美女で、舞台となるホテルも豪華な調度品や装飾の数々で映像がきれい。見てる分には飽きませんでした。寝ませんでした。 物語は芸術映画だけにまるで絵画ようなホテルに閉じ込められた主人公たちが記憶を取り戻してそこから脱出しようというものなんでしょうか。 主役の二人と女性の夫らしき人物以外のホテルのお客は本当に生きてるのか、とりとめもない会話やギャンブルに興じるくらいで皆さん生きてる気配がありません。あの親が必ず勝つパズルゲームは何か物語と関係あるんですかね。 幻想的な世界でホテルに閉じ込められた閉塞感は十分伝わってきました。
難解ということで安心しました
学生時代か就職後まもなく、新宿の東映ホール2で、ヌーベルバーグの一作という程度の予備知識で鑑賞。お城の内部や庭園を延々と映すだけの抽象表現にうんざり。セリフなんてあったっけ?白黒画面も詰まらなく理解不能。私だけがそう思っていたのかと思いきや「世界一難解な作品」という評価を今見て安心しました。😅
すげえ……
わかったフリをすることしか出来ないような映画でした シックであり芸術的であるのだが、 同時に挑戦的で実験的でもあるような作品 難解かもしれないけど、 映画として素晴らしいから、まず観て!という感じ 衣装も素晴らしいし、カット割とか 画角とか衝撃うけます デルフィーヌ・セイリグもジャンヌ・ディエルマン以来だが、幅がすごくて驚いた なんとなくウォンカーウァイを彷彿とするような映画でした アランレネ、すごい。
【”極北のアーティスティックムービー。”超難解で、複雑で・・。けれど、ノーブルな雰囲気溢れる意匠、衣装が魅力的な作品。】
ー 初見は、20代である。 中学生から聞いていた、早瀬優香子のファーストアルバム『躁鬱 SO-UTSU』の中の”サルトルで眠れない”と並び、”去年マリエンバードで”が印象的であり、その後も『ポリエステル』まで愛聴していたため、「去年マリエンバードで」をレンタルビデオ屋で発見し、観賞。 で、何が何だか分からず、敢え無く撃沈・・。ー ・その後、2018年、今作が4Kデジタル・リマスター版でミニシアターで放映される事になり、偶々旅先の行きつけのミニシアターでフライヤーを入手。(だが、観賞は出来ず。) ◆フライヤーに記載されていた事 1.世界文学に地殻変動を齎した一大ムーヴメント<ヌーヴォー・ロマン>の旗手、アラン・ロブ=グリエ(今作の脚本執筆)と<ヌーヴェル・ヴァーグ>を先導したアラン・レネ(今作の監督)は運命的なタイミングで遭遇。彼らのエレガントな知性と自由な想像力は、複雑精緻に融合する。 2.今作主演のデリフィーヌ・セイリグが身に纏う衣装をココ・シャネルが担当。シンプルにして、エレガント、モダンにしてクラシカルなアイテムの数々は「ドレス・ア・ラ・マリエンバート」と呼称され、世界的なブームを巻き起こした・・。 他、ジャン・コクトー、アルベルト・ジャコメッティの今作に対する賛辞が記載されている。 ◆久方振りに観た感想 ・瀟洒なバロック風のホテルに集った男女のブルジョワジー達が、カードゲーム、射撃(これが、又不思議な描き方である。5人揃ったタキシードに身を包んだ男性達が、横一列に並び振り向きざま的を撃つ・・。)などに興じている。 ・彼らは、意味があるのかないのか分からない会話をしながら、屡、静止する・・、マネキンのように。 ・ホテルの前には、シンメトリックな庭が広がり、主演の男と女は”去年、会った・・””覚えていない・・”と言う会話をココ・シャネルの衣装を身に着けながら、交わす。 <二度観ると、”何となく、今作が発表当時に多くの芸術家たちに激賞された理由が分かった気がする”作品。 今の言葉で言うと、”洗練された衣装、意匠”及び、”当時のカルチャーを牽引していた文化人が製作した映画”に皆、ヤラレチャッタのであろう。 だが、今作を否定する積りは全くなく、公開後、60年経過しても世に名を轟かすだけの事はある、先鋭的でアーティスティックな作品であった。>
記憶と意識の狭間の混沌に溺れさす映画の流麗にして鋭角的なモンタージュ
約10年振りの再見。フィルムセンターでの初見は睡魔に襲われて、夢と現実と映画が渾然とした脳内カオスに陥って、その混沌のまま劇場を後にした。映画館で寝てしまうことに罪悪感を持つ身としては数少ない屈辱の経験になる。 ラストの真っ白いモンタージュが記憶の閃きのようにこころに残る。 この不条理なシナリオで約90分の映像作品に仕上げる演出の拘りは、やはり素晴らしい。 デリフィーヌ・セリングに出会えただけでも嬉しい。 ストップモーションの多用。同じナレーションの反復。男と女の銅像に対する拘り。 男と女の記憶のすれ違いにも拘らず、今その空間と時間を共有するアンバランスな関係。 室内と屋外のカットバックに見る映像空間の広がり。 全てにおいて映画に対するレネ監督の挑戦と実験。 映像の断片を観客が再構築しないと理解できない作家の独壇場。 記憶と現在の存在意識の乖離に真実はあるのか。 1998年 8月26日 アラン・レネ監督は、最初の長編劇映画「二十四時間の情事」の1959年から亡くなる2014年まで長きに渡って作品を発表した、創作能力旺盛な映画監督でした。後期の作品群は全く鑑賞の機会を得ることなく時が過ぎてしまったけれど、若い時に受けた感動の記憶は鮮明です。個人的に感動した作品を順に並べると、 「ミュリエル」 「戦争は終わった」 「去年マリエンバートで」 「プロビデンス」 「二十四時間の情事」 「薔薇のスタビスキー」 「夜と霧」 特に「ミュリエル」と「戦争は終わった」は素晴らしい。
同じ台詞、同じ回廊、無限ループする
女が記憶喪失なのか、男が妄想ナンパをしているのか、その二択だと信じての鑑賞。 とにかく「去年約束しただろう?」の一点張りの男。来年の今月今夜この月で…だったかどうかわからないけど、飛ばさないし、自らテラスから落ちた男。 現代パートと過去パート共に場面は変化するし、衣装もコロコロ変化するのです。女の夫はギャンブルも強く、1,3,5,7のゲームも常に勝ってしまう。あ、これわかんない。1,1,2,2の形を残せば勝てるのに、そこまでの過程がわからない。 主役以外がストップモーションになったりする映像も面白いし、難解過ぎて悔しささえ共有できる楽しさ。敢えて言おう。正直言ってわかんない❗
理解しようとは
思わず、ひたすらこの世界に浸ろうとがんばりました。 浸りきれなかったけど、なんか催眠にかかったような不思議な経験。 建物の中の過剰に華美な装飾と、何回やってもあの人が勝つあのゲームのこと以外あまり覚えていない…。 思いの外、もう一度観たいような気がしています。
時空が錯綜混在した迷宮世界
一回観ただけでは理解できない難解さだけど、なんか妙に惹かれる作品です。映画は呪詛のような男のモノローグで始まり、ホテルの廊下や庭園の映像が延々と続きますが、この映画の文法に慣れるにつれ、徐々に男女の関係が見えてきます。男は女に対して執着し、女は事実そのものを無かったことにしようとする、男女の想いのすれ違いは、ある意味普遍的です。この二人のやり取りを完璧な構図と複雑な編集により、過去、現在だけでなく空間すら変えて表現していく手法は実験的で、この作品を難解にしている側面もあります。でも、近いようで遠い男と女の関係は、迷宮を彷徨うようなものだとしたら、この手法は確信犯なのかもしれませんね。
わからなくって面白い
こういう映画はわからないからこそ面白い。 他の見た人とどう解釈したのかと話したくなりますね。 オイラは神話(石像)の時代から時代を越えて延々と繰り返している男女の1年の物語なのではないかと思いましたが、どうでしょう?
短期記憶と考察と
男と女は一年後に、約束通り再会した。 しかし、女は一年前の出来事どころか、約束したことさえ覚えていない。 去年マリエンバートで出会ったことや二人の出来事を、なんとか女に思い出させようとする男と、その回想。 静止する人々の中で自分と男だけを動かして、女は記憶を徐々にクリアにし、回想する。 だが、夫も介在してくる。 複数の視点で特定の事象を観るという代表的な作品だが、ホテルとその庭園が舞台で、時制や誰の視点・回想なのかキャッチアップするのに苦労する。 ココ・シャネルのデザインしたドレスに注目しても、モノクロなので、途中からこんがらがってくるし、静止してるはずの人が少し揺れたり、浮いてる男を見つけて、そっちに気を取られたり(笑)、本当に集中力を要する。 あと、ゲームも思考の邪魔をするし…。 黒沢さんの羅生門は、同様な手法で、人間のエゴを炙り出したとされるが、この映画は何を言いたいのだろうか。 きっと、そこがポイントではないのだろう、とても実験的な映画だ。 難解と言われているが、僕は、男と女は、「去年マリエンバートで」死んでいるのだと思う。 男は庭園の高い場所から落ちて、女は夫に撃たれて。 そして、死んだことを当初はお互い理解していない。 男も実は死んだことを理解してなかった。 最後に。女と男は記憶を取り戻し、ホテルを出た。 もしかしたら、二人は一年もの間、約束の日まで、そこにとどまっていたのだろうか。 考えると切ない気もする。 映画研究では重要な位置づけの作品なので、興味のある人は調べてみてください。 4Kリマスターで、ココ・シャネルのドレスは余計きらびやかになりましたが、どのみち、あれ?あれ?みないな、集中力は途切れましたね、僕は。
読むのに必死でした
うーん、これは観るのがちょっと苦しかったです、正直… 主人公のモノローグが延々続くので、観るというより読むという経験になっちゃいました。まぁ、これは仏語が分かる人には違う経験になるのでしょうけど、私、仏語は分からないので、どうしても読むしかなく… かなり実験的な映画で、ちょっと私には厳しかったです、どうも。 館の装飾を撮り続けるオープニングで、私としては、あ、なんか自分には駄目かもという予感が一杯でした。そしてやはり残念な結果と相成りました、はい。
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