「人生を両側から見てきた」コーダ あいのうた SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
人生を両側から見てきた
ふだん、SFとファンタジー以外はあまり観ないのだが、「すごく良い」とすすめられて観たところ、すごく良かった! 映画で涙を流したのはだいぶ久しぶりだ。
CODAというのは、Children of Deaf Adultsのことで、聾唖者の親を持つ健聴者の子供のこと。主人公は聾唖者の家庭に生まれた唯一の健聴者で、家族の通訳として幼いころから家族を助けてきた。
障害者や多様性がテーマの映画だが、障害者が主人公なのではなく、健常者が主人公であることがこの映画のポイントで、とても重要な問題提起がされていると思った。それは、障害者や介護が必要な者などの家庭における、健常者の問題だ。
これは最近、ヤングケアラーや、障害者のきょうだいの問題として注目されるようになってきた。
障害者には社会的な支援があるのが当然である、という認識はずいぶん浸透したが、実際にはその理想通りには全くなっていない。その理想と現実のギャップの犠牲になるのが、障害者と直接接する立場にいる者だ。
そういった者は、障害者をサポートするのが当然という、本人にとっては理不尽な「常識」を受け入れざるを得なくて、自分自身の人生を選択する権利を奪われている場合も多いだろう。
障害者の家庭に生まれた主人公は家族を愛しながらも、家族の中では逆にマイノリティであり、ある種の孤独を抱えていたり、家族の犠牲になることを当然のように強いられることもある。
聾唖者の描き方もリアリティがある。障害者を理想的な性格の天使のように描く映画もあるが、この映画では人間としての障害者を描いている。障害を持っているがゆえに一人前の人間として扱われないことに強い苛立ちをもっており、過剰なプライドを持ち、そのために合理的な判断ができなかったり、社会との軋轢を生んでいたりする場面がある。
理想的な性格どころか、粗野で下品、反社会的な面もある。しかし、それを「障害者のくせにけしからん」と思う人がいるとすれば、それは「障害者は清く正しく慎ましく、できるだけ社会に迷惑をかけないように生きねばならないのだ」というひどく傲慢な差別思想を差別と自覚せずもっているということだ。
この映画が本当に優れていると思うのは、「歌」ということを軸にして、さまざまな角度から聾唖者と健聴者とのコンフリクト(対立・軋轢)を描いている、ということだ。
印象的なシーンがいくつもあるが、そのほとんどは「歌」に関係する。物語の背景で示されたさまざまな不調和(もやもや)が「フリ」となり、「オチ」として歌が関係するシーンが出てくる。
先生から、「歌うとはどんな感じか?」と問われたとき、主人公は言葉では表現できなかったが、「手話的には」表現することができた。適当にその場をつくろう言葉を言ってもよさそうなものだが、それを言えなかったことから、主人公の「言葉」に対する誠実さを感じることができる。そして、主人公はその特殊な家庭環境によって備えた特殊な感性をもっている、ということを示したシーンだと思う。
主人公が発表会で歌を披露しているとき、突然主人公の父親主観のシーンに切り替わり、場面から音が消えていく…。鳥肌が立つほど素晴らしい表現方法だと思った。
このシーンになる直前、我々は健聴者の視点から映画を観ている。父親の歌に興味を持たない態度、娘の発表会に似つかわしくない無礼な態度に、少し腹を立てさえする。しかし、場面から音が消えていくとき、我々は聾者がどんな風に世界を見ているのか、少しだけ想像できるようになる。音は聞こえないが、人々の喜ぶ顔、感動する顔を見て、娘の歌声がどんなに素晴らしいか、知る。そして、歓び、誇りに思うと同時に、寂しさ、悲しさも感じる。そんな素晴らしい歌声を、私は聴くことはできないのだ、という。音が聞こえる、聞こえない、ということが、2人を断絶してしまっている、2人は違う世界に住んでいるのだ、ということを。
そしてこの問題提起のあと、この問題に対する回答もやはり歌だ。喉に直接手を当て、振動で歌を感じることや、手話をしながら歌を歌うことなど。
ぼくはこの映画を観るまで、手話をしながら歌を歌うこと(手話歌)など、意味がないのではないか、と内心思っていた。正直言えば、健聴者の自己満足ではないか、とさえ思っていた。でも、考え方が浅かったなあと思う。
歌とは、単に「音」なのではない。歌う表情や、身振り手振り、歌い手のすべてが歌なのだ。木々が揺れる様子でそこに激しい風が吹いているのが分かるように、歌う姿から、その音を想像することができる。それは心に奏でられる想像の歌であるがゆえに、もしかしたらリアルな音よりもより心に響くものになる可能性すらある。
また、この映画では聾唖者の「孤独」が多く描かれている。手話歌は、聾唖者と健聴者が同じ歌(表現)について感動を共有できることに価値があるのだと思う。もちろん、同じ体験をしたわけではないが、それはつきつめれば健聴者どうしであっても同様だと思う。
映画に出てくる、「青春の光と影(Both sides now)」という謎めいた歌詞の歌。「人生を両側から見てきた」というフレーズがくり返し出てくる。これは、主人公が聾唖者の視点と健聴者の視点の両側から人生を見てきた、ということを象徴しているのだと思うけど、もっといろいろな意味を含んでいるんじゃないか、と思ったので、歌詞を探してみた。
I've looked at life from both sides now
From win and lose
And still somehow
It's life's illusions I recall
I really don't know life at all
この歌詞が意味するのは、「人生の様々な出来事」、この映画のテーマ的には、「障害」「家族」「環境」「愛情」といったものに対して、ときに「良かった(win)」と思ったり、ときに「悪かった(lose)」と思ったりするものだけど、いろいろなことが過ぎて、ふり返ってみると、何が良くて何が悪かったのかなんて、よく分からないものだ、人生とは玄妙なものよ…。そんな感じの歌なんじゃないかと思った。
主人公はCODAだけど、だから不幸というわけではない。家族は不自由に生きているからこそ、お互いに切実に助け合う必要があり、その中で深い愛情が醸成されてきた、という面もある。また、主人公の特異な歌声と感性は、CODAでなかったら身につかなかったかもしれない。
自分の環境であるとか、自分の人生について考えるとき、こういう考え方ってすごく重要だなあ、と思う。「足りないものを数えるより、持ってるものを数えろよ」みたいな話ではあるが、「自分に才能が無い」とか、「環境が悪い」と考えることは無意味というか…
一見「悪い」ことだと思えるようなこと(例えば障害とか)でも、それが良いことの原因になるようなことだってある。何が良いことだとか、何が悪いことだとか、固定されているわけじゃない。人生はそんな単純なものじゃない。
共感ありがとうございます。
一時期、障害者(この物言いも問題あるのか)の性生活について取り上げられた事が有りました。“同じ人間”仲々この原則に戻れないですね。