「ヤングケアラーと一筋の希望」コーダ あいのうた 鯨さんの映画レビュー(感想・評価)
ヤングケアラーと一筋の希望
ヤングケアラー。
近年聞くようになった言葉だけれど、問題になり始めたのが最近なだけで、ずっと昔から犠牲になってきた人はいたはずだ、と思う。
家族だから、やって当たり前。
他の人に頼むとお金はかかるし、何よりも家族の問題を他人にお願いするなんて恥ずかしい。
そんなことが当たり前だったから表面に出てこなかっただけ。
コーダ、
とは耳の聞こえない人を指す言葉。
手を自由に動かして目で見てコミュニケーションを取り合う人たち。
耳の聞こえない家族の中で、たった1人聞こえ、歌えるルビー。
「3年生の時、親の代わりにウエイターに堂々とビール2つね、と頼んでいてカッコよかった。俺はその時保護者付きだったから」
気になる男子からそう言われて、
少し嬉しそうだったルビー。
だけど、その頃から大人にならざるを得なかったことを思うと切ない。
耳の聞こえない家族と世間を繋ぐ橋渡しという役割を与えられ、そこから抜け出すことができない。
生まれてからずっとそうで、それが当たり前だったから。
新しく人を雇う余裕もない、だから、必然的にルビーが大人にならざるを得なかったのだろう。
歌の才能があっても、家族の生活のために、自分を押し曲げなければいけない。
抵抗しようとしても、大きな波にのまれそうになる。
そこで負けて折れてしまわないのが、このストーリーのいいところだ。
力になってくれる先生、友人、そして、気になる人、それでも歌いたいと思う気持ち。
気になる人が家に来ていいムードなのに、ラブラブな両親が大音量でおっ始めた時は、いたたまれなかった。
思春期にこれはキツすぎる。
でもどうか、負けないでほしい、と思った。
勝たなくてもいい、だけど負けて泣く姿を見たくない。頑張れ、と。
ヒロインのルビーが普通っぽくあるほど、この状況を打破して輝かしい未来に羽ばたいてほしい、と強く願ってしまう。
いつも少し怒っているように見えるルビー、
好きなように、思いっきり誰かに向かって歌って笑っている姿を見たい。
繊細ではない、だけどしっかり地に足をつけた歌声。
ところどころ差し込まれる無音のシーン。
どんなに聞きたくても、ルビーの歌声は両親にも兄にも聞こえない。
それでも、家族はルビーの歌を聞き、笑顔で手を叩く。
少しでも娘の声を感じようと首に手を置く。
愛の歌を、目の前で繰り広げられる美しい音の羅列を、少しでも取り入れようとする。
最後のシーン。
家族に向けた手の動きがキラキラして見えた。
声が聞こえなくても、どんなに魅力的に彼女が歌ったのか、分かっただろう。
彼女はたしかに家族のために、犠牲になってきた。
でも、それだけではない。
この話はただ見つけてもらうのを待っているシンデレラストーリーではない。
周りの人に助けられても、一人ひとりが立ち上がる、薄雲から光がさしていくような、
希望の物語だ。