「いい話なんだけど、切なくなった」屋根裏のラジャー 福島健太さんの映画レビュー(感想・評価)
いい話なんだけど、切なくなった
主人公の少年、ラジャーはアマンダという少女の想像から生まれた、他の誰にも見えない想像の友達。
アマンダのためだけに存在している。
だから、アマンダが彼を忘れたら消えてしまうし、ラジャー自身はアマンダの友達として想像から生まれたのだから、アマンダを深く愛している。
こういう一方的で絶対的なものを見ると、僕のようなおじさんは切なくなるのです。
例えばオートバイ。
おじさん世代にはバイクに乗る人も一定数いて、若くてまだ給料が少なかった頃には、自分の愛車を最高の相棒のように言って、そのバイクに乗ってどこへでも旅をします。
バイクにとっては、乗り物として目的地まで安全に人間を運ぶために作られていて、その安全に運ぶべき大切な人間が、エンジンキーを持っている唯一絶対の、そのバイクの所有者です。
でも、その唯一絶対の存在であるオーナーは、例えば結婚して家族ができればバイクより家族が大切になることもあるし、バイクに乗る趣味がずっと続くとしても、バイクは工業製品なので、10年後とかに店頭で売られている最新機種の性能には絶対に敵わないのです。
そのうえ、オーナーは年齢を重ねてお給料も増えて、より高額なハイエンドモデルを買うことができるようになっていきます。
最高の相棒だったはずの愛車はいつしかガレージで埃をかぶって、エンジンオイルは古くなってドロドロベタベタに固まり、なんなら調子のいい中古車を買えるくらいの金額をかけてオーバーホールしてもらわないと乗れないとか、あるいは最新の上位機種への乗り換えで下取りに出されて二束三文のお金に変わります。
今までどんなに大切にされてきたとしても、「前のオーナーがどんな乗り方をしていたかわからない、急発信急加速でエンジンに負担をかけてきたか、オイルはきちんと管理されて定期的に交換していたのかもわからない」と、大切にされた過去まで否定されて、「初めてだからぶつけてもいいように安い中古を」なんて、ろくに大切にしてくれそうもない他人に買われていく。
そういう人間にとって都合のいい宝物が、映画の中の想像の友達と重なって、大人にはツラい映画だと感じました。
アマンダの母親リジーがずっと前に忘れ去った空想の友達、冷蔵庫という名の犬なんか、とうの昔に忘れられていても、それでもリジーを想っていて、映画のクライマックスでリジーが冷蔵庫を思い出したときには窮地を救いに現れるなんて、表面だけ見ればいい話なんだけど、おじさん的には「冷蔵庫、都合良く使われて腹を立てることもできない。自分をずっと忘れていたリジーに対して、子供ができて幸せそうで、良かったなんて喜んでいる不幸な犬」というふうに見えてしまいます。
表面的には「子供が生み出した想像の友達を食べることで想像の力を維持している、怪物みたいなおじさんが悪役として登場して、そいつに狙われたラジャーが、友達の力を借りてアマンダと一緒に悪役をやっつけてめでたしめでたし」という話なので、子供向けに単純で、誰でも楽しめると思います。
でも、想像の友達の存在について考えてしまうと、途端にかわいそうになります。