マクベスのレビュー・感想・評価
全30件中、1~20件目を表示
Justifiably Remade Again
The Coen Brothers are among the best filmmakers in history; its nice to finally see one of them show his individual chops. The language of Shakespeare plays are difficult yet watching is always a rewarding exercise to one's intellgence. Tragedy is far less an interpreation than a highly artistic expression. Washington is in prime form. The black and white is boosted by the film's swift pace.
とにかくデンゼル・ワシントンが美しい
ジョエル・コーエンがウィリアム・シェイクスピアの4大悲劇の1つ『マクベス』を映画化する。このチャレンジングな構想を後押ししたのは、まず配給のA24と配信を請け負ったApple tv、そして、夫のコーエンと共に製作に参加し、劇中でマクベス夫人を演じるフランシス・マクドーマンド、だけではない。魔女の囁きを信じて権力欲に取り込まれ、自滅していく主人公、マクベスの心理状態を代弁するような、恐いほど美しいモノクロ映像、意図的に無機質な背景(全てがサウンドステージ)、マクベスの不安をさらに助長するような音楽、それだけでもない。最大の功労者は、悲劇の王の苦闘を口跡のいい台詞回しで、呟くように、奏でるように、泣き叫ぶように演じるデンゼル・ワシントンの俳優としての技量なしに、コーエン夫妻の挑戦は日の目を見なかったのではないか、という気さえする。何しろ、今回のデンゼルは美しいのだ。 これは、オスカー受賞の演技派俳優→アクション俳優(もしくはその両輪)とキャリアを転じてきたデンゼル・ワシントンが王道の演技派路線に回帰して、もしかして再び頂点を極めるかもしれない渾身の作品。奇しくも、今年のアカデミー賞は彼が『ドレイニング・デイ』(01)でアカデミー主演男優賞に輝いた年に状況が似ている。あの時と同じく、ライバルには後輩のウィル・スミス(『アリ』→『ドリームプラン』)がいて、彼が『ずっと追いかけてきたのにまた追い越された」とスピーチしたシドニー・ポワチエ(名誉賞受賞)はこの世にはなく、ある意味、また1歩先を越されてしまったのだから。どういう形式で開催されるかは不透明だが、そんな風に今年のオスカーナイトのワンシーンを想像させる、必見の人間ドラマであり演技である。
兄弟分かれ
A24の作品と注目するよりコーエン兄弟の兄ジョエルが単独で監督した新作として話題にするベシ。 前作「バスターのバラード」に続いての配信、NetflixからAppleTVへ、今回は劇場公開もしたけれど「ヘイル、シーザー!」から正規での公開はしていない感じ、この先も配信オンリーで弟イーサンは無しでやって行くのか? シェイクスピアは敷居が高く小難しいイメージがあり映画でも避けてしまうジャンルではあるがコーエン兄弟、いや、ジョエル・コーエンの新作なので避けられない、物語は分かりやすく映像のLookの素晴らしい美的センスに飽きも来ず、知識のない自分には親切な作りで楽しめた。 弟とのコンビは解消でこれからは奥さんでもあるフランシス・マクドーマンドとの二人三脚になるのかなぁ?? AppleTVにて鑑賞。
美しい狂気と悲劇
戯曲の映画化ですが、舞台を見たような感覚。詩の朗読のような台詞回しや奥行きのある画作りなど、細部まで緻密に考えられた演出により、美しく重厚な作品になっています。 シェイクスピアにも舞台にも不慣れなため、個人的にはなかなか難解でしたが、魔女の予言に侵され道を踏み外していくマクベスの狂気は、愚かで美しくて凄まじいもので、圧倒されました。 世界観と雰囲気に酔いしれる105分。アカデミー賞ノミネーション、納得です。
ほぼ原作通りの進行だが、とにかくプロダクションデザインが素晴らしい!
余分な装飾を一掃した現代的な城。戦闘服や城内のしつらえはシンプルで美しく、モノクロでの効果を上げている。 撮影はコーエン兄弟と多く仕事をしてきた人物だけに、暗さと影、俯瞰した風景がストーリーを引き立てている。 また、昨今の多様性重視の方向性から、アフリカ系アメリカ人が多用されているが、キャスティングは脚本上全くに気にならず、それぞれの持ち味を十分に生かしている。 ただ、なぜ今ジョエルが一人で本作に挑んだのかという疑問は残った。
激ハマリなデンゼル御大の暴君演技
何度も何度も映像化されているシェークスピアの戯曲ゆえ、ストーリーは知ってて当たり前。それでもいまだに作り続けられているのは、いかに作り手のイマジネーションを掻き立てる題材であるという事の証。近年マイケル・ファスベンダーがマクベスを演じたバージョンでは、マクベスが幾度の戦争によりPTSDを患っているという解釈が加わっていた。 そんななか本作は、製作がA24で、しかもコーエン兄弟の片割れジョエルが妻のフランシス・マクドーマンドと初めて二人三脚で挑んだというだけで興味十分。モノクロで画面比率4:3のアカデミーフレームという点でオーソン・ウェルズ版を意識したと思われるも、『蜘蛛巣城』を想起させるシーンもちらほら。 ストーリー展開が戯曲通りに進むというのは些か意外だが、なんといってもマクベスをデンゼル・ワシントン御大が演じるというだけで★3つは固い。『イコライザー』のマッコールさんのような無敵の男役が激ハマリなデンゼルの、権力に憑りつかれ妄想に恐れおののく暴君役はちょっと珍しいかも。それでも剣劇アクションをしっかり入れているあたり、製作陣は彼の起用法を分かっている。 マクドーマンド演じる発狂していく妻も、彼女のあのシワだらけの容姿がモノクロの陰影で浮き彫りとなって怖さが増していて、この人も自分のポジションを分かっている。 ついでに触れるとキャスリン・ハンター演じる魔女も不気味すぎ。 ただその魔女の予言が、戯曲では「女の股ぐらから生まれた者には殺されない」だが、字幕も吹替えも「女から生まれた者には殺されない」と抽象的なニュアンスになっているのが引っかかる。これではマクダフの「俺は母の腹から突き出された(帝王切開で生まれた)」というセリフが活きなくなってしまっている。 まぁ細かいツッコミはさておいて、シェークスピア劇の映画は色々と見比べて楽しむのが一興。『マクベス』に関しては前述の『蜘蛛巣城』とファスベンダー版が比較的観やすいかも。
マクベスはじめて
シェイクスピアをしりません。しっているのは(ハックルベリーにでてくる)王様と公爵のやりとりていど。マクベスもしりません。世の中ではシェイクスピアを元ネタにしたものは周知の話のような体になっていますが、大概の人がそれをしっている──シェイクスピアをたしなんだことがある──という想定には懐疑的です。 マクベスは謀略で王も臣下もみなごろしにしてのし上がります。──まがりなりにも現代で残酷な映画をたくさんしっているはずのわたしにさえ、すさまじい残酷さのある話でした。王位にのしあがったものの狂気にさいなまれ因果応報のような末路をとげます。 映画は白黒で4:3のアスペクト比に区切ってあります。舞台をみたことがありませんが映画は舞台様式になっています。シーンごとにシンプルな背景が切り替わり人物が前に進み出て台詞をかたります。 その台詞は現代口語ではなく、原著にゆえんするもったいぶった枝葉を、たくさん付けています。おおロミオあなたはなぜロミオなの──みたいな、じぶんの心情を台詞で語るわけです。しょうじきなところわたしにそれらはかなり抵抗がありました。 この映画がどのていど原著と同じなのか/違うのかわかりませんが、もったいぶった台詞から古典に忠実な印象をうけました。 シェイクスピアを映画に翻案したばあい、その解釈によって「新境地を切り開いた」と喧伝されるばあいがありますが、シェイクスピアをしらないと、その「新境地」をうけとるリテラシーがないことになります。 ハックルベリーでは王様と公爵が詐欺まがいの興行で儲けるため筏の上で舞台のれんしゅうをするのですが、ふたりの解釈しているシェイクスピアはたわごともいいところでした。なにしろおっさんふたりでロミオとジュリエットもやるし、ダンシネーンの剣劇もやるしで滅茶苦茶でした。が、王様や公爵の解釈しているシェイクスピアが、庶民のうけとるシェイクスピアではなかろうかと思います。わたしも露台に佇んだジュリエットがおおロミオ──と言うところしかしらないわけですから。 素人の日常ではシェイクスピアを語り合うことは稀ゆえシェイクスピアと出てきたらしっているような顔をしておいてもだいじょうぶ──かもしれません。 兄弟監督の一人が欠けていることに気づきました。なにがあったのでしょう。コーエン兄弟でいちばんお気にはトゥルーグリッドですが、近年はエンタメ色を排して枯淡な作風になってきました。ストイックすぎますが趣味がいいです。黒人のマクベスが特異点になっていると思われますが、デンゼルなので違和感はありませんでした。 Alex Hassellという俳優が演じている側近がいますが本作はかれがキーマンになっているような気がしました。ダンカン王にもマクベス王にも巧く立ち回る役回りでモノクロに濃い顔が映えました。 おそらくもっとも衝撃的なのはコンテンツビジネスにたいするAppleTVの戦略性です。VODにオリジナル映画をぶっこむとき、どうすると思いますか。Netflix、Disney+、HBOMax、Amazon──等々、VOD群雄割拠の今日、ブロックバスターを投入するばかりが脳では他と差別化がはかれません。そこで映画通や批評家にもアピールできるアートハウスを置くわけです。現代、すぐれたオリジナリティに勝る武器はないわけで、それをひしひしと感じる映画でした。
キャサリン・ハンターがヤバ過ぎる!のだが…
とにもかくにも、あの3人の魔女を一人で演じたキャサリン・ハンターが本当にヤバ過ぎる!のだが…
予告編からの期待とおり、冒頭から魔術的で不吉な予感が満載の流石なカメラワーク…
相当ヤバイ映画か?これは?と期待値も一気に高まったのだが…
あのメインキャスト二人は、残念ながらミスキャストだったと思う。
デンゼル・ワシントンは齢65を超え、ここに来て新境地か?と思いきや、結局のところ、今までとおり根が誠実そうなデンゼルにしか見えず…
いくら感情を爆発させたところで、愚かな男の本物の狂気など全く感じることもなく(やっぱり顔が立派すぎるのか…)
三船敏郎やオーソン・ウェルズには遠く及ばなかった。アレじゃアカンわ。
案外、息子の方にやらせた方が良かったかも。
フランシス・マクドーマンドは、舞台でも既に同じ役を演じていたらしく、今回はプロデューサーも兼ねていて、流石の熱演であったが、思い入れ強すぎてか?迫真の演技で狂気を演じている舞台女優にしか見えず、残念ながらマクベス夫人本人として見ることは出来なかった。
コーエン監督、曰く「この作品では舞台のフィーリングを維持することが大事だった」ようで、殆どがセット撮影で(この抽象度を高めたセットのデザインがとても良かった)
台詞の方も元々のシェイクスピアの原作を多用していたが、もっと大胆に映像と音楽で抽象的に語ってしまって、台詞の方はシンプルに現代的にアレンジした方が良かったかもしれない。
その映像と音も如何にもマクベスらしい世界観を表現していて、かなりイイ線はいっていたのだが、コーエン監督も影響を受けたらしい『蜘蛛巣城』ほどの心底ざわつくようなホラー感や不吉で不穏な雰囲気には遠く及ばず…
(まあ『蜘蛛巣城』は、マクベス以上にマクベスとイギリスの評論家にも言われた程だから、あれに匹敵するのは並大抵のことではないと思うが)
あと、最後の方でマクダフと対峙した時の”one of woman born”の件の翻訳は分かりにくかったと思う。
やはり、マクベスは予言を盲信して「女の股から生まれた者には殺されない」と言うべきだし、マクダフは「私は母の腹を破って出てきた」と言わないと。
マクベスを知らない人にとってはストンと腹落ちしなかったのでは?
世界各国の主要都市ではIMAXシアターでの上映だったらしいので、出来れば、日本でもIMAX上映して欲しかった。
IMAXでアノ白黒の映像美を観ることが出来ていれば、より更に引き込まれて、また違った見え方になっていたかもしれない。
映像・舞台芸術の勉強には良い作品
舞台を映像化した映画かと思います。 構図と光は映像にとってこれほど大切なのかと思い知らされました。 モノクロームの写真の参考になります。 アカデミー受賞者の演技は圧巻です。隙が全く無い。 名優たちの演技を見るだけでも参考になります。 会話の情報量がものすごくて、あらかじめ話をかなり読み込んでからの鑑賞をお勧めします。 配信が主体のようなので、ぜひスマホではなく大画面モニターでご鑑賞ください。
コーエン君も最敬礼
不世出の大文豪の超絶作品ですから、さすがのコーエン君もいつものシニカルなく、黒人俳優を多数使った以外は原作に忠実に、なるべく原典の色彩を損なわず、且つコーエン調も織り交ぜて格調高く仕上げたようです。その意味では、概ね成功と言えましょうが、反面筋がわかっているだけにドラマチックやダイナミックは希薄です。なお、英米人には超必読書なので、お話しは知ってる前提ですから、もしあらすじ知らないで見ると結構混乱するでしょうね。
A24 、今作は当たり!
モノクロ、A24 で直近で見たのが「ライトハウス」だったけど、これは私の中では低評価でした。その為今回あまり期待せず行きましたが、、、いやぁ素晴らしかった! シェイクスピアの「マクベス」という文学的側面に加えてモノクロフィルムとシンプルな衣装や舞台が逆に美しく芸術的。リズミカルに流れるような台詞に時にハッとし、人間の汚さと美しさについてあれこれ思考を巡らせる。 正直始めの方は眠かったけど、中盤から挽回! 「女の股から生まれたものには負けない」これ、ポイントですね。 古典文学の舞台を映画で見るのもいい。 お値引きされずの1800円ですが、見る価値はあります!
シェイクスピア作品はあらすじを押さえてから観ようと思いました
途中、寝ました。 芸術性が高いんだよね。モノクロの静かな画面でゆっくり進むから寝ちゃうの。 マクベスってこんな話だったんだ。 展開とか台詞はさすがシェイクスピアだから面白いね。 途中、誰が誰だか分からなくなったけど、まあいいや。 細かなところを楽しむ感じだから、あらすじ押さえてから観るのがいいと思ったよ。
難しかった
作品中盤からストーリー展開に引き込まれおもしろくなりましたが、モノクロ画面の奥行きの広さは実感できるものの字幕が読みにくく、しかも文字量が多いので疲労感が半端ない。 でも面白く最後まで観られました。 登場人物の顔が見極めつかず、この人は誰?という時間が多かったかな・・・
キレイは汚い、汚いはキレイ
全編、格言のような言葉遊びのような、聞くものを惑わす言葉を留めなく浴びせていくるシェイクスピア劇。野外劇のようなシンプルさで進行し、テンポよく物事が展開していく。大まかなあらすじを知っていても、ついつい言葉の意味を解釈しようとしてしまい、ややもすると物語に置いていかれてしまう。むしろ、すじを知っているのだから、モノクロの映像美や所作や言葉のリズムを楽しむっていうのもいいのかもしれない。そう、歴史が苦手が人が講談を聞くようなスタンスで。 そして、一番耳に残った有名な言葉にとらわれる。キレイと汚いの意味するものは何か。誰にとってキレイなのか、汚いなのか。自分にはキレイでも、他人には汚いのか。それは物か、心か。はたまた、魔女に踊らされる人間の、純真さ(けして褒めてはいない)と浅ましさ(けして憎んではいない)か。
マクベス殺人事件
思い返せば、コーエン兄弟は「ブラッド・シンプル」のしょっぱなから犯罪映画にこだわりを持ってきた。(この映画は兄の単独作だが)「マクベス」もまた、ダンカン王殺しという犯罪をテーマにした作品である。“森が動く”とか“女から生まれた者”などのキーワードによるミスディレクションを巧みに用いつつ、破滅への運命をたどる主人公を冷徹に描いていく。
「マクベス」の映画化作品は、黒澤明とロマン・ポランスキーによるものを見ているが、今回の作品が最も演劇的だ(オーソン・ウェルズ版は見ていない)。背景は書き割りのように人工的で、台詞も修辞に彩られた原作の言葉をほぼそのまま移しているようだ。シェイクスピアの台詞は通常の会話の3倍くらい濃密で、聞き流しを許さない。
マクベス夫人は原作ではどのくらいの年齢の設定なのだろうか。フランシス・マクドーマンドと、ポランスキー版のフランチェスカ・アニスではかなり年齢の差がある。
コーエン兄弟のモノクロ作品は「バーバー」以来か。本作の上映はまったく予期していなかったので、ファンとしては嬉しい驚きだったが、いかんせん渋すぎた。既報のロス・マクドナルド原作の「ブラック・マネー」の映画化の話はどうなったんだろう?楽しみにしていたのだが。
ちなみに、ジェイムズ・サーバーの「マクベス殺人事件」では、ダンカン王殺しの犯人はマクダフまたはマクベス夫人の父という説(?)が唱えられている。
シェイクスピアは常に新しい
シェイクスピアの戯曲はレトリックを多用して、言葉遊びのようでもある。同じ言葉を繰り返しているようで、少しずつニュアンスが変わっていったりする。音楽で言えばラヴェル作曲の「ボレロ」のようで、同じメロディの繰り返しのようでありながら、楽器の組み合わせとボリュームが変化することで、徐々に盛り上がり、最後はすべての楽器が参加して壮大な楽曲となる。 「女の股から生まれた者はマクベスを倒せない」というのは、シェイクスピアが本作品に仕掛けたなぞなぞのような有名なレトリックだ。こういう台詞があるから、シェイクスピアの芝居は一言一句を聞き逃がせない。本作品の鑑賞後は誰もがぐったりとするだろう。 シェイクスピアの物語は一般に性格悲劇と呼ばれる。人生に躓くのは性格に由来するということを基礎にしてストーリーを積み上げていく。世界観は単純明快で、人間の欲望には際限がない。欲望に従って能動的に行動する人と、運命を受け入れる受動的な人に分かれる。権力者は当然ながら能動的で欲望に素直であり、支配される人々は禁欲的で状況を受け入れる。ドラマは前者の側にあり、それは常に悲劇である。 本作品の主人公マクベスの場合は、簡単に言えば気が弱かったということだ。気が弱い人というのは、想像力に優れている人である。最善の事態から最悪の事態までを広く想像することができて、最悪の事態を恐れるあまり、気が弱くなる。 しかしいざとなれば火事場の馬鹿力を出すことができる。それを何度も繰り返すと慣れていって、ポテンシャルが上昇する。マクベスは体格がよくて運動神経も優れていたのかもしれない。人を殺すことに慣れて戦場で勇名を轟かせる。しかしそれは大義名分に裏打ちされた勇名だ。本来は気が弱くて権威に弱いマクベスは、臣下でいるうちは能力を発揮できたはずである。妻に唆されたとはいえ、大義名分のない自分の行為を恐れ、自省し、悪い想像に慄く。その上、王は気にする必要さえない群衆の視線まで気にする。気の弱い人の典型のような人物である。 気の弱い人は百面相のように表情が豊かである。表情が豊かであるということは人間的であるということだ。デンゼル・ワシントンはまさに気の弱さを表面に出して、表情豊かなマクベスを演じてみせた。人間的な魅力に溢れている。 マクベスを悲劇に突き落としたのは、気の強い妻だ。気が強いというのは想像力が偏っている人のことである。想像力が劣っていると言ってもいい。自分に都合のいいようにしか予想しないし、事態が悪化しても動揺しない。そして自分の選択を絶対に反省しない。他人が酷い目に遭っても気にしない。マクベスの妻はマクベスが殺されても気にせず、どうすれば自分が有利になるかだけを考える。気が強いということは、ある意味で人間性に欠けているということでもある。 気が強い人は能面のように表情が変わらない。表情が変わらないということは即ち非人間的だということである。フランシス・マクドーマンドがまったくの無表情で演じ続けたことにはそういう意味があった。人間的な魅力も何もない、恐ろしい怪演だった。見事である。 マクベスの悲劇は、そういう時代だったからではない。たとえば経営手腕に優れて人格的にも尊敬できる社長がいるとして、その会社の社員に、社長を殺したら代わりに社長にしてやると言っても殺す人はいないと思うが、一億円やると言ったらどうだろう。殺そうとする人がいるかもしれない。十億円だったら殆どの人が完全犯罪を模索するだろう。マクベスと何の違いがあろうか。 いつの世も人は悲劇を生きる。あらかじめ死ぬことが決まっていてこの世に生を受けるのだ。悲劇以外の何がある。しかしいつの世も演劇や映画で悲劇が上演され、上映される。そして人は悲劇を観ることで、自分の悲劇を相対化することができる。そこで漸く精神のバランスを保つのだ。 古いは新しい、新しいは古い。シェイクスピアは常に新しい。
苦手
6本目。 芸術性、映像、演技力は言う事なし。 でもそうだ、マクベスってシェイクスピア。 セリフのクセが苦手。 オリジナルはオリジナルで大事だとは思うけど、崩そうと思わないのかな? でもそれじゃ、シェイクスピアじゃなくなるのか。 面倒臭い。
全30件中、1~20件目を表示