「“〇〇好き”のハードルの高さとは」リコリス・ピザ シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
“〇〇好き”のハードルの高さとは
今回は絶対に嫌われる、凄く上から目線の発言になってしまっています。
“〇〇好き”と人は簡単に言ってしまいがちですが、マニアとオタクとかになるとそういう発言に厳しい側面があり、単に好きではなくもう少し深く考察したり独特の感性で捉えられる人の事を“〇〇好き”と認めたくなります。
映画好きも同様で、単一の国・作家・ジャンルだけでなく様々なタイプの作品に対して興味を示さなければマニア、オタク、シネフィルと呼ばれる人達は、内心映画好きと認めていない様な気がします。
そういう意味では、本作は映画好きのリトマス試験紙の様な作品に感じられました。
それだけ映画好きの中には熱烈なファンがいる、映画通に愛されるクセ者監督、ポール・トーマス・アンダーソンの作品であり、まあ私も過去作品は嫌いではなく(爆)、でも大好きと言うにはちょっと気恥しい監督。何故なら、感動はしていないし本当に理解できたかどうかも自信がなく、本作も同様にそんな作品でした。
早い話、にわか映画ファンには敷居の高い、作家性の強い監督であるということです。
何故リトマス試験紙なのか?を、本作でもう少し具体的に列記すると、まず1973年のLA郊外を舞台にしているという時点で、世代ネタやローカルネタが満載であり、この時点でその時代や土地に興味のない人の半分は置いて行かれます。
そして本作、一貫しているのはただ主人公二人の恋の行方となるのですが、その合間に様々なスケッチやエピソードで綴られてはいますが、各々のエピソードにオチは無く、そちらに意識を持っていかれる恐れがあります。
本作の場合、娯楽映画で大衆が喜ぶであろうセオリーは完全に外しているので、ここでも残りの半分は脱落するのでしょうね。
更に追い打ちとして、主人公達が王道の青春・恋愛映画の美男美女でなく、キャラも分かり難いし癖も強いと来ているので、ここでまた残りの半分が消えて行きます(笑・笑)
ここまで来てこの映画をまだ面白い、楽しいと感じられる人は、作家映画独特の感覚に対応出来る人達なのだと思います。
外面がどんなに個性的あっても、その本質を捉えられる能力や感性は、幼少から十代であっても感覚的に理解できる人達と、一生解らないままの人達とに(残酷なまでに)別れてしまいます。
ポール・トーマス・アンダーソンの作品に限らず作家性の強い監督作品を鑑賞する場合は、まずそうした事を念頭に置いた方が賢明だというお話でした。
本作の内容そのものも、今まで述べた「心の奥からの好きとは?」という事とかなりリンクしていた内容の様に思えました。