君は行く先を知らないのレビュー・感想・評価
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大使館による本作の後援が、イラン自由化への旅の一歩になれば
ペルシア語の原題「Jaddeh Khaki」は「未舗装の道、砂利道」を意味し、英題「Hit the Road」は「出かけよう、旅に出よう」の意。一方で邦題「君は行く先を知らない」については、一義的には車で旅行する家族のうち唯一次男だけが旅の目的を知らされていないことから発想したタイトルだと考えられる。ただし、寡黙で感情を押し殺したような長男が家族たちと少しずつ会話を交わすなかで徐々に意図が明らかになっていくストーリー構成を考慮するなら、広義にはタイトルの“君”に観客も含む、つまり私たち観客も目的を知らないまま彼らの旅に伴走し、幼い次男と一緒に家族たちの思いを想像しながらこのロードムービーを体験してほしい、という願いが込められた邦題だと解釈することも可能だろう。
イランの巨匠ジャファル・パナヒ監督の長男で、父の現場で助監督や編集なども経験したパナー・パナヒの記念すべき長編監督デビュー作。自身や家族、友人たちに起きた実際の出来事に着想を得た物語だとしている。当サイトの解説文では「一家はやがてトルコ国境近くの高原に到着する」「長男は旅人として村に迎えられる」と筋を紹介している。これだけでも勘の良い人なら気づくだろうが、長男の目的とはつまり、非合法な手段で出国すること、つまりはイランという母国に将来の希望を持てずに外国に亡命するための旅なのだ。二度と会えなくなるかもしれないという不安と悲しみを抱えた家族たち、とりわけ無理に明るく振舞おうとする母親の心情を思うと胸が締めつけられる。
とはいえ、父ジャファル監督ゆずりのユーモア精神も効果的に発揮され、何気ない会話にくすりと笑わされたり、カーラジオの音楽に合わせて口パクしながら踊るショットがSNSのショート動画風で今どきだなと感じられたり。
意外に感じたのは、日本公開にあたりイラン・イスラム共和国大使館イラン文化センターという紛れもない政府機関が本作を後援していること。父ジャファル監督は政府に批判的な内容の映画を作って上映禁止処分にされたり収監されたりしたことがよく知られる。そして息子パナー・パナヒ監督の「君は行く先を知らない」も、母国に見切りをつけ闇業者を介して国境を越え外国で希望を見つけようとする青年とその家族の話なのに、イランの日本大使や担当職員が特別に寛容なのだろうか。イスラム圏の国々は男女不平等や表現の不自由が西側諸国から批判されがちだが、日本のイラン大使館が示した寛容さが将来のイランの自由化につながればいいなと切に願う。
【”行かないで、傍にいて。”今作はイランの文化、言論統制に対しパナー・パナヒ監督が様々なシーンで暗喩の形で、抗議の意思を表明し、イランを憂う想いを綴った作品ではないかと思った作品である。】
■ご存じのように、レビュータイトルでも記した通りイラン政府は、様々な文化、言論統制を民に強いている。
そのターゲットは、当然の如く映画にも向けられて来た。
有名な所では、イラン映画の巨匠、故アッバス・キアロスミタ監督であり、彼は政府の干渉に対し、”何を撮れば許されるのか。”と表明し、”子供ならば・・。”と言う回答を得て制作したのが、私が好きな”ジグザク道三部作”であり、”名作「桜桃の味」である。
更に言えば、パナー・パナヒ監督の父、ジャファル・パナヒ監督は度重なる拘留の末「これは映画ではない」を作り上げている。
そのような、イランの映画製作事情を知っていると、今作の見方は大きく変わって来ると思う。
◆感想<Caution!内容に触れているとともに、当方の勝手な類推を記載しています。>
・映画は、前半は左足を骨折した父ホスロと、妻、余り口をきかないハンドルを握る男と旅行に興奮している幼い男の子の旅の風景から始まる。
・だが、見ていると妻は何者かに追われているかのように、苛苛しているし、運転しているのが男の子の年の離れた兄である事が分かって来る。
・会話の中で、長男をイランの外に逃がすために、家族が車を走らせている事が徐々に分かって来る。トルコ国境近い、山岳地帯に入ると、覆面をした道案内の男がバイクで現れ行き先を指示する。
その通りに走って行くと(ここから、遠方から映されるシーンに代わる)待合場所が有り、長男は家族と離れて行くのである。
■印象的なのは、長男が居なくなった後に、騒々しかった幼い二男が、第三の壁を越えて見る側に大人の声で歌い掛ける切ないメロディの曲である。
”行かないで、傍にいて・・。”
<今作は、父ジャファル・パナヒ監督がイラン政府との闘争を重ねて来た事を、間近で観て来たと思われるパナー・パナヒ監督が、イランの文化、言論統制に対し、様々な暗喩のシーンで、抗議の意思を表明している作品ではないか、と私は思ったのである。>
「行き先」ではなく「行く先」を知らない 秀逸な日本語ネーミング
イランからトルコへの不法出入国のためのドライブ。幼く天真爛漫な次男だけがその事情を知らない。
なぜ、不法出入国の選択をしたのか、は描かれない。検閲?のため描けないのかもしれないけれど、そこはあえて描かなかったようにも思える。描かなかったことによって、家族にあてた焦点が鮮明となっている。
父母と、子の関係。
幼かった時には、ちょっと大人をハラハラさせるおやんちゃさを、愛情深く包み込む父母の存在。大人になった時には、根底にあるその愛情は変わらないながらも、膨らみ切ったズレに足をとられて、愛情は素直に表現できない不器用さ。
長男と次男は、もしかしたら2人とも監督自身かも。2つの時間を同時に描いた、と考えられなくはない、かな。
「自分は、二十歳の時にはすでに、一人前に家庭を築いていたのに」というような嘆きを父親がもらす。できが良いとは言えないこの息子は、家を抵当に入れてもらい、借りた金を不法出入国の支払いに充てるという、ふがいなさ。
愛する子を心配しながらも、複雑な心境が会話の随所に表れる。
親子関係って、積み重ねた時間にこんがらがったものが見えない壁となって、その向こうとこっちでやり取りするような、ちょっとめんどくさいもの、じゃないですか。
ただ、長男のふがいなさは、イランの歴史・社会・経済状況を抜きにとらえてはいけない、とも思います。1978年に親米政権が倒されたイラン革命。アメリカによる長期にわたる経済制裁。最近のインフレ率は約50%。10%前後の失業率。
スカーフを強制する風紀警察にも問題ありですが、経済制裁によって民衆を苦しめる政策を続ける国際社会はどう?
そうした現実をバックボーンとして踏まえれば、長男をふがいないというのは、ちょっと理不尽かな。誰も行く先を知らないんです。
次男の可愛らしさとパワフルさ、ロングショットで描くクライマックス。それらの装置で楽しませることで、けっこう重い題材をそうとは感じさせない監督の感性。嫌いじゃありません。
お父さんの映画『熊は、いない』も見逃しちゃいけないかな。
家族の不安や不安と対照的な男の子のはしゃぎ振り
イランを舞台として、ある家族が車で旅行し、幼い男の子が終始はしゃぎ回り、その兄、父、母は、来るべき別れの悲しみや不安で暗い面持ちを続けている。初めの方で、父の脚のギプスに描かれた鍵盤を男の子が触れてメロディーを奏でる。男の子の携帯電話を始末させるわりには、父は隠し持ち、仲介人と連絡を取り合っていた。兄と別れた後のキャンプで、男の子と父とが重なって寝そべり、周りの闇に星の点が増えていき、夜空に浮き、小さくなっていく。運転手が母に交代し、母も歌い、男の子が車の天窓から上半身を出して足を踊らせ、絶叫し、エンディングソングを歌っているかのような素振りには惹き込まれる。
イラン映画はなんかイライラする
長男の国外脱出をブローカーに託す両親。その今生の別れの行程を描くイラン作品。
成人している長男が運転手。
長男と次男の歳が離れすぎ。
可愛いけどうるさい次男にちょっとイライラ。
落ち着きなく、しゃべりっぱなしの子次男は携帯電話を隠し持っていて、怒られてもへっちゃら。SIMカードを外して、ハサミで壊す母親。
GPSが問題なのでしょうか?
ずっと車に尾行されている?
3ヶ月以上も左足をギプス固定している父親。仮病かもという母親。えっ?
ズルい自転車ロードレース青年の猿芝居がちょっと楽しい。アームストロングさんのドーピングの話は国外脱出はズルなのかどうかということにちょっと絡むのかな。
ずっと事情がわからないので、短気な人には向かない映画かもしれません。
助手席の母親が息子の方を向いて歌う場面が好きでした。
父と長男の河原のシーンなど大自然をバックにした映像はなかなかよかった。
オフロードバイクに股がって羊の毛皮のマスクを被ったブローカーの一味はタリバンかと思ってしまいました。
予告映像やレビューにだまされるな!の駄作に近い作品
単調なロードムービー
長男を他国に亡命させるため国境近くまでの家族の旅路を描いた作品だったが、この家族幼児を含め口が悪い悪い。
日本にも近年問題になっている外国人の難民問題、こういう口の悪い人たちが問題を起こすのだろうか?と疑いの目を向けざるを得ない。そんな偏見を描いても仕方がないと思った。
終始うるさく空気の読めないガキの生意気な態度も好感が持てなかった。
というのもこの次男のガキ、セリフの内容からもかなりマセているので、両親や兄貴の様子や家を売ったり携帯電話を没収されたりの雰囲気で気が付きそうである。
それでも最後までうるさいのはどうも解せなかった。
引きのシーンでガキ次男が兄貴と接触しないように木に縛られているところがある。(国境近くだからガキが勝手にどこにもいかないように縛り上げた可能性もある)
ここで母親のしつこいぐらいの長男を引き止めるシーンは今生の別れが痛いぐらいに伝わって好感がもてた。
ミヒャイルハネケ監督の作品を彷彿させる引きの映像だけども…これ引きじゃないほうが良かったんでは?
レビューには
「実は祖国に残る家族を心配してる長男」
とか書いてある人いるけど、長男はこれからの自分がどうなるのか?の不安を抱えて両親や弟なんて二の次って心境しか見えなかったし、ところどころのイラン音楽は、へんに明るい歌詞と喧しすぎる騒音で嫌悪感しかなかった。
あと、犬なんだけど必要??
貧乏をネタにしてるけど、ペット飼う余裕があるじゃん?
バットマンもプレステも知ってるんだし、情報規制とかなさそう?
終始手を洗ってる母親は放射能とかを気にしてる?
とまぁ、もう少しイランの一般家庭の状況やらを丁寧に書いたほうがよかったんじゃないの?って思うのもあったけど、そういう作品じゃなく、あくまでコミカルなロードムービー…
なのに単調すぎる…久しぶりに映画館で寝そうになった。
最後に、兄貴の別れより犬が死んだ事にショックを受けていた次男には本当に腹立たしく、パジェロから顔を出してわーわー叫ぶシーンはこれからの家族の生末に不満しか残さないでこの映画が終わる。
本当にモヤモヤした気分しか残らない作品だった。
旅の本当の目的は…
最近、小さい劇場でやっているような映画の魅力にハマりだした者です。
この作品は「裸足になって」を観に行った際に予告で流れていたもので、気になっていたため観に行きました。
最初はこの4人家族がどこへ向かうのかわからずいろんな想像をしますが、会話の端々でその秘密に段々と近づいていきます。
(次男以外)悲しげで不機嫌な様子なのに、それとは対照的に、映像に現れる景色はどれも素晴らしく美しいことにも感動しました。
他の方も言うように、イランの情勢等を知らないとこの旅の本当の目的が何なのかが理解しがたいのかもしれません。先に述べたように私は「裸足になって」を鑑賞済みだったため、長男がいなくなるのは「国境を越えるためだった」ということがちゃんとわかりました。
これが過去の話ではなく、今なお現地で起こっている現状だということに、様々なことを考えさせられます。こういったことが、ニュースで流れている「シーア派」や「イスラム国」といったことに繋がっていくのだなと、パンフレットを読んだり自分で調べたりして感じることができました。そして自分はどれだけそういった問題に無関心だったのかも知ることができたため、今後も目を向けたいと思いました。
この映画の監督の父親、ジャファル・パナヒ監督の映画も観たいです。
ラーヤーン・サルラク君を愛でる
題名の「jādde-ye khākī(土の道)」が示す通り、両親と長男、二男の合計4人が荒涼としたイランの大地をトルコとの国境に向かって車で旅する「fīlm-e jāddeī(ロードムービー)」でした。
最初は旅の目的も目的地も明らかにされないのですが、だんだんと旅の目的地がトルコとの国境付近であることや、旅の目的が長男のイランからの出国、それも違法な形での出国ということが分かってきます。ブローカーの村で村人が主人公らに「mosāfer(旅人)か」と尋ねるセリフがとても印象的でした。密航を斡旋するブローカーをghāchāgh bar以外に、ādam parān(人飛ばし)やmosāfer parān(旅人飛ばし)と言っていたことを思い出します。ただ、長男のトルコ渡航の目的や動機は最後まで語られることはありませんでした。
動機が語られることがないとはいっても、道中の会話からは、この旅が長男との今生の別れとなることを、二男を除く家族全員が感じていることが伝わってきます。長男との約束に従い、別れの悲しみを表に出さないよう、無理に明るく振る舞い、革命前の懐かしいメロディーを口ずさんだりする母親たちと、最初から最後まで明るく悪戯っ子な二男が見事に好対照な存在となっていました。
長男との別れの旅という悲しいテーマのはずなのですが、この能天気な二男の存在によって、また二男と家族との会話によって、コメディー映画として十分に楽しめました。
そういえば、初めて見たイラン映画はアッバース・キアーロスタミー監督の「友だちの家はどこ」だったのですが、そこで見た主人公のネエマトザーデも非常に魅力的なキャラクターでしたし、その他、運動靴と赤い金魚など、イラン映画には魅力的な子供が多いということを改めて感じました。
さて、長男のトルコ渡航の動機が劇中では語られないと書きましたが、普通に考えたら、就労目的や移民目的なのだろうということは分かると思います。ここで、昨年のマハサー・アミーニーさん殺害事件後のデモを絡めて、亡命と考えるのは時代錯誤ということになるだろうと思います。というのも、映画はそれよりも以前に作成されているのですから。
イラン出国の目的については、新しい統計をもとにしますが、例えば2022年から2023年にかけての冬の15歳以上の失業率が約9.7%であり、同じ期間でも18歳から35歳のグループに限ると約24.2%の失業率ということを考えると、やはり就労目的だろうと想像してしまいます。そういえば、日本もバブル景気と言われた頃にはイランから沢山の方々が観光ビザで出稼ぎに来られていたようですし、実はお父さんもかつては日本等に出稼ぎに行っていた過去があったとか……は、さすがに想像力を働かせすぎですね。
物語の筋は以上の通り、とても分かりやすいものなのですが、映画を見ていて、どう受け取っていいのか分からないシーンもありました。例えば、ブローカーの村に入る手前のところで、羊の毛皮の代金を支払うシーンがあったのですが、このシーンが良く理解できませんでした。ブローカーへの手数料を毛皮代名目で支払うということなのでしょうが、なぜ羊の毛皮代?と頭にクエスチョンマークを浮かべながら映画を見ました。帰宅後、不思議に思ったのでググってみたところ、面白いブログの書き込みを見つけました。
このシーンは、バハマン・アルクとバハラーム・アルクの双子の兄弟のショートフィルム「けもの(AniMal)」のオマージュではとのことでした。このショートフィルムはカンヌのシネフォンダシオンにも出された作品ですが、人が羊のようなけものに変身し、ある区画から逃げ出そうとするも、最終的には狩人に狩られるという作品で、羊の毛皮繋がりでは、そうなのかもと思いましたが、そうすると、長男はイラン出国時、あるいはトルコ出国時(YouTube等にアップしているイラン人移民たちの動画を見ると分かることですが、イランを密出国したイラン人はその後ギリシアに向かい、そこからドイツなどのヨーロッパの国々に密入国する人が多いのですが、トルコからギリシアに密航する際には、粗末な作りのボートで向かうことになり、途中で命を落とすということがあるそうです)に亡くなってしまうのでは等と想像してしまいます。物語の最後でペットのジェシーが亡くなってしまうのも、ファリードの死を想像させてくれます。
ファリードとお兄ちゃんの名前を書いて思い出しましたが、物語の終盤で二男が父親にお兄ちゃんの今後について尋ねたシーンで、お兄ちゃんは結婚するんだよと言ったことに続けて、お兄ちゃんはオフロードバイクに乗ってレース云々と話していましたが、この台詞の最初の部分が、ファリードはパリード(飛んだ又は跳んだ)と言っており、駄洒落かよと突っ込んでしまいました。字幕は英語訳からの重訳だからか訳者の怠慢からか、「ファリードはバイクに乗って」という感じに訳されており、少し残念でした。まあ、駄洒落を活かして翻訳するのは本当に大変でしょうが......。
このように、笑えるだけでなく、見ながらいろいろと悲しいことも考えてしまいますが、ラーヤーン・サルラク君の無邪気な演技に和まされ、彼の演技を愛でる自分がいました。また、劇中で革命前の懐メロが沢山聞けるのも良いですし、エンディングでエビーのシャブ・ザデがかかった時には、イラン人はやはりエビーが好きなんだなと改めて感じてしまいます。
To Face
最初のティザーチラシでは何の映画か分からなかったのですが、予告編が公開されると結構明るいテイストの作品なのかな?と思い劇場へ。
夫婦と息子たちのロードムービーに仕立ててありますが、どうにも長男と夫婦がモヤモヤしており、最後、最後と呟く事に疑問を持つ次男、その道中で出会うロードバイクの選手、羊飼い、覆面のライダー、村で出会う人々、様々な人物との会話から明かされる真実はとても残酷で、それらが明らかになるたびに心が蝕まれるようでした。
邦題の「君は行く先を知らない」というのもマッチしており、次男も行く先を知らずに無邪気にはしゃいでいますし、観客側の自分も見えないストーリーに連れていかれる体験型ロードムービーになっていました。
家族のやり取りが非常にコミカルで、次男と父親の貶し合いは毒が多く混じりつつもしっかりと面白くなっていたので、バランスの取り方が絶妙だと思いました。
次男のはっちゃっけっぷりがこれまたお見事で、演じたヤルン・サルラク君は名優に育つ予感しかしません。これからも追いかけていきます。
非常に口の悪い一家なのでバカバカと罵り合っていますが、これがのちの展開のことを考えると寂しくも思えてしまうのが不思議でした。
なんだか惹かれるショットが多かったのも印象的でした。引きのショットで家族の影と会話だけを映すシーンや、寝袋で寝そべっていたかと思いきや、鉄琴の音と共に銀河の一部となり飛んでいく様子とか、ラテン系の音楽に乗せて踊る様子と、思わずニヤリとしてしまうショットの連続に心躍りました。
考察、もしくは受け取り手の解釈に委ねている場面が多いので、うまく噛み砕く事ができず置いてけぼりにされたシーンがいくつか合ったのが惜しいなと思いました。撮れなかったのがお国柄というのが本当に惜しい…。これさえ何とかなれば傑作になり得たのにと悔しい思いが強いです。
自分も親元を離れて生活している人間ですので、両親の元を離れる事がとても寂しくてホロリ泣いた事を鮮明に覚えています。
作中、お母さんが何度も何度も旅立つ長男の事を心配しており、髪を切るシーンもこれが最後なのかと噛み締めていたり、嗚咽しながらも寂しさを紛らわすために大声出して歌ったりと、自分の母親も同じように気を紛らわしていたと話を聞いたので、愛する我が子の旅立ちは辛いものなんだなと客観的に感じる事ができました。
イランの情勢はニュースで聞こえてくるものしか入手できず、現在進行形でどうなっているのかも自分はあまり知らない状態です。そんな中、厳しい検閲を潜り抜けて、遠回しでもイランという国の事を表した映画を日本に届けてくれてよかったなと思いました。イランに平和が訪れますようにというと他人事になってしまいますが、そう願う事が今は大事なのかなと思います。
鑑賞日 8/25
鑑賞時間 20:45〜22:25
座席 C-13
ファリド(Farid)のイラン社会から離脱する過程をコミカルに描く
この映画を見終わって感動した。ペルシャ語がわからないので字幕にとらわれ、人の表情、広大な景色の移り変わりを見逃したくなかった。だから、字幕より、感性を使って観賞した。それに、映画を観ながらメモをよく取るが、それもやめて、映画の進行に身をまかせただけ。
イラン映画には車の中でもシーンが多いが、多分、アッバス・キアロスタミ監督以降かもしれない
が? 彼かモハマド・ラスロフ監督のどちらかが言ってたと思うけど、、、、、それはイランの政治事情であり、車の中でどんな音楽を聴いていても、ヒジャブをかぶっていなくても、何を話していても、これらのことは政府に密告されないとか、、、なんとか、、、つまり、自由に羽ばたけるということだと思う。自由のコンセプトにも違いはありそうだが、あくまでも、イランでの自由だが。
車の中でのシーンに加えて、モハマド・ラスロフの『悪は存在せず(2020年製作の映画)
Sheytan vojud nadarad/There Is No Evil』の最初の主人公ハシュマート(Heshmat) と砂利道の父親、 クロソー(Khosro)の顔の表情は両方一定なのである。違和感があり気になっていたら、最後の方でその答えが出てくるという結果になる。
アッバス・キアロスタミ監督とモハマド・ラスロフ監督は私の最も好みの監督なので、彼らの作品の理解に対して自分はかなり自己満足している。しかし、「砂利道」の理解はかなり軽薄だと思う。なぜかというと、例えば、 逃亡するお兄さん役ファリドFarid(Amin Simiar )が 『2001スペースオデッセイ』をベスト映画として上げるが、これは禅のようで、落ちつるけると。そして、銀河系に自分を連れて言ってくれると言っている。この意味は自分がいく新しい世界は未来があるという意味ではないかと勝手に判断したが。この『2001スペースオデッセイ』と映画と
父親クロソーのお腹に弟さんが乗っかり二人で銀河を仰ぎみて会話するシーンは何か意味することがあり、繋がっているんだが、ここのコネクションが理解できていない。どなたかお教えてください?
映画の最初の方はイランの家族、四人と犬がテヘランから北へ向かって運転していく。運転している人は甥かなと思ったが、上のお兄さん(ファリドFarid)で、家族は両親に、子供二人。イランのウルミア・レイク(Urmia Lake)のことを話してるので、かなり、北方で、アザバジャン方面に行くのかと思って観ていた。それに、途中でアゼリーという言語を話すアザバジャン人の自転車乗りに遭うし。 正直言って何が起こるのかさっぱりわからなかった。よく、伝統的なイラン映画にあるパターンかと思ってみていた。
そのうち、わかってきた。ファリドFarid)を失うことによる家族の悲しみ、それが、歌を歌うことや
たわいのない会話などの日常茶飯事に表現されていることがわかった。わたしたちが困難に出会っても、その、一見、つまらなそうな会話も状態も、困難状態の中で一緒に歩んでいくことも、あらためて認識させられた。そして、もう兄と会えないことがわかっているかどうかわからない弟の祈りにも現れている。土に口をつけるなと母親に言われ祈る姿は家族の中で、唯一弟が祈りの形式を取っていた。ファリドFarid)は道中自分のことで頭がいっぱいのようだった。しかし、父との二人だけの川辺での会話で初めてイランに残る家族のことを気にしている。保釈金のほか、この闇のコヨーテに支払う金額は大変なものだと思うが。家族にとってもファリドFarid)にとっても、ファリドFarid)の将来は、イランではないことは認識していると思う。イランを去らなければ再興の道はないことを。ーー私感
この映画を観終わって、脚本の斬新さを感じた。なぜかというと、現在なお続く、センサーシップの中で、イランに在住しながら、センサーシップを上手に避けながら、極端にいうと、『曖昧さ』という表現形式をとりながらなの作品である。それも息子のイラン社会から離脱する過程をコミカルに描く。すごいと思う!監督は父親ジャファル・パナヒに自分の書いた脚本を読んでもらったと言っていた。
ヘストシーンは最後家族が国境を引あげ戻ってくるシーンで、五月蝿いガキ、弟が(Rayan Sarlak一番好きな登場人物だった)車のルーフから顔を出してワーと騒ぎ、曲に合わせて踊り出すシーンだ。『私の愛する人が去っていくのを見た』-by Shahram Shabparehhttpsという歌い出しから始まって、車の中で家族の一人一人がそれぞれの形で悲しみを現す。
あと、車を運転しているファリドがアザバジャン人の自転車に接触してしまった時、ファリドは自分の過失をそのままにしなかった。迷っていたかのように見えたが、周りがなんと言おうと、善悪の判断の基準があって、車を止めてアザバジャン人を助けた。この行為は彼が、トルコ(監督がトルコと)に逃げてからも変わらなく思えた。ファリドの明るい将来が見えた。
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