「問題提起型と見るか原作ありと見るか…。」コーダ あいのうた yukispicaさんの映画レビュー(感想・評価)
問題提起型と見るか原作ありと見るか…。
今年18本目(合計291本目/今月18本目)。
多くの方が書かれている通り、フランス映画を参考にして作られたという事情があるため、それが下敷きで、ある程度オリジナル設定があるというところはありますが「下敷き」がある以上、元ネタは大きく超えていないというところです。
もっとも元ネタ映画も見ていませんが…(元ネタ映画を見たことは前提な作りになっていない)。
このような「コーダ」(デフファミリーで、聴者の存在)をどうとらえるかは、現在ではいわゆるヤングケアラーの問題として今も議論されているところです。当然それは法律等は違ってもどの国でも同じでしょう。
ただ、そこに関する論点はあまりなく(一応はあるが、表立っては登場しない)、「コーダ」の方(女性の主人公)の歌の部分に大半寄せているので、問題提起型ととらえると、そこの部分が不足しているかな…という点は避けられないと思います。
かつ、この映画は実話ベースではないとはいえ、現在の日本(2021~2022)ではよく知られているヤングケアラーをどう考えるか、という点に気が付く方はかなり多いので、そこをどう取るか…(まったく無視するか、個人で考えるか…)という論点になりそうな気がします。
ひるがえって日本の事情を見ると、日本では「このような」家族も、基本的には民法の範囲でまずは考慮されます。しかし民法の親族編を見ると、特に「親→子」という概念で書かれていることに気が付きます(親族総則)。つまり、「子は親の指定する住居に住まなければならない」や、(今は改正が議論されていますが、俗にいう)「懲戒権」は定められているものの、「親→子」に対する条文ばかりであり、逆に「子は親を大切にしなければならない」などは一切存在せず、せいぜい親族相続の総則として「直系内では互いに扶養しましょう」という程度の、もはや理念条文というようにしか取れないものしかなかったりします。
すると、親がどうであれ(この映画のケースであれ、知的(精神)障害であれ)、子がどのような人生を選択するかは子の自由であり、どのような職業を選択するかも自由な話です(憲法22)。ここで、子が特定の職業についたときに、育てた親側が経済的に行き詰ったとき、日本でいえば生活保護法等が存在しますが…、それを頼ったときに、行政が子に対して「お互いに助け合わなきゃいけないんだから、大学(職業)をやめろとか、職業はこれにしろとか介入し始める」のが無理なのは、どう考えても明らかです。
一方でそればかりを主張すると親側は誰が面倒を見るのかという問題は残り続けるので、最悪、行政が合理的に判断して生活保護を受給させることしかできず、そうするとこの映画でいう「ヤングケアラーの子の将来の選択権」という、この映画で述べたかったであろう点がほぼほぼ存在せず(もちろん、日米で法律の差はあるとしても、根幹となる法律自体は多少の条文の差はあるとしても存在すると考えるのが妥当)、どのように解するのか…というのがかなり微妙です。
このような点まで考慮して下記のように採点しています。
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(減点0.2) この映画はアメリカ映画です。したがって手話もアメリカ手話(ASL)基準ですが、日本手話(中間手話/JSL)とはまったく違います。しかし俗にいう「バリアフリー上映」ではありません。一方でアメリカ手話をテーマにした「サウンド・オブ・メタル」がそうだった(ちゃんと字幕がついていた)のも事実です。
であるなら、趣旨内容的に「バリアフリー上映にすることが常識的に見て望まれるし、かつ、そうあるべき」映画でそうでないのは、結局「誰に見てほしいのか」が怪しく、趣旨として「(全員が)デフファミリーの家族」か「コーダの子がいるデフファミリー」の家庭「も」当然に想定していると解するのが妥当ですが、この映画は「無聾」以上にバリアフリーではないので(アメリカ手話は日本手話(中間手話)と互換性がないため)、趣旨が理解しがたいという点はあろうかと思います。
(減点0.1) この映画はPG12 の扱いです。これは多少なりとも性表現が出るからであり実際の表現こそ最小限(それでもPG12)なものの、「字幕でうまくかわしている」パターンです。
しかし、この「字幕のかわし方」が比ゆ的にすぎるため、言葉(日本語)の習得に苦労する当事者には「やや」きついのではないか…と思える点もなきにしもあらずというところです(今のろう教育と30~40年くらい前のそれは、まったく教え方が異なる)。
※ このことは「(ろう教育における)9歳の壁」という論点があり、「比ゆ的な表現が多く登場する小学3年くらいの国語から、一気に理解できなくなる」ということは広く言われていることで、今現在(2021~2022)はかなり克服されているとされますが、既卒の方には十分な教育が提供されなかった過去もあるのであり(事実、2000年ころまでは「高等部まで出ても、国語だけ極端に成績が悪い」ということはよく言われていた)、「当事者の方」が行かれても、理解の差はかなりわかれるのではないか…と思います。
※ 日本では、日本国憲法で「義務教育を受けさせる義務」(「受ける義務」ではないので注意)が定められていた一方で、1979年(昭和54年)までは「義務教育免除・猶予」という名の「教育拒否」が公然と行われていた(この年に旧養護学校(現:特殊支援学校)ができた)こともあり、その関係から、50歳くらいの方以上と、制度が充実した20~30代で、ある程度国語力に差があると言われます。
※ このことは、今でも「大検」(高認)とは別に「中学校卒業程度認定試験」(中認)という試験が存在することと大きくかかわってきます。この「中学校卒業程度認定試験」は正式名称が「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」なのです。
日本ではこのような事情があり、実際に「当事者の方」が行かれることも想定できる(ただし、バリアフリー上映ではない)のに、字幕が極端に比ゆ的表現になっており(←PG12なので)、それもそれで「巻き込んで「当然想定すべき視聴者が」理解不能になるのはやめてね」ということであって、そこはどうなのか…というところです。
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こんにちは。
聾唖者にお詳しいですね。
確かに どう見るべきかで違ってきます。歌という感動が前面にあるため 彼女の苛酷な日々が家族にとって当たり前の日々になっていてしかも 才能が無ければ埋没してたかもしれない‥と見てしまい手放しで良き映画だったとは言えない自分がいます。