「スポーツ純文学」ケイコ 目を澄ませて R41さんの映画レビュー(感想・評価)
スポーツ純文学
元ボクサーの自叙伝「負けないで」を原作にしたこの作品
そして純文学的にこの物語が描かれている。
聾唖
健常者には嫌でも入ってくる音 雑音
音の周波数が捉えられないケイコ 彼女の世界
ボクシングを始めようと思ったきっかけは定かではないが、記者の質問に会長は「いじめでグレていた反動かも、喧嘩が強くなりたかったのかな」と答える。
ケイコは日記を書いているが、そのほとんどがボクシングの練習日誌のようだ。
ホテル清掃の同僚から「仕事とボクシングの両立ってすごいね」といわれ、「仕事のストレス発散のため」だと答える。
しかしケイコにとって、ボクシングほど打ち込むことができるものと出会ったものは初めてだったのではないかと思った。
試合の緊張感
相手に勝つことこそ、彼女が今までしてきたことが正しいと証明されることだと、そう信じていたのではないかと感じた。
それは単に練習そのものではなく、考え方や生き方など、彼女自身のすべてが「間違ってない」と証明されることことと同じだったのではないか?
少なくともそう信じていたように思った。
弟の彼女 ハナ
ケイコにとってハードルが高いのが「彼氏」を作ること。
健常者の弟はそんなことも難なくできる。
それが、ケイコが無意識的にハナを無視した理由だろう。
ケイコの迷い
ケイコは、好きでしているボクシングと母の心配を天秤にかけた。
ボクシングをすることで他人からとやかく言われたくはないが、昔グレていたころに母を精神的に傷つけたことが、ケイコの頭の隅に残っているのだろうか。
自分のためにしていることと、他人のために止めることを天秤にかけた。
同時に感じる疲れのような脱力感
会長に手紙を書くが、なかなか渡すことができない。
そんな中で起きたジム閉鎖 移籍
会長が倒れて入院したこと
ケイコにとって、いろんな出来事に対する感情の優先順位がぐちゃぐちゃになってしまった。
彼女は完全に自分自身を見失ったのだろう。
弟が「最近イライラしてない?」と尋ねても、それに反論するかのように答える。
自分自身がわからなくなったことを誰かに伝えることもままならない。
そして同じように過ごそうとしても、ボクシングに向き合えなくなった。
音が聞こえないもどかしさ
以前はボクシングに気持ちをぶつけることができたが、今は空虚な感覚しかない。
聾唖者が感じる閉塞感
それをこの作品は描いているのだろう。
心で感じることは、健常者とは違うと思っているのだろう。
どっちが正しいのか、ケイコは絶えずそんなことを思いながら生きているのかもしれない。
会長が入院した後、指導者とミット打ちしていたら、指導者が泣き始めてタイムを取った。
ケイコは彼の気持ちがわかったのだろう。
同じ気持ち
自分も人と同じ気持ちを共有しているということに気づいたのだろう。
満を持して出た試合
レフリーの見落としによる理不尽なダウン
それに怒り、自分を見失い、カウンターを決められてKO
試合に負けたという意味 「私は間違えている」と受け取ってしまう。
練習に身が入らないまま河川敷に佇む
そこへやってきた作業員 試合相手
「試合、ありがとうございました」
この純粋なスポーツマンシップと彼女のいでたちを見たケイコは、彼女の中に自分自身を見たのだろう。
親の心配やなぜボクシングしているのかという疑問
辛い毎日のスケジュールと練習に感じる、報われない気持ち。
迷い
ここにこそ自分自身が向き合うべきものがあった。
それをケイコは再発見したのだろう。
好きなことを純粋にしているだけだった。
最古のボクシングジムの閉鎖は、物事の変化を象徴している。
そして、好きなものを好きでいながら続けていく想いは、変わらない人の気持ちを象徴している。
それでも時折こんな風に流れに乗れない時もある。
しかし流れはまたやってくる。
変わらないものなどない無常の世界
そして何より、聾唖者も健常者と同じ気持ちを共有できることを知ったこと。
これがケイコの気づきになったのだろう。
静かで、雑音しかない都会の音
そんな音さえ聞こえないケイコ
耳を澄ませないケイコに、目を澄ませと付けたタイトル
目を済ませて見えた気づき
なかなかいい作品だった。
社会は変わります。でも、個人も変わります。困難なスポーツだから、彼女の変わっていくさまが映画では不十分だったかなぁって思ってます。共感ありがとうございます。