「聾者と健常者の世界の対比と融合から描き出されるのは、「自分と異なる世界観・価値観への向き合い方」」コーダ あいのうた にちさんの映画レビュー(感想・評価)
聾者と健常者の世界の対比と融合から描き出されるのは、「自分と異なる世界観・価値観への向き合い方」
聾者と健常者の世界を両方の見方で捉えそして融合してゆく物語を、ユーモラスかつ感動的に描いた名作。また、抽象化すれば「自分には共感できないものに夢中になる相手がいたときに、それを否定するのではなく相手に共感・理解しようと努め応援する、また共感されない側も、相手に伝わるように努力して互いに相互理解を生み出す」という誰にでも当てはめることができる物語となっている。
聾者の両親と兄弟のもとで育った高校生の少女ルビーは、一家の中でただ一人耳が聞こえる。
家族は漁業を営むが、漁業には無線通信などの音声通信が必須なため、家族の仕事をルビーが支える生活が続いていた。
物語の序盤は、耳の聞こえるルビーの視点を通じて描かれる聾者との生活の苦労が時にユーモラスに描かれている。例えば家族の皿洗いや作業の音が煩かったり、食事中におならをしたりなど(もちろん聾者には聞こえていないので、自分がどんな音を立てていてそれが相手にどう伝わっているのか、その場では分からない)。また、性病にかかった両親の病状を医師に通訳するときのルビーの恥ずかしさも共感できる。
物語が中盤に向かうにつれてルビーは、「音楽」に打ち込みたい気持ちと、自分がいなければ家族を支えられない状況との間で葛藤をする。またルビーの家族も、ルビーを応援したい気持ちはありつつも、ルビーがいないと仕事にならず、かつルビーが打ち込みたい「音楽」に共感することができないため、彼女の音楽大学への進学を素直に応援することができないでいた。
また、耳の聞こえない家族の視点から「音楽」を楽しむ健常者たちの生活も描写されている。ルビーのコンサートに出席するも、当然ルビーが何を歌っているか、それがどういう歌声で健常者の心をどう揺さぶっているか、何も分からない。周囲の観客はルビーの素晴らしい歌声に手拍子をしたり立ち上がって応援したりしているが、それが聾者の家族にとっては「どうやら素晴らしい歌声らしい」と感じさせる一方で「疎外感」を与えてしまう一場面でもある。
終盤では、家族はルビーに依存していたこと、そして自分が共感できないという理由で彼女を応援できていなかったことを反省し、ルビーを送り出す決意をする。対してルビーも、歌の歌詞を手話で表現することで、自分の世界を家族も共感できるようにし、そこで初めて、これまで異なる世界の現象だった「音楽」が二つの世界を結びつけることとなった。
この作品を通じて思うのは、この話は決して聾者と健常者との間にだけ起きるものではないものだということ。いわゆる「健常者」の間でも、自分が全然共感したり理解できないものに相手が夢中になっていると、疎外感を感じたり否定してしまうことは、現代であれば多くの人が経験していることではないだろうか。