劇場公開日 2023年1月27日

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幾多の北のレビュー・感想・評価

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3.5山村監督自身の「深層心理」を剥き出しにして、「動く画集」として呈示してみせたパーソナルなアニメ。

2023年1月30日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

先日、渋谷で短編アニメーションの映画祭を観た際、そのうちの一本、和田淳監督の『半島の鳥』がオタワ国際アニメーション映画祭の短編部門でグランプリを獲ったという話があった。
そのときの長編部門のグランプリが、山村浩二監督の「幾多の北」だったという話も併せて聞き知っていて、実はちょっと気になっていた。
そうしたら、ちょうど新文芸坐で三日間だけの特集上映があるというではないか。
ちょうどいい機会なので観に行こうと早速ネット予約をとったわけだが、いざ足を運んでみたらなんと「満席」!
久しぶりにミニシアターで満席とか見たよ。すげえ!

僕は『頭山』くらいしか山村監督の作品を知らないが、『幾多の北』は、ああいった「ストーリー」主導で見せてくれるような映画ではまったくない。
文芸誌『文學界』のカバーを飾ったイラストを用いて、アニメーションとして再構成した実験的な作品であり、悪夢的なヴィジョン(夢の断片)の再現という意味では、黒澤明の『夢』とか、このあいだまでやっていたフィル・ティペットの『マッドゴッド』なんかに近いかもしれないし、アート・フィルム的な側面でいえば、パトリック・ボカノウスキーの『天使』とか、ブラザーズ・クエイの諸作品とかに似たテイストもある。
個人的には、夫婦者の旅路にしたがって、「動く絵」の中の世界を順番にめぐっていくような作りは、ムソルグスキーの『展覧会の絵』を強烈に想起させるところがあるようにも思う。

この山村監督の絵画世界というのが、実に独特で味わい深いものなのだ。
ノリとしては、イヴ・タンギー、ジョルジュ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、オディロン・ルドン、フランシス・ベーコンあたりを彷彿とさせる、「シュルレアリスム」×「実存主義」的なテイストがベースとなるのだが、そこにヒエロニムス・ボスからのあからさまな引用や、海外アートアニメからの影響、石田徹也とか多賀新とかヒグチユウコとか遠藤彰子とか伊藤潤二あたりを思わせるような国内で醸成されたと思しきハレーションや、彼独自の「呪物」の導入などもあって、間違いなく「山村監督だけの作品世界」が立ち上がっている。

冒頭の一枚絵には、本作を通じて繰り返し登場することになる呪術的なモチーフが、てんこ盛りに描き込まれている。水をたたえて底から長い根を延ばすグラス、同様に竹馬のような根の上に立つ人物、ラッパ、耳、ウサギ、ハサミ、複数の穴の開けられた石≒頭……。
男が顔をめり込ませる机の上には、こびとのような白黒の凸凹二人組がいて、山村監督いわく二人は男のアルターエゴとしての「夫婦もの」らしい。
二人は羽根ペンを引きずりながら、喪われた男の記憶を求めて、様々な「一枚絵」の世界を狂言回しのように旅してまわる。引きずった地面に痕跡を残す羽根ペンは、「記憶」「記録」を象徴すると同時に、絵画制作や詩作といった「芸術活動」と、それを実際に行う「手」の象徴でもあるのだろう。
(途中で挿入される羽根ペンと手の絵は、まさにエッシャーの『描く手』を想起させる。)
すなわち、喪われた記憶と夢の断片を拾い集めて回る男の分身は、そのまま芸術家・山村浩二監督自身の分身でもあるということだ。

全編を通じて印象的なのが、はりめぐらされた「糸」の描写だ。
山村世界のキャラクターたちは、常に「根」や「糸」や「布」や「包帯」で拘束され、行動を制限されている。
月と思しき球体から逆さ吊りにされている、罠にかかったかのような男。
水のなかに糸でぶらさがる「歯」と、糸を切られて水面に浮かぶ上がる女。
(顔だけ出して流れていく女のイメージは間違いなくオフィーリアがネタ元だ。)
安全ピンでつけられた羽根を羽ばたかせる男も、巨大な骨につながれた男も、顔にかけられた布で後ろ向きにひっぱられている。
『幾多の北』のなかで、糸は「つながる」ものでもあり、同時に「拘束する」ものでもある。
同様に、根は「延びていく」ものでもあり、「絡みつく」ものでもある。
登場人物たちは、世界とつながろうとしては、絡めとられる。
あるいは、軛から逃れようとしては、絡めとられる。
一方で、世界から切り離されたように見えても、細い根で大地とつながっている、ということもある。

それから、「虫」の描写も印象的だ。
耳の形の虫(これはボスの「耳戦車」のようなグリロスが元ネタだろう)。
膀胱のような袋に羽根の生えたノミのような生物。
鳥かコバエかわからないような小さな羽ばたきの群集。
机の裏にみっしりとへばりつくカタツムリ。
トークショーで山村監督は、うまく言語化できないが、何かしら近くにいるのはわかっているのに触知できない得体の知れないもの、妖怪とか怪異のようなものの延長として「虫」が入り込んでくる、みたいなことをおっしゃっていた(ような気がする)。

個人的には、ヒエロニムス・ボスが卒論のテーマだったので、明快にボス由来と思われるシーンには、ちょっと胸の動悸が高まるのを抑えられなかった。
顕著なのは、「小さな綻びから液体が漏れないように常に袋を修理している」のところに出てくる、巨大な袋と、同じ形をした作業用ロボットのような小袋軍団。
あれはまさに、ボスのグリロスとバグパイプが一体化した存在だろう。
トークショーで中条先生はこれに「原発事故」の寓意を読み取っておられたが、個人的には、穴から水を吹きだす袋というのは「放尿」の放物線ともつながっていて、ボス/ブリューゲル的な糞尿趣味とも直接結びついたビジュアルイメージではないかと思わされた次第。
あと、「失ったフレーズを探す旅」のところで出てくる、サーカス団の要素を巨大化させて散りばめたような幻夢的世界は、ボス『快楽の園』の「音楽地獄」を「サーカス地獄」に翻案したものだろう。とくに、巨大なピエロの頭の回りのツバを歩くグリロスと、その次のシーンの寄り集まった根の上にガラクタが凝固している絵柄は、ボスの「樹木人間」(ツリーマン)の転用かと思われる。

その他、タンギー/デ・キリコの作品世界につげ義春が交じり込んだかのような、『沢山の穴の空いた石』の絵や(穴の空いた無機質な石は、頭蓋骨のイメージと直結し、さらにはメインビジュアルのスカートをはいた女の顔へと結びつく)、
吊り上げられていく鯨の巨体や(直前に上映された『ホッキョクグマすっごくひま』から引き込まれて殺されたかのようだ。さらには、砂漠に剥き出しで放置される巨大は骨格も、あれは鯨か?)、
燃え上がる傘、ラッパに落ち込むウサギ、蠅人間のようなボールを被った裸人間など、インパクトのあるビジュアルイメージが、それこそ奔流のように次々と押し寄せてくる。

それらすべてに共通するのは、漠然とした「不安」と「不穏さ」への言及だ。
アルターエゴを探求する研ぎ澄まされた感覚。深層心理へと切り込むダイブ。
そこで見出される、監督自身の抑えがたいトラウマやフォビア。
「災害」「社会」「権力」「大きな物語」「対人関係」「仕事」といった、「外」のものとかかわる(つながる)ことに対する怯え、惧れ。
得体の知れない恐怖心と裏腹の、溢れかえるようなノスタルジーの噴出。
本作では、山村監督の「脳内」が、幻想的な「動くイラスト」と化して、生々しくもスタティックにフィルムに刻印されている。
鳴っている音楽はとがっているし、音量もかなりうるさいが、映像世界それ自体は、おおむね平穏で、どこまでも静的だ。同時にそのテイストは、かなりニューロティックでほの暗くもある。
それは、ある意味、山村監督のプライベートな「惧れ」や「憧れ」をそのまま刻印した、「心象風景そのもの」ともいえるヴィジョンの集積であり、山村監督が本作を「一番パーソナルな感覚を出した映画」と呼んでいるのは、まさにそういうことだと思う。

個人的に、この映画を観ていて特に「ぎょっ」とさせられたシーンが三つあった。

まず、もっとも衝撃的な「ヴィジョン」として、長い竹馬のような針金状のものの上に立って歩いている連中と、心臓のようなものをぎゅっと握って拍動させるたびにパルスが走るシーンが挙げられる。
長く続く竹馬状の足は、サルバドール・ダリの『目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢』に出てくる象や、サーカスの曲芸に出てくる竹馬男あたりを想起させるが、ひとかたまりのビジュアルイメージとしては、一番のインパクトを感じた。

それから、波止場で並んで座る老人と子供の、子供のほうが唐突に、ホタルイカのようにブツブツの光点を光らせ始めるショット。あれは、マジで怖かった(観ていて思わず「怖っ」て声が漏れた)。
そこまで徹底して幻想的なシュルレアリスム的絵画を並べてきたところに、ここで初めて「リアルな波止場の情景」を出してきて、気分がぐっと変わった直後に、唐突にぶっこまれる「明滅する子ども」。油断していたから、ぐわっと来た。

あと、なんといっても、「一枚絵の部分的アニメーション」を延々羅列してきた長い時間ののちに遂に訪れる、クロッキーのような粗いデッサンがぐるぐると動き回る「真のアニメーション」シーン。
あれは、いままで溜めに溜めてきたエネルギーがひと時に爆発するような圧倒的な瞬間だった。
これまで何度も繰り返し登場した様々な「呪物」が、形態を千変万化させ、動き続ける。荒ぶる魂。荒ぶるタッチ。回転しつづける3Dのメタモルフォーゼン。
今まで、絵の内容とどれくらい連動しているのかイマイチよくわからない感じだった文字テクストのポエムも、ここに至ってぐわっと詩的に高揚し、動いている絵とわかりやすく「同期」し始める……。
いやあ、しびれました。

そのあと、銀河鉄道の夜のようなシーンを挟んで、ラストのバーとタンゴのノスタルジーへとたどり着くのだが、総じて「不安と恐怖」に苛まれたニューロティックなひりひりとした感覚に終始してきたわりに、「アニメーションの爆発」以降はだんだんとそのひりひり感が薄れて、それなりに穏やかな気分で幕を下ろすことができた感じもする。

決して観ていて「楽しい」映画ではないし、「観やすい」映画でもないが、
生々しい心象風景を剥き出しに呈示するクリエイターの覚悟には胸を打たれた。
しょうじき、60分はちと長いが、なかなか進まずに疲弊していく感覚も含めて、本作の鑑賞体験ということだろう。

最後に、上映後に行われた山村監督ご本人と、中条省平先生のトークショーは、30分とは思えないくらい充実した、知的好奇心をそそる内容で、中条先生の理路整然とした話の進め方も含めて、おおいに敬服させられた。
また、『幾多の北』自体は難解で多義的な作品だが、実は山村監督は「考えに考え抜いて理詰めで作り上げる」タイプだということがよくわかったトークショーでもあった。
「震災後に感じた負の感情」をそのまま作品に反映させている以上、敢えて「パッとわかる/解決する/理解できる」ような話にはならないように心がけたといった趣旨のことをおっしゃっていて、なるほどなあ、と。
要するに、敢えて曖昧な部分や多義性、解釈者によって変動する要素を残すようにして、作品を仕上げたということだ。
また、使ってみたいフォントが先にありきで、そのフォントに旧字しかなかったので、旧字表記になったとか、それだと普通の人には読めないから、旧字にはルビをつけたとか、興味深い裏話がいろいろ訊けて楽しかった。

でも、トークショー終了から、次の『ファニーとアレクサンデル』まで15分しかなくて、昼飯食べる時間もなく、サイン会に参加する時間もなかったのは、さすがにどうかと思ったなあ……。

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じゃい