「自伝を書いて売れる人なんてひとにぎり」僕を育ててくれたテンダー・バー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
自伝を書いて売れる人なんてひとにぎり
いい顔の少年。豊頬で濃いまゆ。漫画みたいなまつげ。かれDaniel Ranieriだけで、五分は評点できる──そんな子役だった。
母親役はお母さんを彷彿とさせた。ロートルならきっと結婚しない女に出ていた“お母さん”を思いうかべるにちがいない。
成長して作家になったひとが、じぶんのことを語っている。スタンドバイミーやリバーランズ~みたいな感じ。
JR少年の幸運は、父に早々に捨てられ、母と伯父の愛に育まれたことだと思う。
もしダメな父が居付いていたら、この環境は得られなかった。父が奔走したおかげで、JRは母と伯父にとても可愛がられた。ことに加え、かれの日常はとても知的だった。伯父がやっていたバー=大人が酒を飲むところには聖俗入り混じった溜息と知恵が詰まっていた。
だれかの自伝に触れるたびに、ひとは幼少期に愛されなければダメだと思う。(←これは絶対である。)
また、ばかな環境でもダメだとも思う。(親や自身が積極的に底辺から脱却しようとしているならだいじょうぶ。)
愛されて知的ならぜったいにモノになる。──粗削りな意見だが、真理だと思う。
個人的に映画の白眉だと思ったのは、大学を卒業して父に会い、父の女の家に行った場面。そこに女の連れ子がいる。ひとりで静かにジグソーパズルをしている。壁には完成したジグソーパズル──諸外国の景観が貼ってある。いま少女はベネチアを完成させようとしている。少女は「旅行がしたい」と言う。
クズの父に絡め取られた女の連れ子。そんな子供の未来は、手に取るように明らかだ。だからJRはかのじょに言う。「だったら勉強をがんばれ。がっこうの勉強をすごくがんばるんだ。ぼくはまずそうした。そうするしかないときもある。」
母の苦労を見て育ったJRは、初対面の少女に本気でそう諭した。──そんな場面だった。
わたしはロバートレッドフォード監督のリバーランズスルーイットで町牧師の父役トムスケリットが“兄”に「おまえは文章を書くのが好きなようだ。それならいつか家族のことを書きなさい。」と言った台詞を明瞭におぼえている。
自伝を書く人はそれなりの人生をやってきている。──それも真理だ。
レトロな映画でもある。懐かしいあの頃──の映画でもある。そんな映画を新型コロナウィルス禍下に見る気分は、新型コロナウィルスがなかった時に見る気分とは違うものになった。
ざっくりした感慨だが、新型コロナウィルスによって今までなんとか保たれてきていたものが破綻している。平常時なら顕在しなかった膿が出ている。街往く人々や、空気感に厭世がただよっている。職場でも、立ち寄った飲食店や商業施設でも。みんな一様に不機嫌を決め込んでいる。テレビやネットのつたえる出来事も、それを反映している。
唐突で大風呂敷で漠然とした所思だが、コロナ禍下の社会は「日本人てぜんぜんリッパな人種じゃないよな」と思わせた。もちろん自分もその一員に過ぎないわけだけど。
わたしは事件/時事に「世も末だ」とは、まったく感じない質(たち)だが、邦画を見て洋画を見る、あるいは洋画を見て邦画を見る、あるいはさまざまな国/人種のYouTubeを見る──と、そのなんともいえない懸隔に、われわれ日本人て、──何と言ったらいいか解らないが、いい感じの人間性を感じない。もちろんエンタメ等々を見て影響をこうむる年じゃないし、そんなことおくびにも出さず平気な顔して生きているわけだが。