「昭和のノリでもテーマは新しい」なん・なんだ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
昭和のノリでもテーマは新しい
下元史朗さんは、柄本佑が主演した映画「痛くない死に方」で、痛みにのたうち回りながら死んでいく末期の肺癌患者を演じたのが強烈な印象だ。観ているこちらまで苦しくなるような熱演だった。
本作品では、いかにも昭和の夫という感じの主人公を演じている。73歳の下元さんだが、声は舞台俳優のように張りがある。大したものだ。下元さんと同じくらいの推定70代前半の主人公小田三郎は、昭和の男らしく無愛想で、最後まで一度も笑顔を見せない。台詞回しも芝居がかっていて、時代を感じさせる。
自動車や家電やファッションなど、二十世紀のものを見ると古臭いデザインだなと感じてしまうが、当時の人々にとってはそれが最先端で格好良かった筈だ。人間も同じで、昭和の気取った男たちを見ると、今ではアホかと思ってしまうが、当時の人々にとっては自分の言動を飾ることが格好良くて、ステイタスだったのだ。本作品の小田三郎にも多分にそういう面が残っている。
家父長制を代表するような暴力的で高圧的な夫と、欲望に素直な女たち。水と油の生き方にもかかわらず、同じ時間を同じ場所で過ごしたことで、かたち上は家族とみなされる。本人たちも本人たちも自分たちは家族なのだと思っているが、精神的な乖離は、癌が進行するように水面下で広がり続け、気づいたときには取り返しがつかないことになっている。そして愕然とする。自分たちの間には、精神的な繋がりなどなかった。
それでも女たちは、共に過ごした時間を否定しない。そこに女たちの強さがある。弱いのは男だ。暴力を振るい、怒鳴り散らす昭和の男は、実は弱っちいのである。硬直した価値観は、壊されるときは根本から折れる。人生のすべてを否定された小田三郎は男泣きに泣く。女たちはそんな三郎を受け入れる。
見かけを取り繕うだけで芯の弱い男と、男に従うふりをしつつ、自分の欲望を叶えていく芯の強い女たち。この構図は令和の今も変わらないのかもしれない。昭和の時代は強そうにしていた男たちが、いまは弱さをさらけ出している。性欲は三次元よりも二次元から二次元半に向かい、少子化が止まらない。
女たちが不倫を開き直る一方で、不倫をバッシングするパラダイムは変わらない。人間は一年中発情している稀有の動物だから、どこかで発散しないとストレスが溜まる一方だ。現にレイプその他の下劣な事件が日本全国で多発している。不倫が非難されるとあれば、売春防止法を廃止して自由化し、ピルをコンビニで買えるようにするのはどうか。賛否が巻き起こりそうだ。
一方で、感染症に敏感な時代だから、他人との接触はなるべく避けたい。だとすれば映画「アイム・ユア・マン」のように、人型ロボットに対応させるのもありかもしれない。外国の話だが、ラブドールと結婚した男の例もある。筒井康隆の小説「20000トンの精液」みたいに全裸の美女を立体テレビで実体化できる日も近いかもしれない。これにも賛否があるだろう。
渾身の演技だった下元史朗さんに比べて、烏丸せつこの演技はどこかよそよそしい。この人は昔はクラリオンガールで、グラビアで水着を披露していたらしい。フルヌードで映画に出ていたこともあるようだ。時は流れて、昭和のノリで演技するのが嫌だったのかもしれない。
本作品は全体が昭和のノリでも、テーマは新しい。不倫はだめだというパラダイム、女の立場の弱さ、性の解放が未だに達成されていないこと、そのために悩む人々がいること、そして家父長制の精神性が根強く残っていること。それらの隠されたテーマを理解しているかどうかで、役者陣の演技に違いがあるように感じた。